無題

ダイヤモンドは砕けない(読了:エンドロールは流れない)

アルストロメリアのイベント、よかった。


僕はシャイニーカラーズを「オーディションを勝ち抜くシミュレーションゲーム」としてやっていくことはリタイアした。「お気に入りのカードを引くためのガシャゲー」のジュエルを稼ぐ手段としてその要素は避けて通れないけど、そこもグッとこらえようと思うぐらい、目押しと編成とスキル性能を詰めていくあのゲームシステムが、どうしても嫌いだ。

「イベントコミュ」と称されるそれは完全に文学で、「ビジュアルノベル」として確実に最高峰のビジュアルで、ノベルなので、それを読んでいくゲームとして愛していきたいと思う。

以降はネタバレというか、「アルストロメリア」なる女性集団に触れて、理解して、「薄桃色にこんがらがって」を読むか、理解するかした人にしかわからないことを書く。

アルストロメリア観は各々でメンタルがぐちゃぐちゃになるぐらい考えていると思うのだけど、彼女たちが個性を活かして息をあわせて演ってくれている「音楽ユニット」としてのアルストロメリアの表現、このめ~っちゃかわいい世界観、本来これだけでもおつりがくる行為なのだけども、主軸のビジュアルノベルとして「アイドル大崎甘奈、大崎甜花、桑山千雪」の私生活や内情を描写してくれている。このことへの感激と感銘をまず示しておきたい。

で、僕がシャイニーカラーズで最も重きを置いている「アルストロメリア」について、ユニットとしての神性(ノルニルのモチーフ)や姉妹百合をぶちこじらせた感じの良さは言うまでもないところなのだけど、ステージや作品として観客に見せびらかされていないところ。要するに「メンバーとしてのつながり」という意味では、かなりめんどくさいんだろうなと思っていた。ほかで例えるとシンデレラガールズ、「CANDY ISLAND」よりも、「あんきら」のつながりの方が強いし、見ごたえがあるよね、という感じ。
"関係強度"でいうと三村かな子と緒方智絵里が仕事(課題)に取り組んで打開してきた絆に対して、双葉杏は見えている者(隠者・賢者)として俯瞰的な立ち位置だし、その三者でのやりとりとなると、当たり障りのないふわふわっとした、「女社会」をうまくやっていく間柄から、すこし同調圧力のボリュームを下げて、協調性を上げて効率化したまとまりを作る、という双葉杏の見えざるマネジメントやフロアコントロールが働いている印象になる。

さらにほかで例えると「CANDY ISLAND」は同等・互角のポテンシャルのアイドル2人に、規格外の能力(知性)を有する双葉杏が組まれている、「ゴン&キルア feat.ヒソカ」のようなチームの取り組みだとすると、「あんきら」は同等のオーラと戦闘力で組んで打ち合う「イルミとヒソカ」というような強さを感じられる。これはチームとしてどっちが強い、エピソードとしてどっちがエモい、そういう比較議論ではなくて、パワーバランスで「組織」への見方や、受け手の味わい方が変わってくるという話。双葉杏が、かな子ちゃん智絵里ちゃんが課題にぶち当たって四苦八苦して成長して打開して達成していくのを眺めながら、「やるじゃんふたりとも……」とゾクゾクしている構図があるならそれはそれでおいしいエピソードだし、そういうチームなのだ。

今回のアルストロメリアはそういう「女社会あるある」の、瘴気を含んだもやもや感、「あること」は知っているけど誰も口にしない、女性が数人集まると確実に発生する気の遣い合いと同調圧力、突如訪れるパワーバランスの誇示。出し抜きが始まって、順位がついて結果が決まって終わる。現実でも毎日どこでも起こっていることを、「アルストロメリア」で起こす、という試み。これは3人をより強くする儀式だと感じられたし、「それまで」の関係性は、言っちゃあなんだが系統の近い子たちで甘いもの食べてて可愛いね、だけでいい、それの質がスッゲーいいから、逆にそれ以上の進展を望めない、それが甘奈さんのテーマ(ずっとこのままでいたい)でもあって、視聴者がウオオオッてなりながら甘~い地獄で輪廻するという芸術だった。

それはある意味で「かわいい姉妹とお姉さん」を寄り集めた時の様式美のようなものであって、生き生きとした人間模様を描写するときには「放課後クライマックスガールズ」のような、闊達で溌溂として、明け透けで屈託のないチームのほうが好ましく感じられることが多かった。アンティーカの新規描き下ろしイラストのポーズがセーラームーンっぽい、という話題の時に放クラがプリキュアとかいろいろ言われている中でアルストロメリアに「CLAMP」って書かれていて、うわ~ めっちゃわかってしまうわ~ と思ったのだが、"おしゃん"な構図を作り上げられすぎているので、話が面白くなくても「それが"おしゃん"なCLAMPだしなあ……」って思わざるをえなくなる現象まで含めて納得してしまった。(CLAMPは見た目だけじゃなくて面白いと思う話もちゃんとある)(なんの弁解だろう)

チームの関係性や見せる・受ける印象について。「放クラの樹里さんと智代子さん」が「それ町の紺先輩と歩鳥」に激似、という持論があるのと、日常と熱血とアクティビティの親和性とバランスが強烈にいい。「かわいいこち亀」を読んでいるような良さがある。下町の庶民的な感じと、ぶっ飛んだ金持ちの奇天烈な感じと、それぞれの持つ強烈な個性を「放課後」というイデオロギーでまとめて美少女ヒーロー戦隊に仕上げているというパッケージがたまらないわくわくをもたらしてくる。
ヤッターマンそのものを見たことはないのだけど、ドロンジョ様が率いるドロンボー一味的な、「悪役特有の本音と冗談でまとまっているチーム」が大好きで、放課後クライマックスガールズにはどこかそういう雰囲気や、それができる素地のある集団だったので「組織として大好き」だったのだな。

それらを踏まえて「アルストロメリアの進化・深化」がこのたび展開された、と考えると結構とんでもないことになったなあと思えてきた。CLAMPのような「キャラクターデザイン」だけで100点がとれて、現実感のない神秘的な世界で微笑みをたたえている時空の女神たち、という感じの乙女的世界観が、「実在する、女性特有の、ぎこちない、本音を言えない薄桃色の霧」を如実かつ明確に描いて、ようやくそれらのパープルヘイズを振り払う英断というエピソードがもたらされた。対立でも喧嘩でもない。「ぎこちなさ」を、脚本で、表情で、モーションで、声の演技で、完璧に表現されているのもヤバい。千雪さんの「大人の女」だからこその葛藤、ここでいう「大人の女」というのは、倫理観や物事の分別が成熟して達観の境地に至った「超人」という意味ではなく、「若い女」であるという絶対領域を抜けたあとの、23~29くらいまである、社会においてその年頃の女性がしなければならない振る舞いというものに迎合・順応して、「年相応の落ち着きがあります然」としていなければならないよ、ってのをやってますよ、っていう「大人の女」の、自分でも自分がめんどくさいし、実は人から見てもめんどくさいんだろうな、ええわかってますよ、っていう「大人の女」という描かれ方も、リアルを超えた深い理解で作り込まれていてヤバい。読んでいるだけで脳に重めの生理がきてしまった(これはブラッド・ジョークです)。

その「大人の女」による決意の強さ。それを向けられた「勝利内定の女子高生」の心境。これは「女子高生」を絶対的強者としている価値観(僕もそう思う)だからこそ、よく考えないとわからない、決意を向けられた強者・勝者の立場で感じてみないとわからない「恐怖」の描写だと思う。閉じた価値基準で、なんなのかよくわからないフィールドの空論になるけど、たとえば「女性価値」というゲームの中でも女子高生というのは「最強のカード」で、「自分が最強のカードであるという自覚がない」というのがその強さの根源であったりする。JK=最強という価値基準を理解して行使しはじめるとそこに穴、油断や隙が生じるので「自覚」をしたときに絶対無敵の効力を失うカードなのである。それでもエースぐらい強いし、千雪さんもクイーンぐらいなので、「ついている勝負」ではあるのだけど。それでも甘奈さんは「自分が最強のカードである」という自覚がないし、「エースぐらいある」という認識もないまま、2~9くらいの手札かもしれない、千雪さんはQで戦うという決意を向けてきた。「大崎甘奈が勝つ」と知っているゲーム。で、プレイヤーの甘奈さんに見えているのが、「Qを向けてきた桑山千雪」という恐怖。というハートのインディアンポーカーを見ている時の感傷なのであった。

この話には王子様がいた。
「女社会のやりづらさ」や「言いたいことの言えなさ」など、うまくやっていこうという息苦しさに対してPOISONを投げかける役割を甜花ちゃんが担ったというのが劇的に良かった。あそこは世界を変える役割というか、「そんなんなら、やめちゃえよ!」とか、別の視点から価値観をぶっ壊しにくる立場って、いわゆるイケメンだったり、「優れた者」に任されることが通例というかセオリーだと思う。悩んでいる主人公・ヒロインに対して、解放の一手をもたらすキャラって男女問わず「王子様」で、「勇者様」で、そういうヒーローが誰かに手を差し伸べる時、「ヒーロー」の懊悩や葛藤はだいたい推し量れないものである。だからルフィやナルトは誰かを無神経で・能天気に・救うことができてきた。のだけど、今回のその勇者様はあの「甜花ちゃん」だったんだよな、と思って泣いてる。甜花ちゃんは外側(主に甘奈さん)からのカワイイという評価の圧がものすごいので「かわいいもの」だと思ってしまいがちだが、桃花眼で怠惰でむやみに人を狂わせている……という性質を鑑みると「イケメン」とかの形容の方がしっくりくる人格と顔貌だと思っていたので、今回の「女の戦い」に最初からプレイヤーとはならない。サポーター・オブザーバー・最終的なフィクサーともなり、しかもそれが、すべてを理解していて上手にコントロールする理知たる皇帝ではなく、間の悪さと不器用さで奮闘しながら、愛をもって霧を払う正義の勇者さまであったことと、甜花ちゃんなりの極限状態で二人共への愛を叫んだこと、3人でアルストロメリアだ、ということの本当の意味を明確にした王子様であったことに感涙しきっている。め~っちゃかっこよかった。

今回の件で、ふわふわゆるゆる深いとこ踏み込まないストロメリアから、言いたいこと言うストロメリアになっていったらそれは今まで想像も期待もしていなかった人間関係の変化だし、もう「求めているかわいいもの」を超えるし裏切るし、驚嘆させられていく恐ろしき女神たちになっていってしまう。そのとき一番キレのある本質をバンバン言ってくの甜花ちゃんだと思うし、天性のヒモ・大崎甜花は、この交際から共依存を取り払った時、関係がどう変わっていくかを考えながら動いている。という思慮があることを僕は感じ取った。そして甜花ちゃんは変わろうとしている。「3人でアルストロメリア」、反対ごっこの「一番大事じゃない」という野比のような決意。
今のままではない、「なーちゃんが安心して未来にすすめる」ような自分になりたいのかもしれない。


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