第136回 デストロイ・オール・モンスターズ


「かわいいは正義」と言われるようになって久しい。

そもそもこのフレーズは、2001年から連載された『苺ましまろ』という漫画のコピーとして用いられた「かわいいは、正義!」が元である。5人の少女たちの日常を描いたこの漫画は、アニメやゲームにもなって人気を博したが、5人のうち4人が小学生であることもあり、当時は比較的ロリコンの文脈でとらえられていたと思う。
その後ロリィタ・ファッションが台頭するにつれ、「かわいい」という概念が特別な意味合いを持つようになってくる。「かわいい」は絶対的な価値基準として「カワイイ」となり、海外に進出後「kawaii」として定着する。2009年には青木美沙子氏が、外務省に任命されたカワイイ大使として世界にロリィタを広める活動を開始し、ファッションのみならず日本の漫画やアニメもサブカルチャーとして多くのファンを獲得した結果、現在では外国語の辞書にも「kawaii」という言葉が掲載されるようになった。

「かわいい」という形容詞の元々の語源は、「かわはゆし(顔映ゆし)」と言われている。「はゆし」はまぶしいという意味で、相手の顔をまぶしく感じるということから「恥ずかしい」という意味となり、語形も「かわゆし」になる。やがて見るに忍びないということから不憫といった意味が生じ、平安時代後半には小さきもの(女性や子供のような弱者)に対して愛らしく感じるという意味を持つようになり、語形も「かわいい」に変化していく。
本来かわいらしいという意味を担っていたのは「うつくし」という言葉であったが、こちらは現在では「綺麗である」という意味に変化している。
今では小さきものや年下に対して使うばかりではなく、ありとあらゆるものに「かわいい」は用いられる。それはもう形容詞という範疇を超えて、対象に対する感情の吐露としての感嘆詞的な役割といってもいい。
「これ、かわいいよね!」「うん、かわいい!」「えー、やだ、かわいい」と、「かわいい」だけで会話が続いていくことがあるくらいだが、そうかといって「かわいい」に変わる言葉があるかというと、これがなかなか難しい。美しいやキレイは違う、素敵というのもなんだかしっくりこない、やはり「かわいい」のだ。そしてその基準はもはや客観的な「かわいい」を超え、極めて主観的なものとなっている。他人が気持ち悪いと思うものでも「キモカワ」、グロくても「グロカワ」となれば、もうその人にとって好ましいものは全て「かわいい」で良いのである。

確かに人生においてかわいいものは大事だと思う。実用性や利便性を追求するだけでなく、ただかわいいというそれだけで愛でる心性は少女性にも通じるものだ。
しかしこと容貌に対してこのフレーズを用いた際には、それは呪いとなる。
そもそも他人の容姿をとやかく言うこと自体下品なことなのだ。フィンランドでは幼少期からそれがマナー違反であるということを叩き込まれるそうだ。容姿を貶したり貶めたりするだけでなく、褒めることもマナー違反なのである。よく考えればそれはそうだ、他人の容姿をジャッジする権利など誰にもないのだから。
誰かを「かわいい」と評することも同様である。かわいいと言われた人以外はかわいくないのか。かわいくなければいけないのか。かわいいが正義なら、かわいくないことは悪なのか。
「かわいいは正義」というフレーズは、無自覚に使用するとこのように呪いとなって我身にかえって来る。呪いはモンスターのように襲いかかってきて、心を蝕む。もっとかわいくならなければ、もっとかわいいと言われるようにならなければと。

ともすればかわいいことと若いということが同義のように扱われがちなこの国だが、かわいいは別に年齢とは関係がない。
外見については言うに及ばず、かわいいものを愛でることもかわいいものを身につけることも、男女問わず何歳であれ好きならそれで良いのだ。それを揶揄したり馬鹿にしたりすることほど、かわいくないことはない。
可愛げというのも本来、愛想良くしたり一歩下がって遠慮したりすることではない。可愛げという言葉は「可愛げがない」というように否定的な使われ方をすることが多いが、そんな他人の勝手な基準に依らず、大いに可愛げなく生きたい。

「かわいいは正義」という言葉が、少女の呪いにならないようにと願う。
肥大した自己承認欲求に押しつぶされることなく、他人のジャッジに委ねることなく、自分自身の「かわいい」を見つめ直したとき、「かわいいは正義」は少女のお守りになる。


登場した言葉:キモカワ
→オオサンショウウオはキモカワだと思う。
今回のBGM:「美人」by ちゃんみな
→かわいいも美人も強制されるものではない。超絶格好良いMVの衣装協力はなんと危機裸裸商店!

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