第70回 すべて緑になる日まで


小学校5年生の時に1歳年上の友人ができた。彼女はかなりの漫画好きであった上に、今思い出してもその年齢では考えられないほど漫画を描くのが上手かった。それまで私は漫画をあまり読んでいなかったのだが、彼女に影響されて少女漫画を読み始めたら瞬く間にそれにはまった。
ちょうど池田理代子の「ベルサイユのばら」が連載中で盛り上がっていた頃であり、山岸涼子の「アラベスク」や萩尾望都の「ポーの一族」、竹宮恵子の「風と木の詩」や大島弓子の「綿の国星」など、それまでなかったタイプの少女漫画が次々と掲載されていた時代である。24年組と呼ばれる個性的な作風の少女漫画家たちが次々とデビューして、それぞれの雑誌ごとに作家のラインナップに特徴があったものだった。
そして1974年に白泉社から『花とゆめ』が、1976年に『LaLa』が創刊される。そこでは坂田靖子、山田ミネコ、木原敏江、森川久美、三原順、そして内田善美といった、実に個性的な作家たちが文学的な作品を次々と発表していた。

毎週毎月おこづかいを全部つぎ込んで雑誌や単行本を買い込み読みふけっていた私は、中学校に入るあたりから友人に倣って自分でも漫画を描き始めた。友人は中学生でありながら作風から絵柄から物語までプロはだしであったが、もちろんこちらは素人の手習いに過ぎないレベルである。それでも怖いものなしであったため、一緒に同人誌を作って活動していた。
友人は豊かな物語性に加え確かな絵心があったので、立派に読むに耐える作品を寄稿してくれたのだが、それに比べて自分のは、Gペンやスクリーントーンなどいっぱしの道具を揃えてもデッサン力はなく、ストーリーも拙いものであった。当時はもちろん同人誌の印刷など一般的にはできず、また予算もないのでコピー誌が精一杯であったため、実際たいしたものは作れなかった。それでも同人誌を作るということ自体が楽しかったことはよく覚えている。
彼女はいろいろあって、結局のところプロの漫画家としてデビューすることがないまま疎遠となってしまった。いまでも彼女の作品が世に出る機会がなかったことをとても惜しくまた悔しく思っている。今も彼女は漫画を描いているのだろうか。描いていてほしいというのは、私の我が儘な願いでしかないが。

1979年にビクターから萩尾望都が作詞作曲歌唱をしたLPが発売、今で言うところのレコ発インストアが開催されたことがある。そのイベントに出かけたところ、入場列にチラシを配って歩いている男性がいた。米澤嘉博、コミックマーケットの創設者である。彼が配っていたのが「コミックマーケット準備委員会」の開催チラシであり、その後第5回目の大田区産業会館で開かれたコミケに初めて私は買い手として参加する。
コミケはこの後何回か行っただけで、結局売り手としては参加することなく、会場が晴海に移った頃からはもう行かなくなってしまったが、その当時からは現在のこの隆盛は想像できなかった。同人誌を巡る状況も随分遠くに来たものである。

今も昔も少女漫画の王道はボーイ・ミーツ・ガールであり、私が好きだった/好きな少女漫画のような内容はどちらかといえば少数派だろう。少女漫画と言って「目に星が飛んでいる」と言い慣らされたステレオタイプの絵柄を思い浮かべる人は、今も多いと思われる。少女漫画・少年漫画という区分けもどうかと思うが、それはさておきあの頃の少女漫画誌には、楳図かずおや和田慎二など男性漫画家も結構掲載されていたり不条理なギャグ漫画もあったりと、今思えばかなり尖った内容であった。
好きな漫画家の嗜好から学んだ文学や絵画など、文化的な意味での世界を広げてくれたのは確実に少女漫画である。そして多感な時代に読んだある意味異端の作品たちは、私の少女の概念を形成する強力な柱になっていることは間違いない。


登場した漫画家:三原順
→「はみだしっ子」シリーズでは幼児虐待や発達障害、「Xday」などでは原子力や環境問題を扱うなど、その先鋭的社会的な視点は当時から異彩を放っていた。夭逝されたのが惜しまれる。
今回のBGM:「Made in Heaven」by Queen
→中学生の時Queenに夢中だった。今でも一番好きな楽曲は最初に聴いた「Killer Queen」なのだが、フレディーが亡くなってから発売されたこの最後のアルバムのタイトル曲は、自分の葬式に流してくれるように頼んである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?