第96回 かもめ食堂


ミナペルホネンを一度で覚えられた人を、私は尊敬する。
未だにミナベルホルンだったかミルベルホネンだったか、わからない。いや、どちらも違う。濁音ではなく半濁音だというのにも驚愕した。そもそも日本のブランドだとは思っていなかった。正式には「ミナ・ペルホネン」と、間に点まで入る。
ペルホネンというのはフィンランド語で蝶の意味だそうだ。このブランドの商品名の多くはフィンランド語から取られているという。絶対に覚えられないと思う。しかしフィンランドのブランドであるマリメッコやノキアやホンカはすぐ覚えられたぞ。変な話だ。
『フィンランド語は猫の言葉』というエッセイの名著があるが、フィンランド語は15もの格を持つ難解な言葉で、動詞の後に6種類の人称語尾が付き、それがまた変化するので、一つの動詞につき100通り以上の変化形があるというのだから、やはり無理かもしれない。
以前吸血鬼について書いた時に引き合いに出した本『モールス』は、スウェーデンの作家、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの小説だが、彼の作品に出てくる登場人物の名前の見分けがつかず苦労した。ちなみにスウェーデンとフィンランドは地理的に近く、同じ北欧としてカテゴライズされるが、スウェーデン語がインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派であるのに対し、フィンランド語はウラル語族であるため、全然異なる言葉である。

外国語ではなく日本語でも、結構勘違いや覚え間違い、そして聞き間違いというのは起こり得る。以前TVで「空耳アワー」という番組があり、いかにもあるあるという例が沢山紹介されていた。
父親は東京の下町言葉を話す人だったので、ヒとシの区別がつかなかった。区別がつかないというのは、単にヒをシと発音するだけではなく、シをヒにしてしまうこともあるということだ。20年近く「ヒライさん」だと聞いていた人が、実は「シライさん」だったのには驚いた。
前にも書いたかもしれないが、小学校の校歌の歌詞の一節、「日毎に集う嬉しさよ」の「日毎に=ヒゴトニ」を「シゴトニ=仕事に」と、6年間元気良く同級生たちと歌っていた。学校に行くことも仕事なんだなとなんとなく納得していたのだと思う。生徒も親も同じ地域に生まれ育っているので、みな下町言葉なのである。ちなみに先生も不思議に思わなかったらしい。卒業間近になって音楽の先生が変わり、卒業式の練習で校歌を歌わせて初めて気付かれた。先生の特訓にもかかわらず、みんな本番では大きな声で「しーごとにつーどーうー、うーれしさーよー」と歌ったことでした。

英語や、せいぜいフランス語ドイツ語くらいまでは、我々の日常でもその言語を耳にすることがあるため、一般的な名前や発音に比較的馴染みがある。これがアフリカ大陸の言葉になると、言葉が「ン」という無声音から始まったりするので、途端に常識と思っていたものを覆されることになる。
世界にはバベルの塔の逸話を持ち出すまでもなく(だいいちあれはヘブライ語なのでアフロ・アジア語族の話だ)数え切れないほどの言葉がある。インドに行った時、お札に十数種類の言語が書いてあったのに驚いたが、考えてみれば一つの国で一つの言語しかない方が少ないのだ。
日本にもいわゆる国語としての日本語の他に、琉球語やアイヌ語がある。方言にも多種多様のバリエーションがあり、標準語と方言と両方話せる人は、もはやバイリンガルと言ってもいい。友人が標準語と薩摩弁を鮮やかに切り替えて話すのを聞いて、心底感心した覚えがある。
日本語は難しいというのも言ってみれば幻想だ。上で述べたようにフィンランド語も相当手強い。当然のことながら、それぞれの言語に特有の難しさが存在する。たまたま先祖が同じ同類の言語なら比較的学びやすいだろうが、全く出自が異なる言語を習得するのはやはり難しい。
それでも聞いたことのない新しい発音を知ったり、出会ったことのない文字を見たりすることには、何歳になっても知的好奇心がそそられる。

まだまだ世界は広い。
ミナペルホネンが覚えられないなどと失礼なことは言っていられない。
フィンランドがヘビメタと編み物で有名だということは知っているのだ。
なんだそれ?と思った方は、ぜひ調べてみてください。


登場した言語:下町言葉
→いわゆる江戸っ子言葉・江戸弁といわれるものとは、微妙に違う。同じ下町でもべらんめえ調は職人言葉で、商人は使わなかったそうだ。
今回のBGM:「ONCE」by Nightwish
→フィンランドのヘヴィメタルを世界的に有名にしたバンド。音楽性としてはシンフォニックメタルにあたる。

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