第38回 ラヴィ・アン・ローズ


薔薇の季節である。
薔薇色の頬、薔薇色の人生。薔薇には幸福なイメージがある、というか幸福なイメージしかない。
色や形を愛でて良し、香りが主体の品種はその馥郁たる香りを愛でても良し、どこをとっても花の王者たる風格を兼ね備えている。
非の打ち所がないように思われる薔薇だが、実は昔はそんなに好きではなかった。それどころかはっきり言って嫌いだった。昔というのは幼少時の話なので、そこまではっきり嫌いだったかは自分でもよく覚えてはいないのだが、とにかく理由は覚えている。それは幼稚園の頃、叔母の家の近所で一人で遊んでいた時のことだった。側溝を避けて柵沿いに伝っていこうとして体重をかけて柵をつかんだ瞬間、柵に絡まっていた薔薇のツタごとつかんで思いっ切り薔薇の棘を両手に刺したのだ。冗談のような流血の大惨事となり、泣きながら叔母の家に駆け込んだ記憶がいまだに鮮明である。
それ以降薔薇といえば痛かったという印象が強く、その花の美しさよりも秘めたる棘の凶暴さを厭うて、薔薇が好きではなくなった。

では10代にかけての自分が何の花が好きだったのかというと、これがまた渋いというか、花菖蒲と芍薬であった。
芍薬は、その豪華絢爛とした花弁の重なり具合や優雅な色合いなどが愛され、絵画や小説にもよく描かれている。なんといっても「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」である。芍薬と牡丹はよく混同されるが、実はかなり異なる植物だ。英語ではどちらも「piony」と、混同どころか同じものとして扱われているが、牡丹が木なのに対し芍薬は草だ。なのになぜか牡丹は芍薬に接木をして栽培する。牡丹を種から育てるのはとても大変らしく、手っ取り早く草に接木したということか。牡丹も芍薬も漢方薬の材料として有名であり、芍薬甘草湯という有名な漢方薬は、足が攣った時に即効性があるため大変重宝している。花は多少牡丹の方が大きいが、芍薬はなんといっても香りが素晴らしい。フランスでは「聖母の薔薇」と呼ばれているそうだ。棘がなくて大変結構。
芍薬はわかるが、小学生が好きな花として花菖蒲を挙げるのはかなり好みとしては渋いと思う。ここでまたクギを刺しておくが、花菖蒲はアヤメではない。カキツバタでもない。アヤメ属アヤメ科だが、違う。ここ大事。とてもまぎらわしいのだが、菖蒲とも異なる。菖蒲はサトイモ科だ。因みに有名な尾形光琳の国宝の屏風絵は「燕子花図(かきつばたず)」なので、お間違えなきよう。
花菖蒲は、元々自生していた野花菖蒲を改良した品種だが、江戸時代に大変愛されて「江戸系」という沢山の品種がつくられたそうだ。名だたる浮世絵に登場した江戸の名所で、今も残る葛飾区の堀切菖蒲園では、200種6000株というその品種改良の成果を見ることができる。
花菖蒲の見頃は6月の梅雨の時期である。雨の中すっくと立って紫や白の花を咲かせるその姿の凛々しさを、私は愛した。父親が譲り受けた花菖蒲の畑から切り取った100本余りの花菖蒲を、中学生の時学校に抱えていったことがある。早朝全部の教室に生けて回ったのだが、学校の空気がきりりと引き締まったような気がしたのは私だけだっただろうか。

長じてからは、あれほど避けていた薔薇も大好きになった。思えば両手に穴が開いたのも薔薇のせいではない。美には代償がつきものだ。だが薔薇も芍薬も、どちらもその美しさは成熟した大人のものであるような印象を受ける。薔薇色の頬といえば少女の代名詞のように言われるが、薔薇自体はもっと大人びていたほうが相応しいと思うのだ。
青々しく未熟さを秘めながらも、精一杯背伸びをして胸を張る。そんな少女には、薔薇よりも花菖蒲が似合うと思うのだが、いかがでしょう?(異論は認める)


登場した花:花菖蒲
→江戸時代の武士に愛されたのは、「菖蒲」が武道を重んじる「尚武」と同じ音だったからという説。いいのか、そんなこじつけで。
今回のBGM:「London Warsaw New York」by Basia
→マット・ビアンコにいた時からその自在に操られる声に魅了されていたが、ソロになってからその歌姫としての魅力が開花。まさに咲き誇る花のような歌声のこのアルバムは、今聴いても華やかで素晴らしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?