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2019振り返り:祝福旅✈︎ありがとう平成ようこそ令和編

旅程:2019年4月24-30日
名古屋ー香港ークアラルンプールー名古屋

2019年旅の記録をこの年末にコンプリートしようとしている。前回の旅は↓の記事に。

5月に入ると6月末まで休みがない状況になるので、その前にKLへ飛ぼうと計画。フライトを探しているとお手頃な名古屋発香港経由のチケットを発見。翌5月から一緒に仕事をするパートナー・ザビエもこの時期香港にいるし、2月にシドニーで出会った友人もいる。現地在住の留学時代の友人にも会いたいし、この際トランジットの間に空港から出て、会える人に会いに行ってみることに決定。すると、タイからも留学時代の友人が香港に来ているというわけで、急遽、20年ぶりのプチ同窓会 ができることに。Aminに会いに行くだけでもうれしいのに、加えてこんな「想定外」がついてきて、ワクワクしないわけがなかった。

香港の空港に着くと、ザビエが迎えに来てくれていた。普段はわたしが彼を駅にピックアップしにいくことが多いけれど、今回は逆で新鮮!ザビエに、Centralで友人と待ち合わせすることを伝えたら、なんと空港まで迎えに来てくれるというので甘えてみたのだ!香港に降り立つのは、いつぶりかもう思い出せないけれど、空港から特急のような地下鉄に乗って街へ出るのはきっと初めてなので、前回行ったのはすでに20年以上も前のことなのかもしれない(恐)。ザビエとは、わたしが帰国したらすぐに合流する予定で、その後丸っと1.5か月を共にすることもあって、移動中の1時間くらいの間で仕事の打ち合わせを済ませた後、Centralの駅へ着くと待ち合わせの場所まで連れて行ってくれて、そのあとザビエは映画を観に行くと言って、雑踏の中に再び消えていった。ちなみに、香港で会ったザビエは、東京にいるときと変わらず、超高速ウォーキングだった(笑)。ザビエには大都会がよく似合う。

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画像:空港からCentralへ連れて行ってくれる時のザビエ。白シャツ姿が新鮮!香港は埃っぽいし、稀に清潔じゃないところが若干あるから、といってザビエが手渡してくれたポケットティッシュに実はKLに着いてからめちゃくちゃ助けられた!さすがアジアに住み慣れているザビエ。最早、香港ローカルの人にしか見えなかった!

ザビエと別れた後にCentralでまず会ったのは、2月のConstellation Intensiveで出会った年上の姐さん(話に夢中過ぎて画像がないのが残念 涙)。香港の某巨大銀行にお勤めで、仕事を抜けて会いに来てくれた。待ち合わせ場所のすぐ近くにあったFauchonのカフェに連れて行ってくれる。姐さんは、わたしにとって『Constellationオタク』と呼ぶにふさわしい、これまで出会った誰よりも広く深くこの世界を探求している人なのだ。かといって、今の銀行での仕事を投げ出すつもりは1㎜もない、というハッキリとした姿勢も持ち合わせている。今の安定した仕事があるからこそ、世界のあちこちで行われているConstellationのトレーニングに参加することができるんだ、と話していた。彼女がConstellationを通じて学んだことは、主に職場でのチーム内の問題解決や、数値的な目標達成のために使っているらしい。彼女は特にヨーロッパ圏のファシリテーター情報に精通していて、お勧めの人を何人も教えてくれた。来年もまたシドニーのIntensiveに参加するか聞いてみたところ、ヨーロッパでのトレーニングに参加したいのでそのために有給を確保しておくため参加しない、と話していた姐さん。狙いを定めているあたり、流石です。こうしてほんの短い時間だけど、再び会えて嬉しかった。

そして、ついに20年ぶりのプチ同窓会へ突入!

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画像:かつて豪で同じ時期に留学していた友人たち。香港在住のM女史とバンコクから遊びにきていた(仕事もあると言ってたけど、どうみてもホリデー仕様だった笑)Iくん。二人ともオーストラリアの語学学校時代に出会った人たち。わたしは彼らと同じ学校ではなかったけれど、わたしのルームメイトと同じ学校だったので、よく一緒に食事したりうちにも遊びに来てくれていた。

M女史は、香港のバリキャリで外資系企業にお勤め。学生当時から頭脳明晰で、そのスマートな印象は、今も全く変わらない。昨今いかに香港の就労事情の競争が激しくて大変かということを話してくれた。ザビエからも同様の話を聞いていたので、本当に激しいんだなと思った。もう一人のIくんは、バンコクで大学進学専門の塾を経営しているそうで、Facebookのタイムラインにいつもあがってくる若者たちとのたくさんの写真に今更ながら納得。先生だったのね!バンコクの大学受験事情は日本と似ていて、ただ勉強すれば希望校に合格する、というわけではないという。学校別の傾向と対策的なことが必要で、彼はそこに特化した塾を開いて、学生たちを指導しているそう。昔話に花が咲くというよりは、今のそれぞれの人生に起きていることをあれこれ話して、時々昔話に戻る・・・そんなとても楽しい時間だった。当たり前だけど、あれから20年、みんないい大人になってるねえ。

今年は、この同窓会を皮切りに、今回再会できた友人たちよりもさらに前に出会っていて、すでに長年連絡が断たれてしまった人たちとSNSやWhatsAppで再び繋がるようなこともあって、嬉しくなることが何度かあった。すぐに会えなくても、近い将来また会える可能性が広がっていくのが嬉しい。

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香港にいるということは、KLまでのおよそ半分の地点まで来たことになる。香港からKLまでは4時間で、到着は日付が変わる頃だった。KLからの帰りの便は、この巨大な香港の空港でトランジットがたった1時間というスケジュールだった。すべてに急がなくてはならない恐怖たるや・・・。もう2度と体験したくないと思ったくらい、人をかき分けて進んでいくのが大変だった。荷物検査場では急ぎ乗り継ぐ人用のレーンとか作ってほしい!!!

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画像:上空から見たマレーシアの夜景。明るい。

約1ヵ月ぶり2度目のKL。前回同様、空港でAminが待っていてくれた。前回はAir Asiaで今回はCathay Pacificにしたのだけれど、どうやら前回とは到着した空港が違ったようだ。Aminは、どれだけ安くてもAir Asiaは好まないようで、空港も今回の空港のほうがずっといい、と話していたが、あまりわたしにはその違いがまだよくわからない。

実は、着いて早々に体調を崩してしまった。昼間はまだよかったけれど、夜眠ろうとすると咳が止まらなくなってしまう状態が終始続いていた。咳き込んで眠れていなかったわたしに付き合っていたAminも寝不足の日々だったと思う・・・(ごめんよ)。結論から言うと、帰国後、行きつけのクリニックで咳喘息と診断された。処方された抗生物質を飲むと、症状はケロっと治ったけれど、KL滞在中はどんな市販薬を飲んでもまったく効かず終いだった。Aminも気を遣って何度も薬やさんに連れて行ってくれたけれど、イマイチこれという薬がなくて、困り果てた経験をした。その結果、この旅以降、長めの国内出張や国外に出るときは必ず、ありとあらゆる市販薬とこの時処方してもらった抗生物質は必ず携帯するようになった。

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画像:KLから車で約1時間のGenting Highlandsという避暑地。高度1,700mの山の上に、カジノやリゾート施設がある。確かに涼しくて湿度も低く快適だった。ここに連れてきてもらった頃は、まだ全然元気で余裕だったなあ・・

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画像:こちらはKLから車で2時間ちょっとで来れるマラッカ。世界遺産の街として知られている。週末のドライブ。この街には、かつてオランダやポルトガルによる統治がされていた頃の古い建物や街並みがごっそり残っている。

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この通りは、夜になるとさらに人が増えて、食べ物や土産物などのお店がひとしきり並んでいた。KLとはまったく雰囲気の違う街。あの「マラッカ海峡」のマラッカ。

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画像:Aminの手料理その1。シェフになりたいと思ったこともあった、というだけあって、料理のレパートリーも多いし、手際もいいし、お世辞抜きに美味しい。あと、アラブの人だけあってか、スパイスの使い方が上手だなあと思ったりした。

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画像:Aminの手料理その2。Amin's recipeのHummus(フムスーひよこ豆のペーストを中心に、ゴマのペーストなどを混ぜたもの。パンやクラッカーにつけて食べる。)。これもお世辞抜きに絶品。日本でフムス屋をやってほしい、と真剣に思ったりする。彼の故郷のシリアは、今でこそ内戦状態で目も当てられないような状態になってしまったけれど、それまでは豊かな文化が昔から長い時間をかけて発展し続けていた場所だったであろうことが、Aminの手料理からすらも容易に想像がつく。

日本に帰国する頃には、ゴールデンウィークが始まり、平成という元号の時代がその最後を迎えていた。日本の外の世界に憧れて、親元を離れ初めて海の向こうへいったのが平成元年だったから、あれからちょうど30年が経った。16歳だった。この30年という時間で知ることのできた、日本というわたしにとっての母国の偉大さと素晴らしさ、そして、日本とは異なる文化で形成されてきた他の国々で感じたり味わうことのできる、大らかさや開かれた感覚。英語という言語に触れたからこそ体験できた広い世界と、様々な出会い。仕事も友人も、そしてこのAminという人との出会いも含め。そして、母国日本だったからこそ出会えた、たくさんの人たち。どれ一つとっても奇跡でしかなく、それらすべて祝福するに値する。

この2019年という年が、わたしにとって(きっと大勢の人にとって)人生の節目の時間になっていくということを、この旅の終わりの時点ではうっすら感じていたのかもしれない。そしてこの後も続いていく旅の途中で、この「節目」という感覚はさらに増大していくのだった。

祝福旅✈春のザビエ祭編へつづく。

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スペル惜しい・・・・@仕事帰りのAminを待っていたカフェにて。

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