見出し画像

夢のパン

唯一、夢に見るパンがある。それはめったに食べられない、魔法の味がするパンだ。どこにあるのかと言えば、それはドイツにある。そして、もう永遠に手に入らないだろうと思う。が、そのパンについて語ると、妄想が膨らんで仕方がない。

当時、そう、ドイツにいたころ、わずか二年の間で、そのパンには数回しかお目にかかったことがない。何故か。そのパンが手に入るところはベッケライと言って、いわゆるパン屋のことだが、ドイツではそういう職業はしっかりと歴史や地理に根付いている。パン専門の仕事。それはそうだが、そのパンは夢の味がする。

ドイツには、固い黒パン、ライ麦パンというのが割と家の食卓には毎朝あがるメインの食事のようだった。それにはハムや、バターや、ナッツのクリーム、チーズなんかもよく合う。手頃な大きさに切り分けて食べるので、色は中まで茶色いのだが、切った表面はライ麦が真っ二つになっていたりする。その大きな麦の粒の味がしっかりする。

もうひとつが、ゼンメルンというパンだ。これは大人の手のグーサイズくらいで、形は四角く丸い。真ん中に十字の切込みが入っている。しっかり焼けている証拠だ。外側は固い。薄茶色い。が、内側は真っ白だ。ほくほくしている。柔らかい。香りが独特で、一回嗅いだらとりこになる。それは、一個が40ペニヒ、日本円で40円くらいする。それは高いのか、安いのか。

値段で言えば、そのゼンメルンはスーパーでも買える。一袋に8個入りでかなり安くお得だ。我が家では、めったにその本格的なベッケライに行くことがなく、いつも利用するのはスーパーだった。

が、正直、そのゼンメルンに関してだけは、スーパーで済ませてしまったことを後悔した。帰国後、後にも先にも、ゼンメルンに勝るパンに出会ったことがないのだ。あの時、いやでも自分の主張として、一個40ペニヒのゼンメルンをあのパン屋さんで買ってほしいと言えばよかった。

とりこになるその味は、まさに夢の味だろう。夢なのは、今までにこんなにおいしいものを食べたことがなかったからだ。そして、グリム童話の中の、本の中の「パン」というものに夢を見ていたからだろう。こんがりと・・・それはぐりとぐらのあの本の中でしか、出会えない。そんなものがあるのなら、おそらく本の中で。というような。

そのゼンメルンは、値段という理由で、結局、口にできたのは数回もない。が、一度食べてしまえばその味は脳みそのひだにしっかり刻まれて、今やどのパンも、あのゼンメルンとの比較にしかならないという悲劇が起こった。

そんなわけで、今もスーパーで食パンを普通に買うのだが、それはもう、ゼンメルンとの比較にならない。それはそれ、これはこれ。割り切らないとそれはパンではない。しかし、たまに、パン屋さんに入ってみる。似た感じの味を求める。それはなんだかフランスパンにちょっと似ている。似ているが、やはり違う。

私はあの夢の味を「夢」として置いておける。が、弟はそうではなかったらしい。どこかにパン屋が出来たと聞くと、必ず黒パンを買ってくる。彼はそっちを追い求めているらしい。ゼンメルンの話をすれば、スーパーのゼンメルンでさえ、感動したという。確かに初めて見て食べるものは、うまいに決まっている。

時々思う。あの幸せのパンを食べられたらと。そう、夢のパンは幸せの味だ。それを食べたら幸せになる。そんな食べ物は、少ないのかもしれない。もしかしたら、あの当時、そんなにおいしいものを食べた記憶がなかったのかも。などと思うと、我が家は何を食していたのだろうか。とにもかくにも、食べて幸せというのは、今も夢である。手の届かない記憶の味だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?