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たたかい

戦いというものがあるとすれば、それは自分自身であろう。と個人的には思う。そして、更に個人になってゆくと、自分の場合は、身体の感覚と言うものになる。そういうと、誰もが当たり前で、わからないよと言うだろう。そう、個人の感覚と言うものは、その人にしかわからない。それはある意味の孤独に近い。共有できる範囲のものではないからだ。

そんなところで、戦って・・・とは思うのだ。けれども、感覚はやってくる。痛みと同じように、ある時にはやってくる。それは身体の皮膚の上を這いずり回る独特なものだ。それを止める手段があるのならば、是非とも知りたいところだが、今だ、どこに尋ねても調べても、対処と言うものはなく、原因もわからない。仕方がなく同居することを許している。

同居と言うと、共同生活なのかと思うかもしれない。が、それは違った。少なくとも、共同と言うような協力的な作業ではない。それが生まれてから、日々、その感覚は強くなってゆく。共同というよりは、浸食されるのだととっさに感じたが、すでに時遅し。以来、毎日、いかなる時も、その身体を自由に動き回るそれと、戦う日々である。

戦い。とは言え、自分なのだから、と時にはなだめすかし、時にはそのうようよに腹が立って、「うるさい」と言いそうになる。そうこうして、どうにもならないと思った。戦う相手はなんなのか。自分の感覚であるのか、それともそれを超える自分自身であるのか。

やがて、どういう時にそれがやってくるのか、ひどくなるのか、を察知するようになる。どうやら人とたくさん接した日、それは多くなる。では、部屋の中でひたすら、刺激なく過ごせばよいのだろうか。案外、一人の時ほど意識する。休めばいいのか、何かすれば紛れるというものなのか。そもそも、なくなってくれないか。いや、意識がいけないのか。考える自分との闘い。

そんな時間が流れ、今だ解決はないにも関わらず、生活していると様々なことが起こり、せねばならぬこともある。別れもあれば、出会いもあり、そこにはまた、何かの問題があり、別な意味で自分と向き合い、闘う日もある。その間には、編み物をしたり、食事を作り、掃除や整理をして、ふてくされて布団に入ったり、時間は埋まる。そして、始終、あくまでも身体の感覚はなくなることがない。

いっそ、感覚がなければ、楽なのだろうか。でも、それは自分でなくなってしまうことなのだろうか。傷ついた時に、痛みが少なければ、立ち直りは早いだろう。そのように、感覚が薄いならば、戦うこともないもかもしれない。

自身、ゆえに、集中してしまうものがある。それでも、なおかつ逃げることが出来ない。そして、それを何に訴えればいいのか、ただ、ひたすら「いる」ことでしかあれないのか。そんなことを思いながら、やはり、今日も台所に立つ。新鮮な緑が並ぶスーパーで、季節のルッコラと赤いトマトを買った。最近はサラダと言うものを食べていない。ここらで野菜尽くしに入るか。

戦うときも、生活は出来るなら楽しみたい。買ってきた白いムスカリの球根の水を替えて、緑には水をやる。自分を捨ててしまわないように、次の日は仕事に出かけられるように、ルーティーンに合わせたステップを踏む。素知らぬ顔で、人に会う。形でもいいから、自分の輪郭はなくさないように。同居の住人に何かが歪まないように。ダンス・ダンス・ダンス。村上春樹。ひとつひとつ現実のステップを踏んで踊れば、その先はどこかに通じるのだろうか。

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