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熱を出した春に思う

少し前のある日、突然の倦怠感と気持ち悪さ。翌日には熱が37度を超え、それから5日間ぐらい、37度~38.3度をいったりきたりする、ひどく体調が悪い日々を過ごした。
この世情だ。まさかということもある。

コロナ感染の可能性を考え、発熱を確認した当日に保健所へ電話し、翌日にはPCR検査、2日以内にあった人たちにも念のため連絡を入れた。

数日後に陰性がわかり、結局何が原因の発熱かはわからなかったが、コロナではなかったという安堵に包まれた、という経験だった。熱も、陰性告知の2日後には下がった。

PCR検査を受けた以上、陽性の告知をされる覚悟を決めたつもりでいたが、実際に保健所からの結果連絡の電話が鳴ると震えるものだ。ガクブル。怖かった。保健所と病院の方にはお世話になった、本当にありがたかった。

この体調不良の期間中、とにかく熱が下がらず、少し起き上がって仕事をしてはすぐに辛くなって横になる、というのを繰り返していた中で、「こんなにしんどかったら、飲食店が(時短要請で)開いてようが開いていまいが、外食なんて行かねーわ」ということを、連日の報道を見ながら思っていた。自分の身体を持ってして実感し、私なりにコロナについて考えていたのだ。

コロナの一番の問題は、「感染症に罹患しているくせに出歩く人達」ではない。「罹患させてるくせにそれを当の本人に感じさせず、健康であると錯覚させるウィルスである」ということだ。

もちろん、そんなことは誰もがわかっている。だからみんなで外出自粛するのだ。感染してようがしてまいが、家からでないのだ。私も理解しているつもりだ。理解しているから、この連休は全然外出していないのだ。決して友人や家族がいないからではないのだ。

たられば論は意味がないのであまり述べないようにしたいと思っているし、当事者でないやつが「あーしたらよかったやん」と後出しすることもあまりかっこよくないので好きではないが、よく言われる「1年もあったのに何も整っていないじゃん」論に便乗させていただくなら、1年の間に「毎朝1回PCR検査習慣」ぐらいは実現できなかったのだろうか。技術的には、本気だせば出来そうだと思うのは甘いのだろうか。

簡易キットは結果の信頼性が低いといわれていることも知っている。それでも、毎朝全員が検査する習慣づけができれば、直接的な感染拡大防止のほかにも生み出せたものと防げたモノがあるような気がする。生み出せたのは当事者としての危機意識、防げたものは生産性低下だ。

街場のPCR検査専門センターは繁華街にしかなく、妙な行列。郵送で検査してくれるものは高額。保健所を通して病院で検査すると何日もかかる。平日にちょっと検査、なんてできないのだ。検査するのに会社を休まないといけないレベル。私は陰性だったが、結果がでるまで何日もかかり、その間会社には行けなかった。

去年の話ではない。2021年4月の話だ。これは、感染している人にもしていない人にもあまりに工夫や改善がないなと感じさせ、感染を減らそうという意気込みを感じさせない体制だ。これは言うまでもなく病院や保健所の問題では絶対になく、それより上段の施策の問題だろう。

危機感なく出歩く人を擁護するわけではないのだが、「外出している人ってどう思う」という話にフォーカスしがちだが、「感染させてるのに気づかせないウィルスってどう思う」という話を本当はもっと展開していきたかったのではないだろうか。

そこが本質だとすると、「じゃあ私たちはどうやって気づけるようにするかい」という議論が中心になり、「せめて検査を毎日やろうぜ」ということにならなかったかと。

流行当初は、取り急ぎ、誰も外に出るな、であっていたと思う。だけどその後、本当に糾弾すべき相手に対して手ぬるく、糾弾しやすい相手に厳しく、論点ズラしされたような気もする。

暇な素人のたられば論だ。実現のためにどれだけのコストやリスクがあるのかは申し訳ないがちょっと知らない。検査数を増やすことで、もっと早くに医療崩壊が起きていたのかもしれないし。無責任に申し訳ない。

しかし、会社でも不適合が発生したあとの対応や再発防止策の議論をしているときに、似たようなことってある。
あれ?これ結局何が1番の問題なんだっけ?ってやつ。何を必死に論じてんだ?ってやつ。

そうなるときの理由はだいたいふたつ。ひとつは悪気なく本当に本質見失ってる人が混ざっているとき、もうひとつは意図的に論点ズラしにきてる人が混ざってるとき。

さぁ、どっちだ?

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