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葉子、と。

うつくしい日


 日曜日はとびきり美しい朝焼けから始まった。陽が昇るにつれて抜けるような青空がひろがり、空気は澄み切っている。
 天候も気温も風も快適で、体の細胞すべてが「はしゃいでいる」ように葉子は感じていた。
 こんな日に遭遇するたびに葉子は「今日は今年のビューティフルデイ・ベスト10に入る日やわ」と昔から亨に呟いていた。それはたいてい夕食の時に「発表」されるのだが、今日はもうこの時点で葉子の中では「ベスト10入り」が確定したようなものだった。

 結婚当初の頃、亨はその数が妙に多いような気がして、その言葉を聞くたび手帳に「B10」と小さく書き込む事にしたのだった。
 それを合計すると、年間27日のときもあれば50日の時もあった。そもそも大晦日に「葉子さん、あなた今年も『ビューティフルデイのベスト10に入る日』て何度もゆうてたけど全部で35回もあったで」というふうに言ってやろうと思って集計を取り始めたのだけれど、結局、一度もそう言った事はなく、手帳にしるしをつける事も止めていた。
 それはつまり葉子の「口ぐせ」なのであって、理由がなんであれ葉子が心地よければ自分は幸せなんだから、なにも混ぜ返す事もないか、という気分になったのだ。できることなら毎日「ベスト10に入る日」であってほしいとさえ。

 一方、葉子は気候条件だけが「ベスト10」に入るための必要な条件でない事をわかっていた。どんなに優しい風が吹いていても、苦しみを感じていればその優しさに気づかないだろうし、どんなに美しい空が頭上にひろがっていても精神的にめげていればアスファルトか家の壁を舐めるように見つめているだけなのだから、と。
 葉子自身に世界を眺める心と体が持てる事が前提条件なのだ。例えば今は亨との暮らしが平穏である事が何より、というように。
 時として風と陽と風景と人に助けられる日もあった。体や心の不調を確かに癒される日もあったのだ。ふっと周りを見回した瞬間にすっ、と。


 だから、めげていても顔を上げていなくちゃ。ていねいに人としゃべらなきゃ、と葉子は思うのだ。
 葉子は「今日はベスト10に入る日やったの」と亨に言うとき、
 …おかげさまで…という気持ちを込める。
 それは亨に対してというよりも、こういう日を過ごさせてくれた「世界」に対しての「お礼」として。


 さて今、葉子は秋の花を見ている。
 松の木の下に植えられた紫のセージはベルベットのような花を咲かせている。そしてこの季節まで室内で大切に管理されてきた各家の大輪の菊の花たちが、満を持して玄関先や軒下に並びだしていた。菊は最初、うどんかパスタの「玉」のように固まっているのだけれど、やがて花弁が一枚ずつゆっくりとひろがり、花の形が現れだしてくる。

「どうや、だいぶ取れたかな」
 葉子の頭上から亨の声が降ってきました。亨は梯子の一番上に立ち、棕櫚の木に大蛇のように巻き付いたノウゼンカヅラの剪定をしていた。
 ここは澤村さんの家の前庭。澤村さんが亡くなってから、横庭の木瓜も芙蓉も、そして「鈴木さんの椿」も手入れされないままになっていた。で、大宅さんが遠くに住んでいるご家族の了解を得て剪定する事にした。だけれど高さ5メートルはある棕櫚の木とノウゼンカヅラは葉子と大宅さんでは手に負えなくて、亨に白羽の矢が立ったのだ。

「うん、そんなかんじでええんちゃうかな」と、葉子。
 考えてみれば別の町内の石榴の木を剪定したのも亨だった。あの町内同様、この路地も老人ばかりになってしまった。貴重なもう一人の男手である大宅さんの旦那さんは夜勤あけでおやすみ中。これから亨が「町内の営繕係」になるのは間違いないな、と葉子は梯子の上で大活躍の我が夫を見上げながら思うのだった。

「あらあ綺麗になったわあ」
 そういいながら大宅さんがお盆にミントティーとバウムクーヘンを載せてやって来た。
「一服してくださいな」
「亨さん、大宅さんがお茶いれてくれはったよ」
「あ、おおきに」

 地蔵盆の時に使う床机をだし、三人でそこに座ってお茶を啜った。風はさわやかな西風。日射しは柔らかく、棕櫚の葉が擦れて乾いた音を出している。
「そやけど澤村さん、亡くならはった時いくつやったっけ」
「えっと80歳はとっくに越えてはったとおもうけど」

「そうかあ。その年齢で去年まで自分で剪定してはったんやね。凄いなあ。上の方は細かな新芽がたくさん吹いていて結構大変やで。それにこの高さやんか」
「そういえば、私、澤田さんが剪定してるところ見た事無いわ」と、大宅さん。
「あ、そういえば私も。気がついたらさっぱりと綺麗になって…」
「植木屋さんに頼んでたんやろか」
「いや、それやったら車が止まってるし、後始末の大きな音でわかるもん」
「ということは…やっぱりあのお婆さんがこれを昇って…」
 三人は思わず棕櫚の樹の上を見上げた。
 葉子は、澤田さんが剪定鋏を手に梯子の上から振り返り、にっと笑っているような気がした。

「人間、最後までできるんやね。やる人はやるんやね」と、大宅さん。
「ほんまにねえ」と、葉子。
 棕櫚の樹の遙か上空は青く輝いています。
…今日はベスト10入りやな…
 亨はお茶を啜りながら目を細めるのだった。
 もちろん葉子もそう思っている。

                           (了)

ありがとう



 亨は屋根の上にいた。地デジアンテナの、多分今年最後となる設置作業中。
空は蒼く、強い北風が吹き渡っていた。時々、冷たい雨粒が針のように頬を刺す。

 午前十時。仕事は手慣れたもので、ほとんど流れ作業のようにスムースに進んでいく。だから、というわけでもないのだけれど、亨の意識の半分はカーゴパンツのサイドポケットに入っている携帯電話に向けられていた。葉子の声を待っていたのだ。

 アンテナの向きを比叡山方向にあわせようと北東方向に顔をあげると、ちょうど日本海から山を越えてやって来た灰色のちぎれ雲に山全体がすっぽりと隠れた。亨は腰を下ろし雲が吹き飛んでいくのを待った。すると視線が自然と(どうしても)堀川通りのほうへと動いていく。

…今頃、葉子は…

 亨の携帯からスピッツのスカーレットが流れ出した。亨は飛びつくように携帯を取り出す。
「もしもしっ」
「あー花村君、アンテナどうや。固定できた?ぼくも上にあがろか」
 部屋でテレビを設定している社長からだ。
「すぐにできますから」
 亨は顔を上げた、比叡山がくっきりとその姿を見せていた。

                   

 尚美はスーパーにいた。昨夜決めた今日のディナーのための食材を次から次と籠に入れていく。メニューは鯛のカルパッチョ、クリームシチュー、チーズ各種、シーザーズサラダ…。バケットは帰りにベーカリーによって買う。

…私一人でできるかしら…

 レジで会計を済ませ、食材でいっぱいになったトートバックをスーパーのテーブルの上に置くと、不安の雲が心にひろがり始めた。
 尚美は携帯を取り出した。
「もしもし……うん、今買ったところ。とにかく多くて……うんそう…早めに来て欲しいの…本は…わかった…あ、ケーキはどうするの…わかった。じゃ」


 波多野は地下街の巨大書店のなかを歩いていた。
 今年何度も来た店です。今年一年を振り返るように棚を見ながら歩いていった。文庫本の棚のところで足が止まる。
 今年一年、波多野が読んだ本の中でいちばんのめり込んだ本を自然に探してしまうのだった。
 それはレイモンド・チャンドラーの「ロンググッドバイ」。村上春樹の訳。本編も好きなのですが、村上春樹によって書かれた、異例と言っていいほど長い解説は何度も読んだ。
「ああそうなのか」と声がでてしまうほど。

 波多野は本を閉じると右手で青い背表紙を元に戻し、新刊書の棚へお目当ての本を探しに行った。尚美へのクリスマスプレゼントにするつもりで。
 すぐにその本が見つかり左手を伸ばしたとき、携帯からオルゴール音が流れ出した。

「もしもし。……どう買い物終わった。…そうか手伝おうか…うん…わかった。…うん。これから買うところ。ラッピングは部屋でするから…うん、うん。……ケーニヒス・クローネだよ。…うん、じゃあ」

                   

 午後六時。
 空はすっかり暗く、輝く半月が空に浮かんでいる。風は相変わらず強く、亨は背中を少し丸めて家に帰り着いたところだった。
「ただいま」
「あ、お帰りなさい」
 答えたのは尚美と波多野だ。二人は調理のほぼ出来上がっていた。
「お、波多野も一緒にやってくれたん」
「へへ下働きですが」
「ありがとうありがとう」
「亨さん、どうでした」
 尚美がエプロンを掴んで亨の前まで歩み寄った。
 亨の寒さで強張った顔がいっぺんに崩れた。
「三ヶ月だって」
「おお!!」
尚美と波多野は思わず声を上げました。
「葉子さんは?」
「病院から実家に回ってから帰るって」

「ただいまあ」
葉子が帰ってきた。腕に大きな紙袋を三つ通し、黒い鞄を肩から斜めにかけている。
「尚美さんと波多野君ごめんね。全部用意してもらっちゃって」
「そんなあ。いつも月曜日にご馳走になりっぱなしなんだから、せめてクリスマスぐらいやらせてくださいよ。それよりそんな重いもの持ったらだめですよ」
「そうやそうや」
 そう言って亨が葉子から荷物を取り上げた。
「なんやこれ結構重いやん」」
「へへへみんなにプレゼント。あとでね」
「ありがとうございます」
 と、言いながら波多野と尚美が並んで「気をつけ」の姿勢を取った。
「葉子さん、亨さん、おめでとうございます」二人揃って礼!
「葉子さん、ママになるんですね」と、尚美。

「ありがとう」
 葉子の顔いっぱいに笑顔がひろがった。

                             (終)

この作品は文芸サイト「おとなのコラム」に2007年9月から2010年12月まで連載したものです。発表する過程で三編減らしています。
●冒頭の「届けを出す日」「自転車」はさらにその以前に文芸サイト「ゴザンス」に掲載されたものでした。
●2019年、noteに移動するに当たり、全編書き直しています。量も少し減っています。

    

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