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葉子、と。

Here,there and everywhere




 十一月のはじめ、秋がようやく深まりはじめたある日の夕暮れのこと。
「外がすごいよ。綺麗な光だよ」
 亨は帰宅するやいなや、葉子に声をかけた。靴をはいたままで、声は上ずっていた。
「夕焼け?」
「ううん。通りの空気の中に光が霧のようにまざってるんだ」
 え、そうなのといいながら葉子は窓の外へ視線をむけた。
「わたしはね、風が気持ちよくて窓開けてたの」
 微かな風が窓から入ってくる。
「ああ風もいいよね」
「でもその光、どんなだろ」
 亨が、出ようか、といったとき、葉子はもう玄関に立っていた。

 亨と葉子は夕暮れの町を歩いた。
「もう太陽は沈んでいっているのよね」
「うん」
「これは残照?光が街に残って空気がほんわりと橙色に染まっているみたい」
「いいよね」
「うん」

 通り面した垣根の山茶花は常緑の葉ばかりで、花はまだ咲いていなかった。ふたりは明るい方へと歩いていく。
「暑くもなく寒くもない。眼が痛いくらい明るくもないし、だからといって暗くもない。こんな感じ、好きなんだ」
「なんだか時間が止まっているみたい。それに気持がやわらかくなるわよね」

 明るい方へ歩いていくと、そこは古いお寺の土塀が続いていた。取り残されたような光もゆっくりと群青に染まりはじめてはいるのだけれど、土の中に光が蓄えられていたかのように土塀に挟まれた通りは明るかった。


 土塀の切れ目には槇の垣根が続き、視界が一気に緑黒色になる。塀の上には黒々とした金木犀や椿の緑の葉がみえる。
「亨さん、セザンヌのね、オーヴェールの風景を描いた絵があるの。この雰囲気、あの絵に似てる」
「セザンヌ?」
「先月、市立美術館で観たの。…この土塀の色が似てるせいかなあ」
「ふーん」
「土壁の家と緑と紺色の屋根しかない絵なの」
「ずいぶんとシンプルな…」 
「その絵の特徴はね、季節がないことなの」
「見てもわからない?」
「わからない。季節のサインがどこにもないの。都市だとか家の壁だけの絵だったら季節が消せるけど、田舎の自然の風景を描いて季節をわからなくしているのは珍しい」
「それは作者の意図?」
「そう。展覧会のパンフレットにかいてあったわ」
「見た人それぞれの印象で変わるんだ」
「秋のような春のような、朝のような夕暮れのような昼のような、晴れているようで曇っているようで雨が降り出しそうにも感じられて」
「真夏と真冬はどう」
「うーん、そういわれればそう感じる人もいるかも。雪の降らない常緑樹の冬もあるし」
「で、葉子は…」
「私は 今、ここ、この気分で、その絵を思いだしたの。家にポストカードがあるからあとで観てね」
「ぼくはこの風景の中にいると、なんだか優しい気持ちになれるな」
「わたしも」

 葉子は黒い長袖のTシャツにタイトなジーンズ、亨は白いTシャツの上に細かなチェックのシャツを羽織って、ルーズなジーンズで歩いていた。すれ違う人の中にはジャケットの人もいれば、半袖のTシャツだけの人もいる。夜更けと早朝には少し冷え込むのだけれど、日中は暑くも寒くもない日が続いていた。

 二人が味わっていた光の靄のような空気もゆっくりと消えてゆき、夜の色が濃くなっていく。
 からんからん、と葉子がつっかけている塗りの下駄をならす。二人は電車の軌道に沿った道に出た。大きくカーブしているその脇にコスモスが群生していた。軌道敷地内に異彩を放っている。誰かが植えたのだろう。
 そこに大きな黒い影の手が伸びて動いていた。二人はその群生を通り過ぎる。
 老人が長く伸びたコスモスの茎から枯れた髭のような葉を一生懸命擦り取っていた。

「今日はさ、っていうかさっきの光は、さ」
「うん」
「一瞬だけ季節が消えたのかもしれないね」
「うん、おもしろいね」


 街に、ぽつりぽつりと灯りがともりだした。
 二人の前方に白いワンボックスカーが輪郭を滲ませて駐まっていた。その白い「箱」のせいで道幅が狭まり、車が離合できないほどになっていた。
 亨と葉子の傍らを、制服姿の女子高校生の乗った二台の自転車がゆっくりと追い抜いていく。長い髪がなびき、紺色のハイソックスと短いスカートから覗く白い腿が上下している。前からヘッドライトを点けた車が近づいてきたけれど、彼女たちはお構いなしに道の真ん中に自転車を進めていく。車が減速して…止まった。

「おんなのこがとおりますぅ」
 そういいながら彼女たちはゆっくりと走っていった。

 車の運転手に聞こえるような声ではない。
「自分にむかってしゃべっているみたい」と葉子。
「ああやって『おまじない』を唱えながら女の子はなんでも通り抜けていくんだよなあ」
 亨が半ばあきれたように呟いた。
 長い髪の二つのシルエットが揺れながら遠ざかっていく。

「夫婦ものがとおりますぅ」
 車の横を過ぎながら葉子が小声でそう言うと、亨の手を握った。
 亨は黙って笑顔を返す。
「ずっとずっと、とおりますう」
 二人は笑いながら繋いだ手をぶんぶんと振る。

 東の空に月が浮かんでいた。


                           
*Here,there and everywhere
 (Lennon,McCartony)
The Beatlesのアルバム「REVOLVER」に収録

*ポール・セザンヌ:「カルチエ・フール,オーヴェール=シュル=オワーズ」(風景,オーヴェール)


屋根裏さんちゃん


「亨さん、そろそろ散髪しようか」
 とても天気のよい寒い日曜日の朝、葉子が声をかけてきた。とりたてて用事もないし、前回から時間が経っていたのでやってもらうことにした。
 ぼくはいつも葉子に髪を切ってもらう。ぼくの髪はいつもとても短い。
 短い方が絶対、似合うから、と葉子が言うのでそれに従ったのだ。同じことを今までにぼくに言ったのは母親だけである。いいとか悪いとかじゃなくて、あんたは短い方がいいんだってば、というのが母親の口癖だった。ぼくが高校の頃から背中の真ん中あたりまで髪を伸ばしていたから、そりゃあ「口癖」にもなる。もちろんロック・ミュージシャンにあこがれてのことで、ぼくのアイドルたちは皆、長髪だった。

「伸びたよなあ」
「うん、『屋根裏さんちゃん』になってる」
「???なにそれ」
「あれ、言わない?」
「言わないよ」
「髪が伸びて…ほら、寝癖がついてるやん」
「うん」
「それ、『屋根裏さんちゃん』」
「ええっ、いわへんよそんなん。中京(京都市中京区)だけの言葉?」
「違う違うそんなことあれへん。知りあいの神戸出身の人もゆうてたよ」
「ありゃりゃ。いやあー知らないなあ」

 伸びた、といっても3センチになったぐらいである。葉子はぼくの髪をバリカンを使わずに、鋏と剃刀で5ミリぐらいに切る。坊主頭のようで坊主頭ではない。同じようで微妙に違うのだ。むしろスキンヘッドに近い。最初はまるでパンクスみたいになるかなと思っていたけれど、着ているものが全然違うからそうはならなかった。慣れてしまえばむしろすっきりして気持ちがいい。洗うのが楽だし。

 床の日当たりのいいところに新聞紙を敷き、真ん中に丸椅子を置く。ぼくはTシャツ一枚になり、首にビニールシートをしっかりと巻き付ける。日差しを受けていないと寒いぐらいだった。

 葉子が濡れタオルで髪を湿らす。冷たさが神経を走ってくる。
 ぱちん。ぱちぱち。鋏の音だけが静かな日曜日の朝に響きはじめた。
 空は晴れているのだけれど、きらきらと縫い針が舞うように雨が降っていた。北山時雨である。水滴からの反射光が目に痛かった。

「前からどれぐらい経ったっけ」
「えーっと、こないだ母校の先生の学校葬があって、あの前後が忙しかったんだよね。あの頃からだから…」
「もう、ひと月になるわね」
「ああもうそんなになるのかなあ…。そういや、あの頃はまだTシャツで平気だったよね。いまじゃセーター着てるもん」
「急に季節が変わったのよね…。亨さん寒くない?」
「ああ、平気平気」
「早いとこ、仕上げちゃうね」

 月曜日の朝、アパートを出て駐車場へ歩いていく。
 ぼくは髪を短くしてから帽子に凝りだした。夏は汗が流れてくるからスカルキャップやバンダナ、冬は冷たいからニット帽が欠かせない。他にもパナマ帽や鳥打ち帽、各種のキャップまで結構、持っている。今日はお気に入りのグレーの毛織りの帽子を被った。軽くて耳まで覆えて暖かである。
 歩いていくと、路上に小さな白い輪が沢山ついていた。この一週間、毎朝見る光景なのだけれど、これは「どんぐり」が車に砕かれて飛び散った白い粉である。両側の家から老人や女性が出てきて門掃きをしているから、すぐに綺麗になるのだけれど、一日でまた沢山の白い輪ができている。
 今日は薄茶に砕かれた粉の輪もあった。よく見ると羽根のついた種だった。楓かモミジの種だろうか。

 いつもの出勤の道をミニバンで進んでいき、金閣寺の交差点で信号待ちをしていると、右手の休憩所で白いニット帽の男がいた。耳当てのついた「ぼんぼん」付きの毛糸の帽子を被っている。天神さんの縁日に、アジアや南米の衣料を売っている屋台でアルパカで編んだインディオの帽子を売っていたのだけれど、それとよく似ている。
 ぼくには可愛すぎる、と思えて買うのを躊躇したのだけれど、今、目の前にいる男にはとてもよく似合っている。
 
 不思議な雰囲気を漂わせた男だった。とても背が高く、擦り切れた葡萄茶のスカジャン(通称・ヨコスカジャンバーの略)に洗いざらしのだぶだぶのジーンズを穿いていて、極端に痩せていた。痩せているけれど姿勢はとてもよくて、空を向いている眼はきらきら光っていた。細い頸には濃いグレーのマフラーをぐるぐる巻にしていて、がさがさのジーンズのウエストを荒縄で縛りつけていた。そのジーンズのポケットからはいろんなアクセサリーが外に垂れ下がっている。そして少しあみだに被った白い帽子から覗いている、まっすぐな前髪は金髪に染めてあった。
 
 ボヘミアンのようでもあるし、一昔前の言い方をすればヒッピーのようにも見える。だけど、実はこの男、毎日、金閣寺の交差点付近にいるのである。昼間に通る時もよく見かける。たいてい観光客の女の子と話し込んでいる。ナンパしているのか、道を教えているのか判然としない。昼前ぐらいにはたいてい女の子と手を繋いでたり、一緒にアイスクリームを食べたりしている。
 確かなのは旅行者ではない、ということである。近くに派出所もあるし警備員もいるから悪いことはできないと思うのだが、つきまとわれているのか、顔をしかめて男に手を振って拒絶している観光客も見たことがある。
 それでも毎日この場にいるところをみるとそれほど悪いことはしていないのかもしれない。
 信号が変わった。
 右折し、少し行ったところで車を駐めた。何かが心に引っ掛かった。帽子もそうだけれど、あの身長にあの顔…。
 なんだろう。ぼくのなかの記憶の何かと引っ掛かったような気がした。
 なんだろう…。車を降りた。
 
 学生時代、中原中也にかぶれて、中也が飲んでいたという酒場で泥酔しては喧嘩ばかりしては酒代を彼女に払ってもらっていた自称詩人のNという奴がいた。おなじころ髪を緑に染めて自分と同じくらいに背の低い女の子と、河原町三条の路上で抱き合ってはキスばかりしていたフォークブルースシンガーTがいた。やはり同じ頃、ギターの天才といわれ、何人もの女の子をヒモのように渡り歩いていたYがいた。
 そんな過去に知り合った男たちのイメージが、前でぶらぶらしている白い帽子の男の背中に渦巻いていた。
…あいつらはみんな女を泣かせたんやなあ…そんな言葉といっしょに。

「しょうがないな」
 なにが「しょうがない」のかわからないまま、口をついた独り言はそんな言葉だった。
 ぼくは歩き出した。
 男は寒そうである。両手をポケットに突っ込んで少しうつむいて、靴で路上に落ちている、どんぐりを転がしている。
  (くるくるくる)
 ああやって毎日、女をもとめてうろついているのか?

 それにしてもその男は目立つ。もう何人かの女の子がその男のほうに視線を奪われているのがわかる。
 
…あかん、あかんぞ…
 なにが「あかん」のかもう一つわからないまま、そんな言葉がアタマの中に響いている。 ぼくは男に近づいていった。

 追いつき、追い越し、振り返って顔を真正面から見た。とても澄んだ眼をしていた。
 白い顔で長い睫の美少年だった。
 ぼくの心に引っ掛かったのはこいつのこの「顔」や「雰囲気」なのか?。


 大型バスが駐車場に入ってきた。観光客の第一陣が到着したようだ。ばらばらと降りてくる観光客の姿を見た時、ぼくはとっさに、まだシャツターの降りている土産物屋のあるビルの非常階段をかけのぼった。
 踊り場から下を覗いてみる。美少年がゆらゆらとそのバスから降りた若い女性たちに近づいていくところだった。道路にある市バスのバス停にはまだ出勤途上の人たちもいた。

「屋根裏さんちゃん!」

 ぼくは道に向かって大きな声でそう呼びかけた。
 すると美少年は思わず、といった感じで頭のてっぺんに手を当ててきょろきょろと辺りを見回した。彼が近づこうとした女性たちが彼の横をすり抜けていく。
 歩道を歩いていた何人かが無意識になのかどうなのかわからないけれど、歩きながら頭に手を当てた。バス停の何人かも頭のてっぺんに手を当てた。観光客の何人かも頭に手を当てた。
 何人かがそんな光景を見て、くすくすと笑いだした。


 ぼくは車に戻り、発進させた。ずっと胸がどきどきしている。
走りながら横を見ると、白い帽子の美少年は不思議そうな顔をして立ち尽くしていた。
 ふむ。 
 どうやら「屋根裏さんちゃん」は「全国区」のようである。早速、葉子に伝えようと思う。

(続く)


*作者注
「屋根裏さんちゃん」か全国に通用するのかどうか、ぼくの回りでも意見が分かれるところです。小説の中ではこういう扱いにしてみました。


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