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少女3

「きらい、って簡単に口にしないで。そういうとこ、きらいだよ」








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高校生のころ、とくべつ仲の良い女の子がいた。

おなじ学校の、おなじ学年。かわいくて、賢いのにどこかぬけてて、口が悪くて、サバサバしているのに女々しくて、おもしろくて、よくしゃべってよく笑って、歌がうまくて、騒がしいくらい明るいときもあれば、自分に自信がなくて、卑屈になって、手がつけられないくらいいじけるときもあった。すぐ抱きついてきたり、腕を組んできたり、手を繋いできたり、そういうスキンシップを、自然としてくる子だった。

休み時間、放課後、休日、ほとんどずっと一緒にいた。たくさんの時間を、共に過ごした。メールも毎日、四六時中やりとりしていた。同性だったけれど、恋人同士みたいだった。だいすきだった。

高校3年生の夏休みの少し前、わたしに年上の恋人ができた。そのことを、なんとなく言えずにいたら、夏休み明け、それがきっかけで、彼女にとてつもなく、嫌われてしまった。

かわいらしい喧嘩、とかではなくて、ほんとうに強烈に嫌われてしまったので、その後の彼女のわたしに対する行動はなかなか過激だった。それ以外の理由もあったけれど、とにかくわたしは精神的にかなり参ってほとんど学校に行かなくなり、出席日数ぎりぎりで卒業式を迎えた。彼女とは夏以来、一度も、目を合わさず、会話も交わさないまま。



ただ、それだけの話。
数年後再会して、仲直りして、また親友に戻った、みたいな続きは、この話にはない。

前置きが長くなったけれど、、


彼女に嫌われても、何をされても、わたしは彼女を嫌いになれなかった。ずっと好きだった。何も行動は起こせなかったけれど、また、仲が良かったころに戻りたかった。

楽しかったから。一緒にいた時間が。

それと同時に、はっきり「きらい」になれる彼女が羨ましかった。
わたしはきっと、その勇気がなかった。

他者と深く関わった結果、その他者を嫌いになる、ということは、人生において、なにかとくべつな、かけがえのないことのような気がする。

きちんと、他者との関わりに、自ら終わりを持つことができるということ。

きらいになるって、とてつもなくエネルギーを要することだ。それだけのエネルギーを、他者に向けられる。それこそ、自分のすべてで、その他者と関わったという、証ではないだろうか。

わたしは、きらいなひとがいない。おそらく、だれかをきらったこともない。もしかしたら、他者を、他者として、捉えられていないのかもしれない。深く関わった相手はみんな、自分の鏡、もしくは自分の一部のように、思ってしまっているのかもしれない。


誰かをきらいになることは、悲しくて、つらいことだけれど、それと同時に、とても尊いことのように思う。


卒業してから2.3年後だったかな。その彼女と共通の友人から聞いた。彼女はまだわたしのことを嫌っていると。やっぱり、わたしは彼女が好きだと思った。

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