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2020/02/06 どれだけおもしろがれるか/前のめりの好奇心

どうすれば人の好奇心を促すことができるのか。
これは仕事上常に直面している課題だ。アクティブ・ラーニングの潮流は大きくなるばかり。学びの多様性の前提が「自ら課題を発見し、周囲と協働してその課題を解決できる」ことで、しかもそれが当然のことのように話が進められたりする。そういう主体的な学びを呼び起こす契機となるものは、好奇心だろう。その好奇心はどのようにすれば醸成されるのか。

話し合いやプレゼンテーションなどの生徒の活動を増やせば、自然と生徒は主体的に学ぶのか。自分の限られた経験で考えるに、それはおそらく難しい。多くの者は、課題でしなければならないから取り組んで、それで終わってしまう。もちろん、その活動やテーマから次につながるような考えるヒントを得る者も出るかもしれない。ただし、それも40人の教室でひとりいれば上出来という程度ではないか。

生徒によく話すのは「どれだけおもしろがれるかが大事」ということだ。でも、それが伝わらない生徒がどうしても一定数いる。別に自分のおもしろいと思うことを生徒も同じように思うとはつゆとも思わない。しかし、自分からおもしろいものを見つけようとする姿勢は、ぜひ生徒たちには持っていてもらいたい。それが好奇心の発露であり、次の行動への原動力となると考えるからだ。様々な人と価値観と出会ってそれぞれがおもしろいと思うものに見つければいい。学校はそういうものとの出会いの場の一つに過ぎない。そう考えるからこそ、わたしはわたしの種を蒔く

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棚橋弘季さんの記事「やりたいことをやるためのスーツ」を読んだ。彼の記事は読み応えがあり、学ぶことが多いので、毎回楽しみにしている。今日公開されたこの記事は、映画『スパイダーマン:ホームカミング』内の台詞を手掛かりに、好奇心や「やりたいこと」との関わりを述べる。この記事の中に、以下のような記述がある。

自分でやりたいことを見つけられない以上、外に優れた道具や考え方などの手助けを求めても、ぴったりのものには出合えない。
結局、ツールだろうと方法だろうと、それを使う人が元から持っている「やりたいことの実現する力」を増幅させてくれたり、肩代わりしてくれたりするだけで、元の「やりたいこと」自体がないのであれば、増幅も肩代わりもしようがない。
ゼロに何を掛けてもゼロだという話である。

ここで指摘されていることはもっともで、授業でも進路指導でも頭を悩ませることだ。やりたいことのない(やりたいことを見つけられない)生徒に、教員としてしてやれることは何なのかが分からない。試行錯誤しながら伴走はするけれど、それが本当にその生徒のためになっているのか分からない。模索が続く。

今のアクティブ・ラーニングを取り入れようとする動きも、同じ状況ではないのか。教員による「講義型」のみの授業では生徒は受動的な学びしかないので、生徒が「主体的・対話的で深い学び」を目指すアクティブ・ラーニングを実践しようとする。この動きは、あくまでも棚橋氏の言う「優れた道具や考え方」であって、本来はこれをうまく発動させる原動力になるものそのものを育まねばならないのだ。これが根本的な問題なのだと思う。しかし、アクティブ・ラーニングの解説書や研修で、この部分について踏み込んだことを述べるものを、寡聞にしてわたしは知らない。どうしても拭いきれないモヤモヤは、根本的な問題を置き去りにしているような気がすることによるのだと思う。

アクティブ・ラーニングを取り入れることに異論があるわけではない。一方で、便利な魔法道具や小手先の方法論のように取り入れて本質的なことを見失いたくない。
どれだけおもしろがれるか。自然と前のめりになるような好奇心をかき立てられるのか。いつか誰かの役に立てることを願いながら、種を蒔く。その日々の中で、試行錯誤と模索を繰り返すしかない。

(ふー、息を詰めてまじめに考えるとちょっとつかれますね。いやはや。)

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《2020/02/06 補記》
「ペンギンの島」というスマホゲームが好きです。最近我が島にはドキュメンタリー撮影を始めたペンギンがいます。あるとき彼の構えるレンズに、ヒゲペンギンが顔をつっこんでいました。前のめりの好奇心、かくありたいものです。

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