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反省し、言語化して、反芻する

「言語化が大切」
過去に何度もここで書いてきたし、
巷間よく言われる話である。

プロフェッショナルと言われる人たちは、
自分の仕事を鳥の目で俯瞰し、
その何たるかを客観的、論理的に
説明できるものだ。

自分自身も、プロとして仕事に励む以上、
その仕事にまつわる「言語化」を
高いレベルで行う必要があると考え、
常にそれを意識している。

「言語化」と聞くと、言葉を仕事に
する人だけがやればいいのでは、
と勘違いする向きもあるかもしれないが、
そうではない。

仕事の基本は、人が人のために何かを
成すこと。
そして、人と人との間においては、
必ずコミュニケーションが発生する。

このコミュニケーションが、
言語の場合もあれば非言語の場合もある
わけだが、いずれの場合も「言語化」
しておくことで再現性がグンと高まる
ことは間違いない。

それゆえ、仕事に携わる人であれば誰でも
「言語化」を自らに課すことが肝要
だと
思うのである。

落語と聞くと、江戸時代あたりから続いて
いる「伝統芸能」というイメージがあり、
師匠から弟子へと「修行」を通じて語り
継がれている印象
だ。

「落語とは、●●である」的な、客観的な
「落語論」が存在するなど、考えたことも
なかったのだが、天才と謳われた立川談志
こういう本を出していると知った。

実はこちらの本はまだ読んでおらず、
先にこちらの本を読んで知った次第。

談志の下で、9年半にわたり「前座」修行を
行った立川談慶師匠の本。
大きく二つのパートに分かれており、
前半に談志の凄さが弟子の視点からつづられ、
後半では談志がどのように談慶を育てたかが
ほぼ時系列でつづられている。

面白くて、読み始めたら止められず、
新書で割と文字数も少ないこともあり
一気に読み終えてしまった。

前半では、談志のどこがすごいのかを、
バリエーション豊かに言語化
している
印象を持った。
「談志=織田信長」
「談志=日蓮」
といったアナロジーも用いながら、
談志の凄さを客観的に表現しようと
努めている。

落語家は、言語を操る職業であることは
もちろん疑いない事実であるが、
どちらかというと「覚えて話す」ことが
中心であり、「言語化する」「書く」と
いうことに力を注いでいる人は少ない
印象を持っている。

その点、実は、談慶師匠はこの本以外
にも20冊ほど本を出されており、
「言語化の達人」と言ってよいレベル。
落語という伝統芸能において、談志が
どのような立ち位置であったのか、
分かりやすくまとめられている。

後半では、談慶師匠が異例の長さの
「前座」修行を進めていく過程で、
談志師匠から「愛のある鞭」を打たれ
続ける様子
を、臨場感たっぷりに描いて
いる。

詳細は省くが、最後まであきらめずに、
一つひとつ失敗と向き合って、ようやく
「二つ目」昇進がかなった場面など、
つい感情移入して心に灯がともるようで
あった。

9年半かかっても、談志師匠があえて
昇進させずに、談慶師匠に掴ませたかった
ものは何だったのか。
それは、自ら反省して過ちに気付き、
自らがそれを客観視して受け入れ、
そして自らそれを克服すること。

そんな風に解釈させてもらった。

人は人を「変える」ことなどできない。
せいぜい、自ら「気付く」ように仕向けることしかできない。
そして、自ら気付いて「変わる」ことによってのみ、次のステージへと進化・成長することができる。

どこで聞いたかもはや思い出せないが、
「真理」「本質」に近いと思っている
このような考え方を、談志師匠も確信し、
実践していたのだということが分かる。

「反省」し、「言語化」して、それを
トコトン「反芻」することで、
自らをアップデートし続ける。

その重要性を、談慶師匠の修行の日々と
重ねながら再認識できる良書である。

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