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ヂーニョ クラッキ列伝 第142回 下薗昌記 2021年8月号

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年8月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 ブラジル人が愛して止まないフッテボウ・アルテ(芸術サッカー)。創造性に満ち溢れたプレーや、ドリブル、フェイントが百年以上、多くのブラジル人に喜びを与えて来たが、そんな芸術性を真っ向から否定した男がいた。

 彼の名前はエジ・ウィウソン・ジョセ・ドス・サントス。いかにもブラジル人にありがちな長い名前を語る必要はない。グレミオのサポーターにとってはアルファベット5文字もあれば十分だ。

 Dinho――。グレミスタたちはヂーニョの登録名で知られたファイターのことを永遠に忘れはしない。

 1966年、セルジッペ州の小さな町に生を受けたヂーニョはアラカジューにある小さなクラブ、コンフィアンサでキャリアをスタートさせる。

 泥臭いプレースタイルとは対照的に、数々の栄冠に満ちた華やかなキャリアで最初に浴びたスポットライトは1992年から2年間所属したサンパウロでのものだった。

 テレ・サンターナ率いる黄金時代に2度のコパ・リベルタドーレスとトヨタカップ制覇に貢献したヂーニョだが、1994年に移籍したサントスでは定位置をつかみきれず、1995年にグレミオで出直しを図った。

「パンパの盗賊」の愛称で知られたヂーニョだが、彼が盗むのは金銀財宝ではなく、相手ボール。まさに「殺人タックル」という表現がふさわしい、深いタックルで相手ボールをかっさらい、そして時に相手選手の足までも削ったものだった。

 よりファウルの適用が厳格化されている現代サッカーなら、炎上案件となりかねないほど時にラフプレーも厭わなかったヂーニョだが、その信条を象徴するような言葉が残っている。

「ボールをまたいで、どこに向かおうとしているのかわからないようなロビーニョは見たくないね。もし奴が俺の前であのフェイントを見せようものなら、首根っこをへし折ってやるさ」

 火事と喧嘩は江戸の華と言ったものだが、ヂーニョのキャリアにおいて、ハードタックルと乱闘は付き物だった。

 グレミオに移籍した当時、チームを率いていたのはフェリポンことルイス・フェリペ・スコラーリ。この厳格な指揮官もまた、芸術サッカーの対義語でもあるフッテボウ・レズウタード(結果のサッカー)の信奉者だったが、そんな監督にとってヂーニョは頼もしい懐刀であり続けた。1995年には自身にとって3度目となるコパ・リベルタドーレス制覇を果たし、一気にグレミオサポーターの心を掴んだのである。

 そしてグレミオでのラストイヤーである1997年にはコパ・ド・ブラジルでも優勝。無骨なハードワーカーはブラジル代表に全く縁がなかったものの、その長いキャリアにおいてクラブシーンで考えうる全ての栄冠を手にしていた。

 引退後は指導者やポルト・アレグレ市議も経験したヂーニョだが、今はポルト・アレグレでの生活を満喫する日々である。

「サポーターが街中で、僕に対して示してくれるリスペクトぶりに魅了されたんだ」

 ライバルであるインテルナシオナウのサポーターにとっては忌むべき存在であろうが、グレミスタにとっては南米王者に輝いた永遠のヒーローだ。

 かつてヂーニョがプレーした当時のスタジアム、オリンピコは取り壊されたが、現在の新たなホーム、アレーナ・ド・グレミオにはグレミオのサポーターが横断幕に掲げた有名な言葉が刻み込まれている。

「練習は試合、試合は戦争」

 パンパの盗賊と呼ばれた男は、まさに戦争を戦い抜いたのだ。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


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