見出し画像

ダニーロ クラッキ列伝 第148回 下薗昌記

画像1

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2022年2月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

画像3

 世界的に知られる存在でありながら、クラブや代表チームで世界一に手が届かない選手は数多いが、決して突出した個ではなくても、栄冠に満ちたサッカー人生を送る選手もいる。

 2019年にスパイクを脱いだダニーロは、紛れもなく後者に相当する男である。

 かつてはサンパウロサポーターが、そして近年ではコリンチャンスサポーターが、彼のことをフランスの天才ジダンにちなむ愛称「ジダニーロ」と呼んだ。

 もっとも控えめなダニーロ自身は、ジダンの足元にも及ばないことを自認している。

「サポーターの評価には感謝しているよ。ただ、選手にはそれぞれの器がある。ジダンは凄すぎたよ」

 独特の間合いでプレーするダニーロは走力やフィジカルが重視されている現代サッカーにおける絶滅危惧種のような存在だった。

 ダニーロ・ガブリエウ・デ・アンドラーデは1979年ミナス・ジェライス州のサンゴタルドで生を受けた。幼少からサッカーに励んだ左利きの少年は、地元の小クラブで十代を過ごしていたが、ある大会で名門ゴイアスのスカウトにその才能を見出され、成功街道への入り口に立つ。

 ゴイアス時代の指揮官はブラジルサッカー界屈指の名将に成長したクーカだったが、クーカがサンパウロの指揮官に就任した2004年、自身初のビッグクラブとなるサンパウロに移籍。当初は独特の間合いから繰り出すパスセンスがサポーターに理解されず、厳しい批判を受けたこともあったが、2005年にはコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し、クラブワールドカップでもリヴァプールを破り、「世界一」の称号を手にするのだ。

 サンパウロでも英雄としての地位を築き始めていたダニーロだったが、キャリアハイの舞台となったのは鹿島アントラーズでのプレーを終え、新たな新天地として向かったコリンチャンスだった。

 2012年にはコリンチアーノにとっての悲願だった南米制覇、コパ・リベルタドーレスの初優勝に貢献すると、再びクラブワールドカップでチェルシーを下して、二度目のクラブ世界一を勝ち取ったのだ。

 コリンチャンスでは3度のブラジル全国選手権優勝も手にし、その栄光に満ちたキャリアの中で手にしていないのはコパ・ド・ブラジルの優勝のみ。

 しかし、ベストイレブンなど個人の栄冠には縁がなく、ブラジル代表のユニフォームをまとうことは一度もなかった。

「僕のキャリアに欠けていたものはセレソン歴。しかし、僕のポジションにはライバルが多く、彼らは欧州で成功した選手ばかりだった」

 負傷もあってコリンチャンスのキャリアの終盤には満足なプレーができなかったダニーロは2019年にヴィラ・ノヴァに移籍。その年に現役引退を決意したが、ゴイアスで家族と暮らしながらサッカースクールを経営。そしてサッカー監督のライセンスを取得したダニーロは今、古巣のコリンチャンスの下部組織で監督としてのキャリアをスタートさせている。

「僕のポジションでは必ずしもスピードは必要ない。ただ、クレバーであることが大切だ」

 キャリアを通じて得たのは2度の世界一を含む25のタイトル。「ジダニーロ」と呼ばれた男は、指導者としても勝者を目指す。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

画像4


月刊ピンドラーマ2022年2月号
(写真をクリック)

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?