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イポジュカン クラッキ列伝 第138回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2021年4月号

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年4月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

くらっき[1]

 大航海時代の偉大なる航海者の名をクラブ名に抱きながらも近年、低迷が続くヴァスコ・ダ・ガマ。2020年には4度目のブラジル全国選手権2部降格を余儀なくされたリオデジャネイロの名門だが、王国のサッカー史においては様々なクラッキを輩出してきた。

 クラブ史上歴代5位となる225得点を叩き出したのはイポジュカン。その数字はいつまでも陰りを見せることはないが、とりわけ評価されるべきは、彼が生粋の点取り屋ではなかったことだった。

 大型化が進む現代サッカーにおいて、2メートル近い身長の選手は決して珍しくないが、イポジュカンがプレーした1940年代から50年代にかけて、190センチの長身は、やはり際立っていた。

 コーナーキックやフリーキックなど相手ゴール近くでのセットプレーではしばしば、その長身を生かしてヘディングシュートを叩き込んだイポジュカンではあるが、もっとも得意としたポジションは中盤でのプレー。「ピッチ上の芸術家」とさえ称された長身の天才は、のちにブラジル代表でキャプテンを務めるソークラテスの原型とでもいうべき男だったのだ。

 1926年、ブラジル北部のマセイオで生を受けたイポジュカンは地元クラブで、早くも頭角を表していた。細身だが、左利きの技巧派は11歳にして、ヴァスコ・ダ・ガマの下部組織に引き抜かれるのである。

 まだユースチームに在籍していた1944年からトップチームでのプレー機会を手にし、徐々に存在感を高めていく。

 もっとも、その繊細なボールタッチ同様、メンタル面も、ひ弱でこんなエピソードが残っている。

 1950年のリオデジャネイロ州選手権の決勝戦の一コマだ。前半、アメリカを相手に決定的なシュートをミス。すると長身の芸術家はのちにブラジル代表を率いる名将、フラヴィオ・コスタに対して「今日は調子が良くない。後半はもうピッチに立ちたくない」と懇願したという。

 もっとも、指揮官からハッパをかけられて後半もピッチに立ったイポジュカンは、エースのアデミールの決勝点をお膳立て。優勝に貢献するのだ。

 ブラジル代表では1952年のパンアメリカン選手権で優勝に貢献したものの、ワールドカップには縁がなかったイポジュカン。

 ただ、その才能の確かさをブラジルサッカー史に残る天才SBのニウトン・サントスはペレに比肩する技術の持ち主だったと証言している。

 ヴァスコ・ダ・ガマで5度のリオデジャネイロ州選手権制覇に貢献した後、ナイトライフもこよなく愛したボールの芸術家は、1954年からポルトゥゲーザに移籍。1960年までの在籍期間中に218試合に出場し、52ゴールをゲットした。1960年に現役を退き、ポルトゥゲーザで指導者としての道を歩み始めたイポジュカンだったが腎炎に苦しめられ、1970年には腎移植の手術を受けているが、これは当時の南米では極めて珍しいものだったという。

 かつてはマラカナンスタジアムで、そしてポルトゥゲーザのホームであるカニンデーで芸術的なボールさばきを見せつけた左利きの天才は1978年6月、52歳の若さでこの世を去った。

 トゥピ・グアラニー語では「殺し屋」を意味するとも言われるイポジュカン。「Ipojucã」「Ipojuca」「Ypojucan」。当時の新聞では様々な名前の表記もされた彼ではあるが、ヴァスコ・ダ・ガマとポルトゥゲーザの両サポーターにとっては、イポジュカンの綴りなど、どうだっていいことなのである。

 長身ながら抜群のボールタッチを見せ、ゴールも量産した紛れもないクラッキ。イポジュカンとはいつまでも英雄の同義語なのだから。

下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2021年4月号
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