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レナト・ルイス・デ・サー・フィーリョ  クラッキ列伝 第145回 下薗昌記 2021年11月号

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年11月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 ブラジルのサッカー界には実に様々な選手の肩書きが存在するものだ。

「無敗記録の死刑執行人」

 レナト・サーを人はこう呼ぶが、そんな物騒な肩書きとは対照的に、彼はごく平凡な勤め人として人生を終えるはずの男だった。

 1955年、レナト・ルイス・デ・サー・フィーリョはサンタ・カタリーナ州のトゥバロンで生を受けた。

 父は1940年代にサンタ・カタリーナ州を代表する名門、アヴァイーでプレーしたサッカー選手。幼きレナトも自ずとボールを愛し、ボールと戯れる日々を過ごしていたが、父は息子をサッカー選手にするつもりはなかったという。

 趣味でフットサルに興じていた十代のレナトは16歳にしてフロリアノポリスで勉強をしながら、銀行で事務員として働く日々を過ごしていたが、やはり才能は名声を呼び寄せるものである。

 パスセンスと得点感覚を兼ね備えたレナトは銀行のフットサルチームに誘われ、あっという間にその名を町に知らしめた。

 1975年12月27日、サンタ・カタリーナ州のフットサル選手権でレナトが所属する銀行のチームは決勝に進出。しかしレナトは試合中、相手選手と頭をぶつけ、意識を失うと病院に緊急搬送。48時間を集中治療室で過ごしたのだ。

 一命を取り留め、一般病室に移ったレナトにとっては散々な年の瀬だったが、数日遅れのクリスマスプレゼントが待っていた。

 見舞いに訪れたフットサルチームの監督が手にしていたのは大会得点王のトロフィーと準優勝のメダル。エースを欠いたチームは決勝で敗れたのだが、この大会での活躍を見たアヴァイーの会長がオファーをしてきたのだ。

 20歳でアヴァイーと契約し、プロキャリアをスタートさせたレナトだが、1977年にはサンタ・カタリーナ州選手権で準優勝に貢献。グレミオから誘いを受け、1978年から活躍の場をポルト・アレグレに移すのだ。当時、グレミオを率いていた名将、テレ・サンターナがその才能を認めたのだ。

 全国的にその名を売ったのは移籍一年目のことだ。1978年7月、ブラジル全国選手権でグレミオはボタフォゴと対戦。当時ボタフォゴは公式戦52試合無敗という記録を誇っていたが、レナトの2得点を含めてグレミオがマラカナン競技場で3対0と快勝。ボタフォゴの快進撃をストップしてみせた。

「死刑執行人」としての活躍は一度だけにとどまらなかった。1979年にはボタフォゴに移籍。そしてやはり52試合無敗が続いていたフラメンゴとマラカナン競技場で対戦すると、レナトの決勝ゴールで1対0の勝利。ジーコ擁するフラメンゴに13万9千人が見守る中で土をつけたのだ。

 流浪の技巧派は再びグレミオに移籍し、1981年のブラジル全国選手権ではグレミオの初タイトルにつながるアシストも記録。ブラジル代表には縁がなかったが、ビッグクラブを点々とし、32歳でスパイクを脱いだ。

 かつて銀行で働いたことがあるだけに「人生設計」の計算も抜かりなく、サンタ・カタリーナ州知事を務めた大物政治家の娘と結婚し、企業家として第二の人生でも成功を収めている。

 もっともボタフォゴとフラメンゴのオールドファンにとって、レナトは無敗記録をストップした憎き存在であるのは間違いない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

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月刊ピンドラーマ2021年11月号
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