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瞑想的生活

今朝、駅からスタジオまで歩く道中、大江橋近くの縁石に座り込んでいる男性がいました。彼は40代、あまり身なりの良くない疲れた印象でぼんやり遠くを見つめています。家族が彼を見捨てて出て行ったのだろうか、あるいは仕事を失くしたのか。焦点は合っているような合っていないような、彼はほぼじっとして動きません。

果たして、どれだけの人が途方に暮れるべき場面で途方に暮れることができるのだろうかと。

ふと、そんなことを思いました。辛いことがあった時に、人目も気にせず地べたに座り込んで、あの彼のようにできるでしょうか。

誰にだって悲惨なこと、辛いことは生きていればあるはずのに、多くの人はスマートフォンやエンターテインメントに逃げてしまいます。仕事に逃げてしまう人もいます。「躁的自己防衛」と言ったりもします。向き合うべき人生の課題から逃げているという意味では、パチンコだろうがスマートフォンだろうが、仕事だろうが変わらないのです。カルマ(業)は、必ず追いかけてきます。小汚い彼を変な表現ですが、「いいな」と思いながら歩き続けました。

そのまま、大江橋を渡ると陽が差して暖かそうな場所があって、鳩が休んでいました。糞を撒き散らすのであまり愛されていない気もする鳩ですが、平和の象徴だったはずです。いつであろうと、鳩は鳩のままです。

昼、好きな靱公園近くのお蕎麦屋さんに行きました。目を閉じて瞑想しながら、料理が出てくるのを待ちます。鞄の中の本を読むことも、スマートフォンに触れることもなく、ただ目を閉じて料理を待ちます。

そして、料理を食べ、お礼を言って店を出る。その美味しさ、優しさに泣きそうになります。近くのコーヒースタンドに寄って、短い雑談をします。コーヒーを頂き、自転車を手で押しながら、靱公園へ。一人、裸足になって芝生の上でコーヒーを飲みます。足裏の感覚、心地よい日差し、疲れたサラリーマン、幸せそうなカップル、見知らぬ親子たちの団欒、ベンチに座る路上生活者。そして、コロナ渦になって止まっていた噴水からまた水が湧き出している。噴水をぼんやり眺めてコーヒーを飲みながら、また泣きそうになる。生活の中で積み上がる緊張がリリース(解放)され、また呼吸がより自然で柔らかくなるのに気付きます。

瞑想的生活。

一昔前の人たちが当たり前に出来ていた日常。今の私たちは仕事や娯楽、逃げる方法(すべ)が多すぎて、簡単ではありません。そんな当たり前を少し取り戻すことができれば、日々はもっと穏やかで豊かなものになるはずです。

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