終末にはコーヒーを ②

 テーブルの両端にコロンビアコーヒーのストレートが入ったカップを置き、着替えのパジャマを着た悪魔と僕は向かい合わせに座った。
 カップに口をつけた瞬間、悪魔は顔をしかめて「私に泥水を飲ませるつもりか!」とまた火を噴く勢いで怒り始めた。仕方がないので僕はここに来てから一度も封を切っていなかったミルクとシュガーを二袋ずつ悪魔のために用意した。小さなマグカップの中でそれらをたっぷりと混ぜあわせる。甘くクリーミーになったそれはようやく彼女の口に合ったようで、やっと僕も一息つくことができた。

「悪い豆じゃないんだ」
「……何がだ?」
「このコーヒーだよ」

マグカップに満たされたこげ茶色の液体に目をやる。表面には僕の顔が浮かんでいて、それはカップの揺らぎとともにゆらゆらと歪む。

「どんな技術を使っているのかは知らないけれど、保存状態はいいし、元々の豆も上質なものだ。嗜好品であるコーヒー豆の保存にここまで注力することができるのは、このシェルターの開発者の中に相当なコーヒー好きがいたということだろうと思う。ただ悔やまれるのは、その開発者がコロンビアのストレートしか好まなかったということだ。ここにはコーヒー豆が数十キロという単位で保存されていたけれど、種類は単一、コロンビアのみだ」
「はぁ、それは不幸なことなのか?」

悪魔は興味なさげにそう答えながら、クイクイッと空のマグカップを僕のほうに向けて揺らす。おそらく、おかわりを要求しているのだろう。僕はマグカップを受け取り、それを用意してやる。

「いや、不幸というわけじゃない。むしろ幸運な方だと思う。こんなに物資が充実しているシェルターに拾われることができたのだから、おそらく宝くじの一等級の幸運だ。だけど、人は飽きる。どうしようもなく飽きる。コーヒーは、豆の配合を入れ替えるだけで無限の香りと味と可能性を探ることができる飲料だ。僕も昔はいろいろな組み合わせを試したし、その中で本当にこれだ、というパターンに巡り合ったこともある。だからといってそれだけを好むというわけじゃないけれど、それでなくても同じ豆のストレートだけを飲み続けていると飽きてくるのはしようのないことだと思うんだ」
「だから、私を召還したのか? 同じ豆のコーヒーを飲み続けることに飽きたから」

 コーヒーメーカーが音を鳴らし、淹れあがったことを知らせてくれる。僕はマグカップを取り、シュガーとミルクを入れてかき混ぜ、悪魔に渡す。受け取るやいなや、彼女はすぐにそれを口につけ、コクンと一度喉に通し、かちゃりと音を立ててソーサーに置いた。紅い上唇が、ほんの少しブラウンに染まっていた。

 「……そういうわけじゃない。そもそも願いを叶えたくて、君を呼び出したわけじゃないんだ」
 「じゃあどういうわけだ。わざわざ悪魔を呼び出すような人間は、欲望あるいは憎しみに心を囚われていると相場が決まっている」

 これまで悪魔と関わってきた人間というのがいるなら、本当にロクでもないやつばかりなんだなぁ、と思いつつ僕もコロンビアに口をつけた。慣れ親しんだ、だけど何の変哲もない味。やはり、飽きてしまっている。

 「……他にできることはやりつくしてしまったからね」

 そう呟くように言い、僕はここに来てからの日々を思った。
 何もわからないままに無機質な空間で蘇生され、僕はシェルターのナビゲード・システムによって、この世界の現状を知らされた。まるで空想のような、出鱈目のような、本当の話。にわかには信じられない機械音声の説明だったけれど、一週間もたったころには僕はそれを受け入れてしまっていた。
 もともと余生のような人生だったのだ。終わりを受け入れることは容易い。僕はナビゲート・システムに従い、かつての知識者たちが設定した「生存者の義務」をひとつひとつ履行したが、世界に救いは訪れなかった。人間の科学も、そこまで万能ではなかったということだ。
 すべての義務を履行し終えると、寝室に置かれていた小さな金庫の鍵があいた。特に期待もしないで扉を開くと、そこにはご丁寧にも弾丸が一発だけ入った拳銃が置かれていた。
 いまさら、という感じではあったので何の感慨も湧かなかったけれど、銃の傍らに置かれた小さな古い本には少し興味を引かれた。
 高度な防腐処理が施されたそれは、いわゆる“魔術書”で、怪しげな魔術や悪魔召喚の儀式について多くの記述があった。
 使われていた言語は僕の知ったものではなかったが、なにせ時間だけは腐るほどにあったので、僕はデータ・ブックのファイルから一致する言語を一つ一つ拾い上げ、解読していった。
 僕にしてみれば、偉大な「生存者の義務」を一つ一つ果たすのも、魔術書に記された怪しげな「魔術」を一つ一つ試すのも同じこと、余生を送るための「暇つぶし」に過ぎなかったのかもしれない。
 
 「そうして悪魔召喚の儀式を試し、私を呼びだした、と」
 「有り体に言えばそういうことだね」
 「暇つぶしで悪魔を召還するな、愚か者!」

 悪魔の尻尾がビュンとうなり、僕の頭を強かに打った。思わず「あいてっ」と声は出たものの、小突く程度の衝撃だったので、さすっていれば痛みは引いた。
 悪魔にとってみても若造をちょいと叱る程度の攻撃だったのだろう。昔よく馬鹿を言って、こうしてはたかれたことを思い出した。

 「お前は先刻、ここを出られないといったな」
 「ああ、そうだよ」
 「ここの“外”はどうなってしまっているのだ? というか、ここはどういう施設なのだ。食べ物も水も豊富にあるし、十分な広さもあるようだが、住んでいるのは貴様一人だけ。どうにもへんなところだ」
 「……本当に知らないのか?」

 僕がそう尋ねると、悪魔はあからさまにムッとした表情を浮かべた。自分の無知を指摘されたのだ、無理もない。こういう時はすぐ下手に出て説明するに限る。
 しかし、悪魔がこのことを知らないのは本当に不思議なことなのだ。彼女が本当に悪魔であるなら、原因の当事者は他でもない彼女たちであるのだから。

 「ハルマゲドンだよ」
 「……丸禿げがどうしたって?」
 「……もう一度言おう。最終戦争(ハルマゲドン)だ。ラグナロク、神々の黄昏、ゴグ・マゴクの戦い、言い方はなんでもいい。とにかくこの世界で、僕ら人間の力が及ばない存在達による大きな戦争が起こったらしい。神々と悪魔達の最終戦争、ここのナビゲート・システムはそう表現していたよ。災害、天変地異、そういった自然の被害だけじゃない。神と悪魔、それぞれの陣営に下った人間たちの兵器による戦争、嬲りあい、潰しあい、殺しあい。そうやって世界は滅び、地上には人が住めなくなった」

 僕の話を、悪魔は黙って聞いていた。様子を見る限り、本当に知らなかったようだ。このシェルターを作った科学者たちが戦争から身を隠して後の人類救済を画策したように、悪魔の中にも戦いから離れたものがいたのだろうか。

 「ここは人間が造り上げたシェルターの中だ。地下深くにあるから、地上の汚染の影響を受けないし、地熱によって生活に必要なエネルギーを得ることができる。近くを水脈が通っているから、濾過装置は必要だけど水には困らないし、豊富な植物の種と栽培用のプラントもあるから食べ物も調達することができる。まさに人類救済の箱舟だよ。ここの名前、知ってる? 『ノア』っていうんだ。悪い冗談みたいだろう。神々に見捨てられ人間は滅んだのに、神に与えられた箱舟をモチーフにここは作られているんだ」

 少し、饒舌が過ぎた。何しろ久しぶりの会話だ。僕は自分が思っているよりもずっと寂しかったのかもしれない。
 悪魔の反応は思っていたよりもドライなもので、コーヒーをすすりながら特に何を言うでもなく僕の話を聞いていたが、ようやく口を開いて疑問を口にした。

 「で、どうしてここには貴様しかいないのだ?」
 
 至極もっともな疑問だ。
 人類の種の保存のためのシェルターなら、そこには男女のつがいがいて当たり前。それでなくともこれだけの広いスペースを持つシェルターならもっと多くの人が生活していてもなんら問題はない。
 それなのにここには僕しかいない。

 「詳しいことは僕も知らない。ただ、戦争によって世界が滅ぶ前に、このシェルターを巡ってなんらかの争いがあったことは確かだ。それによってシェルターは無人のまま、地下深くに潜ることになった。完成してから僕がここに拾われるまで、ここには誰もいなかったんだ」
 「無人の箱舟か、まるで地方自治体の公共事業で作られた使う目的のない施設のような虚しさだな」

 悪魔の漏らした感想が、妙に自分の生まれた時代の皮肉と合致していたことに驚いた。

 「地方自治体って……君はいつの時代の生まれなの?」
 「……女に年齢を尋ねるもんじゃないぞ、人間」
 
 悪魔はギロリと僕を睨めつけた。どうやら、見かけどおり彼女は性別的に女性らしい。悪魔には明確な性別などないのかも、と思っていたがどうやらそうではないようだ。

 「ここが無人だったとして、貴様はどうやってここに来たのだ? というか、その丸禿ドンとやらが起こったとして、貴様はどうやって生き残ったのだ。人類が滅ぶほどの災厄を」

 災厄を逃れた、という言い方は正しくないのかもしれない。
 何しろ、僕はその災厄が起こるずっとずっと前に、一度死んでしまっているからだ。
 僕はおもむろに立ち上がり、冷凍庫の扉を開けてパックを二つ取り出した。冷凍の保存食だ。このシェルターに保存された、限りある動物性タンパク質を電子レンジに投げ込み、スイッチを入れた。

 「おい、何をしている?」

 悪魔が声をかける。

 「そろそろお腹も減っただろうと思って」

 数十秒で温めは完了する。僕はアチチと手の指を踊らせながらパックを取り出し、用意しておいた器にあける。ホカホカと湯気を立ててあらわれたのは鶏の唐揚げだ。
 シェルターを準備した人物の中に日本人がいたのだろうか。巨大な冷凍庫の中に用意された冷凍食品の中には、かつて僕もお世話になったモノに近い日本の料理が含まれていた。
 高度な保存技術で冷凍されたその肉は、まるで揚げたてのような旨さで、僕も重宝している。
 おそらく初めて目にするであろう鶏の唐揚げを前にして悪魔はしばしそれを見つめていたが、やがて僕の用意した箸を器用に使って口へと運んだ。
 どうやらお口に召したようで、悪魔は次々に唐揚げ頬張っていく。

 「おいしい?」

 悪魔は頬を唐揚げで膨らませたまま、コクコクと頷いた。その姿は頬袋に餌を詰め込んだリスのようで実に可愛らしかった。

 「僕は、その肉と同じなんだ」

 悪魔は首をかしげる。どうやら、僕の言っていることがうまく伝わらなかったみたいだ。

 「最終戦争が起こるずっとずっと前に、僕は一度死んだ。僕は登山家でね、雪山を登っている途中にクレバス、雪渓に形成された深い深い割れ目に落ちた。最後に覚えているのは、落ちていく瞬間に割れ目の間から見えた、厚くて暗い雲に覆われた空だけ。そうして僕の体は、戦争の炎も届かない氷と雪に覆われた地の底に落ちて、そこで凍っていった。どんな条件が揃ったのかはわからないけれど、奇跡的に体組織は崩壊することなく保存された。冷凍パックされたその鶏肉みたいにね」

 頬に含んだ唐揚げをゴクンと喉に通し、悪魔は言った。

 「じゃあ、貴様も誰かによってその小さな機械に入れられて、チン!と温められたのか」
 「人間の蘇生はそう簡単にはいかないだろうけど、まぁそんなところだよ。僕をクレバスの底から拾い上げたのは、このシェルターが定期的に地下に放っていた無人の救命ポッドだ。どうやら、先人たちは、最終戦争後にどこかで誰かの体が修復可能な状態で残っていることを想定していたみたいでね。僕以外にも、どこかで誰かの死体を拾ってきていたみたいで、蘇生室にはいくつかそれが転がっていたよ。僕以外はうまくいかなかったみたいだけどね」
 
 僕はかつて目にした無数の死体達を思った。僕のような登山者が多かったが、それ以外にも色々な時代、色々な場所で偶然にも凍った状態で死んでいった体があった。この中で、どうして、僕だけが。そういう気持ちがあったことは否定しきれない。

 「では、貴様はこの世界でひとりきりということか」

 悪魔は僕の目をみてそう言った。
 人によっては絶望的に捉えられる事実を、実にストレートに述べるものだ。けれど、何の誤魔化しもないその言葉は逆に清々しく僕の心を拭った。

 「今は、君がいるけどね」
 「……ふん」

 纏った洋服の裾を持ち上げ、それで口を拭い、悪魔はすっくと立ち上がった。
 テクテクと歩き、壁際に設置してある戸棚へと向かう。
 戸棚の中には食器や常温保存のきく調味料、そして大量のコーヒー豆(コロンビアのみ)がしまってある。
 悪魔は戸棚の扉を開き、コーヒー豆の袋を取り出した。

 「貴様の願いは、コーヒー豆が欲しい、というものだったな。ブラジルと、キリマンジャロ」
 「できれば、ロブスタも」

 悪魔はコーヒーの袋をザッザッと上下に振り、目線の高さにラベルを持って行ってそれを眺めた。

 「その願い、叶えてやろう」
 「……! 本当か?」

 悪魔を召喚した際、咄嗟に口をついて出た願い。それほど強い思いでもって願ったものではなかったが、それでもこのおまけのような人生においてコーヒーを存分に楽しむことができるという可能性は、思いのほか嬉しいものだった。

 「もちろん、対価として貴様の魂は頂くがな。安心しろ。今回は後払いで願いを叶えてやる」
 
 コーヒー豆を片手に、悪魔はビシっと右手の人差し指とベクトル上の尻尾を僕に向けた。
 その瞳は爛々と燃え、頭髪はゆらゆらと宙に揺れた。

 「だから、私に最高に美味いコーヒーを飲ませろ!」

 悪魔はその頬に笑みを浮かべていた。
 実に満面の笑みであった。

 「貴様の淹れたコーヒー、なかなかに旨かった。しかしどうやら話を聞く限り、もっと豆の種類があれば、もっと旨いコーヒーも作れるのであろう?」

 確かに僕はそういった。
 コーヒーは単一の豆でももちろん楽しめるが、他の種類の豆とブレンドすることで、苦味、深み、酸味と自分の好みにあう特徴を引き出すことができる。そういったものを探っていくのも、コーヒーの楽しみの一つだ。
 僕が頷くと、悪魔は喜色満面にふんぞり返った。

 「では、私の好みに合うコーヒーを作るのだ。最初に飲んだような苦い泥水のようなものではないぞ! あの白の液体と白の粉を入れた状態で最も美味しく飲めるコーヒーだ!」

 ミルクとコーヒーをたっぷりと入れて、それでもコーヒーの旨みを失わずに楽しむことができるブレンド。
 僕はそんなブレンドを知っている気がした。
 古い記憶、懐かしさの中に埋もれた組み合わせ。詳細は思い出せないけれど、そんなブレンドがあった気がする。

 「かなでブレンド……」

 記憶の中にあるその名前を口に出すと、なんだか作れるような気がしてきた。悪魔の注文に沿った、悪魔のためのコーヒーを。

 「……わかった、作ろう。君の為のコーヒーを!」

 誰かの為にコーヒーを入れる。久しく忘れていたその感覚に、僕の心は踊っていた。まるで死んでいた心臓が、再び血液を全身に送り出しているかのように体の中が熱かった。
 僕は再び、生き返ったのかもしれない。一度目は、シェルターの蘇生装置によって。二度目は、悪魔の要望によって。

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