終末にはコーヒーを ③

 そうして、僕の願いは驚く程簡単に叶った。
 悪魔が大量にあるコロンビアの袋を手にとって二、三度上下に振ると、いつのまにか袋の印字が「キリマンジャロ」に変わっていた。
 よくある罠で、印字だけを変えて中身はそのままになっていたりしないかと疑ってみたりもしたが、封を切って香りを嗅げば間違いなくキリマンジャロのそれであり、悪魔の頂上的な力が本物であることを僕は改めて実感させられた。
 ブラジルとロブスタについても同様だった。ガサガサと袋を降るだけで、望みの豆が手に入った。
 封を開けて確認してみるとすべて生豆の状態だったので、僕は焙煎から始めることにした。
 ここの開発者の中にコーヒーフリークがいたのは間違いないようで、調理器具の中には焙煎用の手網も用意されていた。
 台所のガスコンロをつけて焙煎を始めると、悪魔が「どうしてガスコンロの炎はよくて自分の炎には消火装置が反応するのか」と文句をつけてきたので、あらかじめ台所のセーフティは調理温度くらいでは反応しないことを話すと、ならばシェルター全体のセーフティを切っても問題ないだろうとごねてきた。
 どうやら彼女にとって炎というのは人間にとってのゲップやらクシャミのようなもので、出さないと具合の悪いものらしい。僕は妥協し、あらかじめシェルターに設けられていた喫煙室のセーフティを解き、「火吹き室」と定めて悪魔に提供することにした。
 最初はわざわざ場所を移動するなんてまどろっこしいと文句を垂れていたが、生理的欲求には勝てないらしく暇があれば火吹き室へと向かって炎を出していた。
 悪魔の要望に従い、なるべく苦味が強く出ないよう、それでいてコーヒーのコクは失わないように豆は中炒り、ハイローストに留めた。それぞれの豆を炒り終わると、悪魔がさっそく寄ってきて早くコーヒーを淹れろとせがんできたが、焙煎直後だと豆がガスを多く含んでおりお湯とコーヒーが馴染みにくいことを説明したうえで、二日ほどガス抜きの時間が必要だと話した。
 悪魔は明らかに不満げな声を漏らしたが、待つ時間もコーヒーを美味しくする要素の一つだ、などと言って宥めると納得してくれたらしく、一緒に団扇を持って豆を冷ます手伝いをしてくれた。

 「貴様はコーヒー屋なのか?」

 焙煎した豆に団扇で風を送りつつ、悪魔は僕に尋ねた。

 「いや、そうじゃないけど」
 「ならば、なぜそんなにコーヒーに詳しいのだ。人間はみなコーヒー豆を炒ったり混ぜたりするものなのか?」
 「皆ってわけじゃないなぁ」
 「ならば、なぜだ?」

 この悪魔は、どうやら質問癖があるようで、自分が知らないことを知らないままにしておくのがどうも嫌いなようだ。なぜ、なぜと尋ねてくるその様子は好奇心旺盛な子供のようでもあった。

 「それは……」
 「それは?」

 身長の低い悪魔は、見上げるようにして僕を見る。くそ、なんだか恥ずかしいな。僕は悪魔の視線から逃げるようにコーヒー豆に目をやり、答えた。

 「……好きな女の子が、喫茶店で働いていたから」

 沈黙が流れる。
 ほんの少しの空白の後、悪魔が吹き出すのが聞こえた。

 「ふっ、ふふふ、おい貴様、ストレートがなんだ、ブレンドがなんだと偉そうに講釈を垂れていたが、結局は女のために仕入れた知識か? 猿だな、猿! 貴様は性欲で動く猿人間だ。ははは!」

 くそう、これだから言いたくなかった。
 僕は赤面しつつ、団扇で豆を煽いだ。本当は恥ずかしさで真っ赤になってしまった自分の顔を煽ぎたかった。
 悪魔の言う通り、僕ははじめ、邪な欲望でもってコーヒーの扉を叩いたのだった。
 大学の近くの、喫茶店だった。
 当時の僕といえば、ろくに講義に出るでもなく、登山部の部室に入り浸っては山の写真を眺めたり、高原地図を眺めたり、次の登山のスケジュールについて部員と話し合ったりしていた。
 ある日、ある部員と「山コーヒー」についての話になった。
 僕はそれまで特にこだわりを持っていなかったのだが、そいつは山で美味いコーヒーを飲むためだけに登山をしているらしく、こだわりのない僕を「それはお前が美味いコーヒーを飲んだことがないからだ!」と叱責したあげく無理やり喫茶店へと連れ込んだのだ。
 かなでと初めて会ったのはその日だった。
 カランカランという小気味よい鐘の音と店内に漂うコーヒーの香り、そしてかなでの凛とした「いらっしゃいませ」という声に迎えられて僕は初めてそこに入った。
 店内は洒落た雰囲気で、店の特製ブレンドも、一緒に頼めるパンケーキも好みの味だったが、それよりもなによりも僕はかなでの凛とした姿にひかれた。
 長身ですらりとした立ち姿、高い位置で結んだポニーテール、切れ長の目、笑うとこぼれる八重歯、注文を繰り返す時にほんの少し首を傾げる動作。その全てに、僕は見惚れた。
 その日、四杯目のおかわりの時、かなでは僕に言った。

 「コーヒー、お好きなんですね」

 僕はどきまぎしながら、咄嗟にこう答えた。

 「え、ええ。僕、うまいコーヒーを飲むために登山をやっているんです」

 同席した部員には頭を叩かれたが、そんな僕らの様子を見て笑うかなでを見ることができたので、僕としてはむしろ福音だった。
 そんな風に僕らの関係は始まった。
 幾度となく喫茶店に通い、関係が深まるほどに、僕のコーヒーの知識も深まっていった。登山から帰れば、今回はこんなコーヒーを飲んだ、とかなでに報告し、次はどんなブレンドを飲もうかと相談を持ち掛けたりした。
 その度にかなでは僕と一緒に配合について考えたり、アドバイスをくれたりした。かなでのコーヒーの知識は大したもので、見た目には随分と若いのに実はけっこうベテランなのかなと一度疑ってみたりもしたが、小さいころから叔父であるマスターにいろいろと教わっていた結果らしかった。その話を聞いて僕はこっそり安心し、それなら、とかなでに年齢を尋ねてみたが教えてはもらえず、頭をはたかれた。
 喫茶店の店員と客、という関係から恋人同士という関係になった時、僕はこの世の愛と幸福を全身で感じていた。それが祝福だと疑わなかった。僕らを引き合わせてくれたコーヒーに、感謝してもしきれなかった。
 そんなかなでが実はコーヒーをブラックで飲めないということを知ったのは、だいぶ店に通い詰めた後のことだ。

 「あんまり苦いと、飲めないのよね」

 困ったように首を傾げながらそういうかなでの姿を見て、僕は決めた。だったらミルクと砂糖を入れてもなお、コーヒーの旨みを最大限楽しめるブレンドを作ろうと。
 僕が「かなでブレンド」と名付けたコーヒーが完成したのは、それからだいぶ後のことだった。あまりに遅すぎた。
 僕がそのレシピを持って喫茶店を訪れたとき、すでにかなではこの世の去っていたのだから。

 「病気、だったんだ」

 気が付くと、僕は悪魔に全てを吐露していた。

 「かなでと最後に話したのは、初めて外国の山の登山に挑戦することになった時だ。しばらく日本に帰ってこないからって喫茶店に挨拶をしにいった。長い旅行になるから、その期間で例のブレンドを完成させてみせるって。山の綺麗な空気にインスピレーションを受けてかなでの為のコーヒー、淹れてみせるよって、僕はそう言った。かなでは笑って、じゃあ待ってる、約束だよって。その時、かなでの体はとっくに病気でボロボロだったんだ。初めて喫茶店で出会った時から、ずっと」

 幼い頃から体が弱く病院に入院し続けていて、長く生きられないと宣告されていたかなでは、だったら死ぬまでに一度でいいから外の世界で生きてみたい、と両親に懇願したらしい。結果、かなでの叔父が経営する喫茶店でアルバイトという扱いで働くことになった。
 働き始めたかなでは、医師に宣告されていた期間よりずっと、ずっと長く生きたという。働くという活力が、誰かと共に生きようという気持ちが、娘に生命力を与えたのだろう、とかなでの両親は涙ながらに言っていた。

 「僕が飛行機に乗って旅立った次の日に、かなでは倒れた。僕は高山に登り始めていたから、携帯電話の電波は通じなくて、下山の日までそれを知ることができなかった。僕がのんきに山でコーヒーを淹れている間に、かなでは苦しんで、苦しんで、死んだんだ」

 僕はかえでとの約束を果たせなかった。
 大切な人に、別れの一つも言うことができなかった。
 その時、僕の“命”は死んだのだ。大切にすべき何かは、音もなく崩れさっていった。

 「それから僕はひたすら山に登り続けた。どんな危険な時期でも、危険な山でも構わず登った。周りからは勇敢なクライマーだとか、鉄のチャレンジ精神だとか言われてもてはやされたけど、なんてことはない、失う“命”がないんだから、恐れることがなかったんだ。死に場所を求めていただけさ。なのに結局、こうして死なずにいる。世界が滅んだっていうのに、“命”の無い僕だけがこうして生きてる。皮肉な話だよ」

 豆はとっくに冷め切っていたけれど、僕は団扇を動かし続けていた。
 悪魔はそんな僕の話をじっと聞いていた。
 けして目をそらすことなく、正面から見つめて。
 僕は無性にコーヒーが飲みたかった。
 かなでを失ってからも、コーヒーだけは飲み続けた。
 それが、僕と世界をつなぐ唯一のモノだったし、余生のような人生を埋めるには最適なものだったからだ。

 「私に願えば」

 悪魔が口を開いた。

 「私に願えば、そのかなでという女を生き返らせることも出来た」

 同情でもしたのだろうか。
 悪魔は、彼女らしくない言葉を吐いた。
 センチメンタルな感傷に浸るのは、僕だけで十分だ。

 「かなでを生き返らせて、僕は魂を支払って死んで、今度は彼女をこの世界に一人きりにしろっていうのか?」

 悪魔はハッとしたような表情をし、左右にオロオロと目をやって今度は俯いた。少し、言い方がきつかっただろうか。どうも僕は悪魔の少女らしい外見に引きずられているらしい。なんとも罪悪感が湧いてしまう。

 「それに、かなでだってそんなことは望まないよ。こんな約束も果たせないような男、忘れたほうが彼女のためだ。さ、豆は十分冷えたし、あとは二日間待ってガスを抜こう。そうしたら、美味しいコーヒーが飲めるよ」

 そういって僕は悪魔の肩をポンポンと軽く叩いた。
 悪魔は一度僕の顔を、様子をうかがうようにして見上げ、僕が別段落ち込んでいないことを見ると「気安く触れるでないっ!」などと言ってまた尻尾ではたいてきた。
 僕は、なんとも可愛らしいこの悪魔に随分と気を許していた。
 たとえもうすぐ魂を刈られるとしても、最後にこんな数日を過ごせるのなら、それも悪くない。
 寝室の、金庫の中に眠る拳銃を思った。あれを使わないでよかった思える気持ちは、もしかしたら生への執着なのかな、と少し思った。

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