あの日、世界が見えなくて
2011年3月11日。
誰もが知るあの日、わたしも被災した。
大きな被害がある街ではなかったが、わたしの住んでいる街以外はないんじゃないかと思う、孤島にいたような時間だった。
※以下、震災のことを思い出したくない人はご注意くださると幸いです
入って3日目のバイト先で
当時、わたしは大学3年生。その日は入りたてのバイトで研修を受けていた。ひたちなか市ファッションクルーズ2階、スタジオアリスにいた。
突然地面がうごめくような揺れは「ただごとではない」と直感できる、今までにない感覚だった。むしろ地震だと理解するにも、少し時間がかかった。
ちょうど1人で資料を見ていたわたしは、その場でしゃがみこんだ。何もわからず、ただ、しゃがみこんだ。
揺れが収まると、みんな外へ移動した。建物の上から水が滝のよう流れ落ちていた。たくさんの割れたガラス。隣のカルディの床には赤い液体が広がっていて、それがワインだとわかるまでの一瞬、物凄くゾっとした。
駐車場に移動すると、笑いながら電話する若者、美容室の途中だったであろう頭にタオルを巻いたままの婦人、頭から血を流している男性、様々すぎて冷静な表情とは裏腹に、脳内は混乱していたと思う。
そんな中、耳に入ってきたのはラジオの「大津波警報」という単語。
(大津波?津波じゃなくて大津波って、初めて聞いたのだけど)
調べてもらえればわかるが、そこは海から近いし、ひたちなか市は海に面した街である。人生で初めて「大津波」なんて聞いてしまったら、それがここまで来るのではないかと不安にもなる。若者、よく笑っていられるな。
しかしわたし達は帰れない。荷物は店の中、車のカギも店の中。財布も携帯もない、制服とスリッパの身一つで陽が沈んでくる寒空になっても、動けなかった。
スポーツオーソリティが上着を配っていたのは神対応だったが、自分たちはあくまでスタッフであり、優先すべきはお客さんだと思ったのだろう。制服のわたし達は誰も、「ください」と言えなかった。
2時間後くらいだったろうか、店内に荷物を取りに行くことを許された。上司が取りに行き、半分のスタッフの荷物は戻ってきた。しかし、ロッカーが倒れて壁にもたれかかった状態らしく、開けられない場所の人は、その日は財布も携帯も車のカギも、戻ってこなかった。
わたしはというと、その日に限ってバッグの上に携帯を置いたので、携帯はどこかに飛んでしまったのだろう。バッグだけが戻ってきた。それでも戻って来なかったスタッフと比べたらラッキーな方なのだけど。
この世界がどうなっているかもわからないわたし達は、制服にスリッパのまま帰宅することになった。カギが戻ってきた人が分担して、カギのない人を送り、自宅へ帰る。
道はめちゃくちゃだった。道路があちこちデコボコして、家や店の外壁が崩壊して、信号が曲がってて、運転も恐い。送迎で慣れない道を通り、送り届けると、家族は無事なのか一気に不安になり、ドキドキしながら家に帰る。
帰宅
「ひとみちゃん!」と現れたお母さんの顔を見た瞬間に、緊張の糸が切れて涙が止まらなくなった。恐いし、身体は冷え切ってたし、たかだかバイト3日目で一緒だった、慣れない先輩たちしかいなくて、不安と言えもしなかった。
でもわたしは、恵まれていたと思う。元は一人暮らしだったが、バイトのある日はバイト先に近い実家に泊まることにしていたので、1人で過ごさずに済んだ。さらには、お父さんはその日体調が少しだけ悪くて会社を休んだらしく、介護中の母と、祖母が2人で不安に襲われることはなかった。男手が、一家の大黒柱が家にいてくれるというのは物凄い安心感がある。
しかし人間というのは次から次に思考が働くものである。家族は無事だった。じゃあ友達は?とまた次の不安が襲い掛かる。
わたしは携帯が閉じ込められてしまったので、当然、誰とも連絡がつかない。バイト先のあんな壊滅状態を見て「世界は終わった」と思ったわたしは大袈裟ではないと思う。ここだけ、孤島のように浮かんで、日本は沈んでいるのではないかと思っていた。誰にも言わなかったけど。
その日の夜は、余震もあるのでみんな1階のリビングでまとまって寝ることになった。
電気のない真っ暗なリビングで、おばあちゃんが泣き出す。恐い恐いと、泣き出す。わたしも泣き出す。友達がいなくなってたらどうしよう、と泣き出す。そうして気づいたら朝になって、水をもらいに行ったり、汲みに行ったり。
生活
ひたちなか市は、水の供給がめちゃくちゃ遅かった。約2週間断水。電気は2,3日、ガスはそれぞれだがうちは早く、水だけが遅かった。
そしてまたもやうちはラッキーなことに、井戸水もあった。電気が通って汲みに行った水も即必要なくなった。うちだけ水道水が届かなくて、仕方なく井戸水だったらしいが「残しておいてよかった」とお父さんが何度も言っていた。
地元の友達が会いに来てくれ、うちの水が出ると知ると定期的に来て食器を洗ったり、妹と体を洗って帰った。家族みんな来ていいと親が言っても、そこは遠慮するようで一番年頃の女の子の2人だけが来た。
うちの外に蛇口があり水が出るので「水出ます。ご自由にお使いください」と張り紙を張る親はなんだか誇らしかった。庭の中なのでたぶん取りに行くのは引ける場所ではあったが。
5日ほどして、バイト先の先輩が荷物を取りに行ったらしく、わたしの携帯を見つけてくれた。
後から知ったのだが、当時回線も障害が起きていて個別に連絡はつかずとも、mixiのログイン時間などで友人同士は安否確認できたらしい。
孤島にいたのは自分だけだったのか。と、あっけに取られた記憶がある。
そんなこんなで、わたしの地域の被害といえば有名なのは原発の放射能。安否としては、わたしの周りは皆無事だった。ただ、ネットで瞬時に連絡が取れるこの時代で誰とも連絡が取れないというのは、わたしにとっては本当に世界が分断されたような気持ちだった。
その後
ボランティアで行っていた学校の子ども達は床上浸水しているような住宅地だったので「ここまで水が来たんだよ!」と腰に手を当ててあっけらかんと話していた。恐いとか超えた感情なのか、驚きの方が強いのか、わからなかったけど、どうか思うまま話して、トラウマにならないといいなと思って聞いていた。
わたしはTVも見れなかったので、度重なる津波の映像に心を痛める人が増えていると聞いて、そんなことになっていたのか。と、これまた孤島にいたような気持ちになった。
こういうのは比べるものじゃないけど、被災したといっても自分は大変な部類ではなかったと思う。
でもわたしはわたしの小さな世界の中で恐くて、誰がどうなっているか知らないから比べもしなくて、ただあの日々を過ごしていた。
誰かが苦しんでいる時に、誰かが笑ってはいけないなんてないはずで、誰かと苦しみの比べっ子もしなくていいはず。
小さな世界から思う
10年経っても、黙祷するその心は、美しいとは思う。
わたしも、わたしのこの小さな世界で感じたものを残したいから書いたけど、大事なのは知ることで、同調することではないと思う。
心を痛ませるのが、必ずしも美しさではない。どんなに想像しても、人と人は全く同じ気持ちにはなれないのだから、想像するのはいいけど、苦しむ必要はあるのだろうか。
日本は何かあると自粛自粛というけど、わたしは要らないと思っている。今のコロナのような状況はまた別だけど。
人それぞれ大変で、生きるだけに必死な人もいて、お金も時間も身体も限られてるから。寄付とか諸々、できる人はやればいいし、やれることしたら、心を痛ませるほど考えなくていいと思う。その間日本の経済を回してくれた方がよっぽどみんなのためになるので、見知らぬ誰かのために、何かを我慢する必要はないんじゃないかな。
もしもわたしが、ケガやもっと酷いことになっていても、そのために見知らぬ誰かが心を痛ませたり、時を止めてほしいとは思わない。
考えるのも、思い出すのも、忘れないのも、大切だと思う。
でも、人それぞれのキャパを超えてまで、「みんな」で扱わなくていいと思う。「それぞれ」でいい。
もちろんこれは、わたしの小さな世界の考えでしかないから、冷たいと思えば無視してほしいのだけど、誰かを理由に、苦しまなくていいと思う人間がいることで気が楽になる人がいたらいいなと思う。
もっとみんな、優しくなりすぎないことを祈って
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