カンタン・メイヤスー

新実在論
主体による認識によって左右されることのない 否定しがたい「実在」があることを、
哲学的な思弁を通じて明らかにしようとする理論

21世紀現在、実在論が問題になってきた背景

20世紀の構造主義ポスト構造主義により
「実在性」や「主体」といったものは、徹底的に根拠を剥奪された
また、それらの思想は、結構、「何でもあり」という相対主義的な態度だった

それではまともな哲学的論議をすることや、政治や宗教に関わる非合理な主張を、
客観的な論拠によって批判することが難しくなる
そこで、実在論を哲学的思考の基軸として復権し、相対主義を打破することを試みようとする

実在論の主な論客
カンタン・メイヤスー、 グレアム・ハーマン、マルクス・ガブリエル
※メイヤスーやハーマンの立場は思弁的実在論、ガブリエルの立場は新実在論という

メイヤスーの議論の焦点

カント以降の近代哲学を 支配してきた「相関主義」の克服
相関主義…
主体から分離された「対象それ自体」を
把握するのは不可能であり、主体の側も常に対象に規定されている
、という見方
この見方に従う限り、主体も対象も自立して実在しているとは言えない

また、相関主義の問題は、信仰主義と結びつくこと
相関主義では、理性のもとでは主観を超えた真理や価値に 到達することはできないとされる
それは、信仰によってGodのような絶対的なものに到達しようとする
信仰主義を普遍的な論理によって批判することができない

理性によって絶対的なものについて語ることを禁止したのが相関主義なのだから、
絶対者についての信仰についても語ることはできない
言い換えると、それは、宗教的原理主義やスピリチュアリズムに対抗することができない

祖先以前的言明

メイヤスーは、相関主義を突破するための手がかりとして、
「祖先以前的言明」 を問題にする
「祖先以前的言明」…
人間が存在する前に起こった事柄についての言明

相関主義では、認識する主体を離れて実在について
語れないのだから、祖先以前的言明に意味を与えることができない
そうなると、経験科学なり自然科学なりの発達に伴って、
哲学の守備範囲はどんどん狭くなり、哲学は脆弱になり、
信仰主義を抑制することもできなくなる

メイヤスーは相関主義を脱し、
「ある絶対的なもの」に 到達する道を探るべきだと主張

そのための戦略は、Godのような絶対者を想定することなく、
相関主義的な思考を徹底することで、相関主義の諸前提を打破し、
「絶対的なもの」を見出すというもの

メイヤスーによると、 相関主義的な思考を突き詰めると、
「必然的存在者の絶対的不可能性」は 「絶対的」である
という帰結に至るはずである
つまり、すべての存在者は偶然に存在する、 ということ

なぜなら、相関主義に従えば、人間と対象の相関関係の 外部は認識できず、そのため、
私にとっての必然性が絶対的な必然性かどうかを、私は認識できない

また、自然科学は物理法則を明らかにし、
対象の運動などの必然性を根拠づけたが、
その物理法則の必然性自体は根拠づけない

そのため、この宇宙が必然的で、
別の宇宙が必然的でないことは根拠づけられない。
言い換えると、この宇宙も偶然に存在する

数学的思弁

すべての存在者が偶然的であるとすれば
どのように実在について考えたらよいのか
メイヤスーが最終的に打ち出すのは、
数学的思弁によって世界の脱主体化を進めるという戦略

近代初期、コペルニクスやガリレオは、数学的な方法論による自然科学で、
形而上学的な世界観を破壊すると同時に、
人間には直接経験不可能な領域にまで踏み込み、
世界を数学的に把握するプロジェクトを始動させた

数学化可能なものは、私たちから独立に存在していると考えることができる。
つまり、数学に即して考えれば、
祖先以前的言明は可能

メイヤスーはこのように、数学の絶対的可能性に賭けて、
必然性が偶然である、形而上学が成り立たない世界で、
実在について積極的に考えようとする自らの試みを
「思弁的実在論」と呼ぶ

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