見出し画像

楽ではなかった二人目出産 切迫早産編

一般的に二人目出産は、すでに出産を一度経験した母親にとって「楽だった」という感想が多いかもしれません。
私もその感想を鵜呑みにして「確かに、二人目出産は一人目に比べて楽そう!」と思っていました。

二人目の妊娠が発覚したのは、2018年の秋でした。
すでに2017年に産まれた娘(当時1歳)のことも考え里帰り出産をしようという流れになりました。
里帰り先と自宅を行き来するのは面倒だったので、検診は主に自宅近くの婦人科で受けていました。

特に問題はありませんでしたが、30週頃から時々お腹に張りがりました。
しかし張る時間は長く続かず、特に気にせずに過ごしてきました。

そして、32週になった日に実家に帰り定期検診を里帰り先の病院に受けにいきました。

里帰り先の病院は、開業して間もないので施設は新しく綺麗でした。
産後はエステなどを受けられるサービスもあって、それが密かに楽しみでした。

その日の検診では、はっきりと息子が男の子であることがわかり、私はエコー写真を見つめながらしばらく待たされました。


そして、病院の院長先生は「今検診してみたところなんだけど、切迫早産の危険があるからこのまま入院してほしい」
と唐突に告げられました。
私も付き添っていた母も驚きました。
自分が切迫早産になるなんて考えてもいなかったのです。
「早く産まれると弱い子が産まれちゃうから」
と、先生は続けて言われました。
その言葉に深く傷つきましたが、赤ちゃんのことを考えると入院はせざるを得ないと感じました。

幸いなことに、女性専用の医療保険に加入していたので保険がおりるから、金銭的なことはまあなんとかなるだろうと考えました。

車椅子に乗せられて、入院の手続きをしたのを覚えています。

その日は、ウテメリンの錠剤を飲まされましたがあまり効果はないと言われ、後日腕に直接点滴がつけられました。
私は病気などで点滴をする生活は送ったことがなかったので、なんだか新鮮だなと感じました。
しかしこの時は、約三週間この点滴と一緒に過ごすことになるなど思いもしませんでした。

娘は急に私が入院して戸惑っていましたが、母が緊急一時保育の手続きをしてくれて日中は保育園で過ごすことになりました。母はパートに出ていたので、最初から娘を保育園に預けようと考えていたようです。

母と父は娘をよくみていてくれて、娘が楽しそうに遊んでいる写真を見せてくれました。

こちらの病院食は美味しいと評判で、毎食モリモリと食べていました。
娘を産んだ病院よりも綺麗で、大型テレビやWIFIがついており、部屋ごとにシャワーとトイレがついていたことが嬉しかったです。
しかし、切迫早産なので移動するのはトイレの時のみで、食べること意外とても退屈な日々でした。

3日に一回シャワーを浴びることができましたが、腕にビニールを巻いて点滴の入り口を保護して入るので変な感じでした。
毎回ビニールから水が漏れて、結局点滴をする器具はびしょびしょになり、また刺し直しということが多かったです。

そして、刺し直しをするたびに点滴が漏れて、また次の日に刺し直す…。
そんなことを続けていると、腕は注射痕だらけになりどんどん私は病人らしくなっていきました。

そして、夜は不安で泣いたり「もしも陣痛が来たらどうしよう」と震えていました。

妹が近くの神社で安産祈願のお守りを買ってきてくれて、それをベットの柵につけて「どうか予定日まで産まれませんように」と願いながら眠りにつきました。

朝起きて、看護師さんに検温されお腹の音を聴かれ、ご飯を朝昼晩食べる。

そんな生活が約二週間続きました。

そして34週目になった時、羊水が多いから妊娠糖尿病の検査をしましょうと言われました。

空腹の状態で甘いソーダ水を3回飲み干し、結果は特に異常なしとのことでした。
それではなぜ羊水が多いんだろう?
私は羊水が多いことで指摘される胎児の異常について、全く知ろうとしませんでした。

その時の私は、自分がダウン症の赤ちゃんを産むなんて考えてもいなかったからです。

しかし、それは病院も同じだったかもしれません。病院は切迫早産でかかる入院費が欲しいだけだったのかなと今でも感じます。

この時の私のお腹は、はち切れそうなくらい大きかったです。
娘の時は、35週の時に腹囲が88センチだったのに対し、息子の時は33週にはすでに腹囲が101センチに達していました。

しかし、病院側はその原因を調べようとすることなく「一度退院してもいい」と言われました。

この日は国民的大型連休も近づいていたので、私の容態よりも従業員の休日に合わせて退院させられたのでしょうね。
でもその時は、とにかく外に出れることが嬉しかったです。
喜び勇んで支度をし、実家に帰っていきました。

二週間ぶりに娘と一緒に夜を過ごし、翌日は赤ちゃんの服やひよこクラブを二冊買ってきました。
やめておけば良いのに、自分の部屋に掃除機をかけて、退院日翌日は自由を満喫しました。

そしてさらにその翌日…朝起きてトイレに行くと出血していました。
私は慌てふためき、母を呼び病院に電話し、そのまま検診に行きました。

出血していることを伝え、CTをとるとやはり陣痛が来ていると告げられました。

そんな…。私は絶望的な気持ちになりました。
看護師さんがやってきて、尿道カテーテルをつけられベットから起き上がらなくていい生活が始まりました。

ベットを出るのを許されるのは大便をするときだけ。
しかしこの時、いつも妙にトイレに行きたくて仕方がありませんでした。

陣痛の前日をずっと繰り返しているような気分でした。
「大丈夫、この状況で37週までもった人もいるから」と院長は自信満々で言っていましたが、何の根拠もない発言でした。

日中は眠いのに、夜中は目が覚めている…。
トイレに行くと、どろっとした粘着栓らしきおりものが出ていると何度も訴えましたが病院側は「よくあることだから」と聞く耳を持ちませんでした。
出血も止まりませんでしたが「羊水らしき水が出てきたら言って」というばかりで、あまり取り合ってくれませんでした。

出血は出産当日まで続きました。
ウテメリンの副作用なのか、陣痛を体が繰り返しているせいかずっとぼんやりとした世界で1日1日を繰り返していました。

まだまだ出産してはまずい週数なのに、心の中では「もう産んじゃっても良いんじゃないの?」と考えていました。

中には32週で産んでも赤ちゃんが元気に育っているという情報もあったじゃないか。
きっと私も大丈夫だと、35週1日までそう思っていた。

そして、出産当日の朝は私はなかなか眠気がさめませんでした。
昨夜寝返りをうった時に、お腹に何かがベリっと剥がれたような痛さを感じていました。

そしてその痛みは、静かにお腹の中で繰り返されていた。

いつものように、看護師さんがやってきてCTをとると彼女は心配そうに言いました。
「陣痛がもう始まっているんだけど…。痛くない?」
確かに痛かったけど、何だかぼんやりしていてその時はそこまで痛いと感じていませんでした。

緊急で院長先生が呼ばれ、内診された。
「あぁ。これはもう産まれるね」
そう言って、緊急搬送先の病院に連絡を入れた。
私はここで産めないの?エステできないの?と、少し残念でした。
しかし、このあとどうなってしまうのか不安もありました。

そして、母に連絡をして緊急搬送先についていってもらうことになりました。
娘は父が家でみていたそうでした。
「大丈夫、35週だったらお母さんと一緒に退院できる場合もあるから。がんばってね」
そう言って院長先生は救急車に一緒に乗りました。

しかし院長先生の予想は外れました。
この人のいうことは初めから最後まで、当てずっぽうで間違った答えでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?