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エッセイ | 時間について(直線と円環の文学)

 時間とはなにか?
 学校で退屈な授業を聞く時間、恋人と過ごす時間、母親と一緒に眠るこどもの時間など、さまざまな時間がある。
 誰でも、1時間は60分で、1分は60秒であること、時間という存在のことは知っている。しかし、改めて考えてみると、時間とは不思議なものだ。

 最近、滝浦静雄(著)「時間---その哲学的考察---」(岩波新書)を読んでいる。

滝浦静雄「時間」(岩波新書)

 この著書の第2章、第3章はそれぞれ、時間の形(1)・時間の形(2)となっている。
 「時間の形」には、大きく分けると、「円環」という形と、「直線」という形の2つがあるという。

 「直線的な時間」というのは、数直線上に、過去、現在、未来のように並ぶような時間のことをいう。年表、日記などは、この直線的な時間として表されることが多い。時間が直線上を歩いていくようなイメージである。

 「円環的な時間」とは、同じ円の上をグルグル回るようなイメージ。身近な例でいうと、春夏秋冬という季節のような時間。春、夏、秋、冬、春、夏・・・のような季節の移り変わりは、確かに円を描くような感じがする。
 ニーチェの「永遠回帰」(永劫回帰)や仏教の「輪廻転生」などが、円環的な時間の代表例として挙げることができると思う。

 この記事では、哲学的な議論ではなく、「直線的な時間」と「円環的な時間」という切り口で、文学について考察してみたい。

「直線的な時間」の文学

 直線的な時間というと、もう後戻りすることができない、という感じがする。人間が生まれて、生きて、死んでいく。人間の一生というと「直線」というより、一定の長さをもった「線分」だが、「後戻りできない直線」を最も強く意識するのは、死の間際だろう。
 ドストエフスキーの長編小説に「白痴」という小説がある。ドストエフスキー自身が、死刑執行の直前に、皇帝の恩赦によって生き延びたという経験をもつ。そのときの様子を「白痴」という物語で描写している。

ドストエフスキー「白痴」(新潮文庫)

ついに生きていられるのはあと五分ばかりで、それ以上ではないということになりました。その男の言うところによりますと、この五分間は本人にとって果てしもなく長い時間で、莫大な財産のような気がしたそうです。この五分間にいまさら最後の瞬間のことなど思いめぐらす必要のないほど充実した生活が送れるような気がしたので、いろんな処置を講じたというのです。つまり、時間を割りふりして、友だちとの別れに二分ばかりあて、いま二分間を最後にもう一度自分自身のことを考えるためにあて、残りの時間はこの世の名ごりにあたりの風景をながめるためにあてたのです。

ドストエフスキー●木村浩(訳)
『白痴』(新潮文庫)、第一編 5

 死刑執行前の五分間は、スローモーションのような感じなのか?友だちとの別れに二分間、自分自身に二分間、名ごり惜しむのに一分間。
 その五分の間に実際に思ったことは、次のようなことだったという。

<<もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!そうなったら、おれは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんなものだってむだに費やしたりしないだろうに!>>
男の言うには、この想念がしまいには激しい憤懣の情に変って、もう一刻も早く銃殺してもらいたい気持になったそうですからねえ。

前掲箇所と同じ

 残り五分の人生だと思っているときには「無限の時間」に憧れるが、「無限の時間」が手に入ると思うとそれに耐えられない。
 「時間」というと、なにか自分の外で流れているような感じがするが、自分自身の精神状態によって、時間の歩む速度が変わるものなのかもしれない。
 そう考えると、時間とは客観的なものではなく、主観的なもののように思えてくる。

「円環的な時間」の文学

 ギリシア神話に「シーシュポス」という人物が登場する。この神話にたとえて、不条理の哲学を理論的に展開したのは、『異邦人』で知られるカミュである。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにもっともなことであった。

カミュ(清水徹[訳])
『シーシュポスの神話』(新潮文庫)

 ここでは、神話として語られているが、仕事や家事をしていて、毎日、同じことの繰り返しばかりだなぁ、と思うことはないだろうか?
 実際には、まったく同じ出来事などあり得ないのだが、朝・昼・晩と食事を作り、洗濯た!買い物だ!掃除だ!風呂だ!と毎日やっていると、同じ時間をグルグル回っているかのような気持ちになることはないだろうか?
 新しいことがないと思い始めると、生きている意味ってあるのかなぁ、とネガティブな気持ちになるかもしれない。 カミュの「シーシュポスの神話」は次の言葉で締め括られている。

ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分にたりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

前掲書p173

まとめ

 時間に関する哲学的な議論は、きっと果てしなくつづいてゆくだろう。そして、きっと結論は永遠に出ないことだろう。
 しかし、時間の認識の仕方として、「円環的な形」と「直線的な形」とがある、と想定してみると、文学的な「手法」として使えそうである。

 物語に「円環的な時間」と「直線的な時間」を織りまぜてみる。

 たとえば、(文学ではないが)『ドラゴンボール』には、2つの時間が流れているように私には思える。

「直線的な時間」では、
桃白白→ピッコロ→サイヤ人→フリーザ→人造人間→セル→魔神ブウ、というように、孫悟空の前に次から次へと敵が現れる。
「円環的な時間」で見てみると、
強敵が現れる→負ける→修行→強敵に打ち勝つ→強敵が現れる→負ける…….
という、同じようなパターンの連続がつづいている。

 もしも、長編小説を書くならば、「直線的な時間」が多すぎると、表現が一方通行になり、平板になりやすい。たまには、本来の時間の流れに遡ってみるとか、10年後の世界へいきなり飛んでみるとか、そういった工夫をすると、作品が重層的なものになるような気がしている。

 

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