相手が仕事でお金をもらっていれば「ありがとう」はいらないのか

中学生のとき、通学路に大きな公園があった。周りを取りまくように桜の木が植えてあって、地元ではちょっとした桜の名所だった。動物園が隣接していたので、土日は家族連れで賑わう。すると、月曜日の朝には、市役所か区役所に雇われたおじいちゃん・おばあちゃんが、背中に大きな籠を背負ってゴミ拾いに現れるのだ。

ある月曜日のこと。いつものように通学路を急いでいると、そんな清掃員のおばあちゃんが、一仕事終えて一服しようとベンチに腰掛けるシーンに出くわした。おばあちゃんはポケットから梅のキャンディーを取り出すと、ゆっくり愛おしいそうに袋を開けるのだが、なんということか、手元が狂ってキャンディーが地面に転がり落ちてしまうのだ。

おばあちゃんはしばらく肩を落としてキャンディーを眺め、急にふと一人で微笑むと、ゆっくりと腰を上げキャンディーをティッシュにくるんで籠に投げ入れ、また仕事に戻っていった。おばあちゃん子だった僕はそのシーンがたまらなくて、なにかおばあちゃんに声をかけてあげたかった。いつもありがとうございます!とかなんとか。おばあちゃんに一つラッキーをあげることで、その日のアンラッキーを相殺してもらいたかった。でも、結局勇気がでなかった。

まあそれでも問題はないわけだ。おばあちゃんだって仕事でやっているのだから。給料だってしっかりもらっているわけだし。ありがとう、なんていらない。そういって自分を正当化することもできたが、このとき「ありがとう」が言えなかったことは、その後の人生でずっと心のどこかしらに引っかかっていた。

その後、社会人になって自分で働くようになると、「仕事でやっているのだからありがとうはいらない」という気持ちは、どちらかというと強くなった。お金をもらって働くプロである、という自分の意識が強くなればなるほど、自戒として「ありがとうなど期待するべからず」と考えるようになり、いつしかそれを他人にも期待するようになってしまったのだろう。

考えが変わっていったのは外資で働くようになってから、特にアメリカ人の同僚たちと働くようになってからだ。彼らは息を吐くように「ありがとう」という。それは日本人が日常的に使うどの言葉にも例えようがないくらい頻繁だ。そしてある日、一人の同僚から、自分たちの働きっぷりに僕が満足しているのかどうか自信がない、その事がチームのパフォーマンスをおとしていると思う、と打ち明けられた。

これはおそらく、僕の感謝がたりないのだ、と考えた。ありがとう、が。次の日から意識して感謝するようになり、彼らを真似して細かいことでも「ありがとう」としっかり意思表示するようになると、チームのパフォーマンスは目に見えて向上し始めた。この時ぼくは理解した。人間にとって「ありがとう」は水や空気や睡眠のような死活の要素なのだ。

アメリカの人材会社、 ロバートハーフが行った調査によると、仕事において人の幸せを一番左右するのは「達成意識」、その次が「みとめられること・感謝されること」だそうだ。気の合う仲間、自律、組織に対する誇り、と続く。要は、人の役に立っていると自覚でき、それをしっかりと感謝されることが、仕事における幸せの源泉なのだ。

そうなるとなおさら、あの春の日の月曜日、おばあちゃんに「ありがとう」と言ってあげられなかったことが悔やまれる。もうそれを挽回できる機会はないだろうから、せめてこんなノートでも書いて罪滅ぼしをしているわけなのである。というわけでみなさん、「ありがとう!」は言い過ぎるくらいに沢山いいましょうね!

おわり

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