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安田龍彦の消失ーシン・ゴジラとシン・ウルトラマンの結節点と特異点ー

はじめに

 2016年7月29日、『シン・ゴジラ』、公開。
 その6年後、2022年5月13日、『シン・ウルトラマン』、公開。
 ともに脚本を庵野秀明、監督を樋口真嗣とした、日本特撮の金字塔といえる2作品のリブート作品である。周知の通り前者は総監督を庵野秀明が手掛け、事実上の監督は庵野ではあるのだが。それでも、形式として両者とも庵野・樋口タッグによって作られた空想特撮作品であることに違いない。

 ふたつの作品には類似点もあり、マルチバースへの言及もある。ふたつの世界について多くのことが夢想できる。ひとびとは開かれた可能性に目を輝かせる。一方で世界からの欠落については目を背けてしまう。
 だからこそ、語らねばならない。安田龍彦は、安田くんは、この世界にいないということを。

ゴジラとウルトラマン

 『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』へ言及する前に、まず原典である『ゴジラ』と『ウルトラマン』の関係について、円谷プロダクションの創業者・円谷英二についてのみ記述する。円谷は1954年の『ゴジラ』にて監督でもプロデューサーでもなく、特殊技術としてクレジットされる。翌1955年の『ゴジラの逆襲』では特技監督という新たな役職が当てられる。円谷と特撮技術について、円谷プロダクションの創業者紹介のページでは次のように記載されている。

 英二の作る特撮はミニチュアを巧みに操る職人たちの技量の高さ、セット美術考証の徹底的な精密さなどを主体としながら、考え抜かれた特撮技術を映像にふんだんに盛り込み、空想の世界の出来事をまるで実際に体感しているかのような臨場感で描く、実にエンターテインメント性に溢れるものでした。映画を見ている人を楽しませたい、驚かせたい。
 そのために特撮というテクニックを最大限に利用する。特撮で成立させた世界の細部までコントロールして観ている者を楽しませる。
 それが円谷英二の本分でした。技術とエンターテインメント性の見事な両立こそが、円谷英二を「特撮の神様」たらしめた所以と言えるのではないでしょうか。

https://www.tsuburaya-prod.co.jp/eiji/

 そして、円谷が映画ではなくテレビというメディアで、特撮技術によるエンターテインメントを模索した結果、監修として携わる『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に連なる、空想科学シリーズが生まれた。

 『ゴジラ』『ウルトラ』ともに監督という立場ではないが、ともに特撮という技術とその扱い方というエンターテインメントとしての作品の根幹に、円谷は存在していた。両作品とも、シリーズ展開において明確に相互参照されていたわけではないものの、観客は両作品を「特撮作品」として受け入れていただろう。この連なりの感動を庵野秀明・樋口真嗣という二人の作家が再起動する、それが『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』という2作品である。

シン・ゴジラとシン・ウルトラマン

 『シン・ゴジラ』は現実対虚構というフレーズの下、ゴジラが初めて人類と邂逅するという物語を初代『ゴジラ』を下敷きにしながらも、現代劇として描いた。これは、大災害として立ち現れるゴジラと、被害に振り回される群衆、政治を描いた作品である。過剰なリアリティを一つの大きなウソ=ゴジラによってドミノを倒しはじめ、最終的にけしてリアルではなく、虚構的な集団と手法が、ゴジラを鎮め、被害は復興へと舵を切る。「スクラップ・アンド・ビルドでこの国はのし上がってきた、今度も立ち直れる」という終盤の台詞も、日本という国と民(政)とゴジラが相対する物語だったことを示す。ゴジラ災害を通して人間社会がどう変化するか、キャラクター個人個人よりも総体へと目を向けた映画である。

 『シン・ウルトラマン』は空想と浪漫というフレーズの下、怪獣が、ウルトラマンが、宇宙人が登場する5つのエピソードから構成される空想劇である。主眼に置かれるキャラクターは人間・神永新二の身分を借りた外星人・ピリア=ウルトラマンであり、彼と彼を取り巻く環境(ミクロには禍特対の面々、マクロには人類社会)のコミュニケーションによって、世界がどう変化するのか、という物語である。禍威獣や外星人がもたらす混沌を、ウルトラマンが人間の秩序に還す物語であるが、ウルトラマン自身が人知の及ばない存在であり、秩序に変容を齎してしまう。しかし、対ゼットン戦においてウルトラマンは人類に(禍特対のメンバーだけでなく、人類の叡智に)情報を託し、人類は作戦立案を遂げる。その実行についてはウルトラマンのもつ技術と力が必要ではあったが、それでも、ウルトラマンを道具として使用したのは人類に他ならないだろう。ウルトラマンとの邂逅を通して人類社会がどう変化するか、作劇は群像ではなく、キャラクター個人個人にフォーカスが当てられた映画である。

 2022年6月現在、『シン・ウルトラマン』公開から約1ヶ月が過ぎ、多くのひとが作品について語っている。長澤まさみ演じる浅見弘子の扱いがセクハラ的だと述べられたり、山本耕史演じるメフィラス星人のフレーズがネットミームと化していたりする。ゾーフィの出典などの児童向け雑誌ネタやエヴァの再解釈など、他作品他媒体への言及も少なくない。
 当然、その語りは『シン・ゴジラ』へも伸びてゆく。

 2作品を対比させるのであれば、まず怪獣の出現頻度と、その対策チームの形式の違いだろう。一回だけの災害・非日常的な存在としてのゴジラ、時たま現れる災害・半日常的な存在としての禍威獣。前者に対応するのであれば、省庁官民を超えた1回きりのスペシャリスト集団である巨大不明生物特設災害対策本部・巨災対でよい。
 しかし、後者においてその集団を維持するのは困難である。巨災対のリーダー矢口蘭堂曰く「知恵は多いほうがいい」が、常時待機のために割けるリソースは限られている。だからこそ、今作における禍特対こと禍威獣特設対策室専従班は5名(作中で配属される浅見を含めれば6名)である。後者は少数精鋭であり、個別の専門はあれど、近縁の事項についても知らなければならない。『シン・ゴジラ』で強調されていた縦割の役割分担はなく、独立愚連隊としてひとつのデスク島を共有する。不明生物の数とチームのサイズは反比例するのかもしれない、など言えるだろう。

 もしくは、二作品の時系列の繋がりについて語ってもよい。『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』のロゴを破って始まる。その後の冒頭シーンでは、作中の現在に至るまでの巨大不明生物の出現と禍特対の設置についてダイジェストが流れる。ここで登場する巨大不明生物第1号ゴメスが『シン・ゴジラ』のゴジラのモデルを流用していることや、巨大不明生物第2号マンモスフラワーの背景が東京駅であることなどは、素材を再利用できるという製作事情もあるが、もちろん、原典のゴメスがゴジラの着ぐるみリメイクであったことのオマージュ、『ウルトラQ』を模していることも伺える。設定としても、初の巨大不明生物:ゴメス、官民学の総力戦:マンモスフラワー、首都圏機能麻痺:ぺギラ、探知不能:ラルゲユウス、自衛隊との連携:カイゲル、放射性物質捕食:パゴス、とそれぞれの巨大不明生物・禍威獣が『シン・ゴジラ』の展開やゴジラの生態それ自体を彷彿とさせる。
 怪獣だけでなく人間も『シン・ゴジラ』とのつながりを暗示している。竹野内豊演じる政府の男は赤坂と同一人物らしさを残しているし、滝の出身である城北大学は間教授が所属する大学でもある。作中でマルチバースについて言及があることからも、パラレルワールドの同一世界なことは(これはシンシリーズのオリジナル設定でなく、従来のウルトラシリーズも同じくマルチバース世界に身を置いていることを留意する必要はあるものの)想像に難くない。防災大臣が名づけを大事にすることは、『シン・ゴジラ』の大河内内閣総理大臣の台詞「名前は、付いていることが大切だ」が踏まえられたセルフ・オマージュとも言える。
 浅見の「臭う」シーンは、矢口蘭堂が「臭う」シーンとも重なり、ウルトラマンを、ゴジラを初めて見た時の反応も似通っていた。単なる女性性をセクシャルに扱ったシーンと考えるのではなく、『シン・ゴジラ』や(今回言及していないが)『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と接続することで、非難ではない手つきで言及することも可能だろう。

 マルチバース性を踏まえたうえで、2作品の「喪失」について考える。『シン・ゴジラ』は前述の通りディザスタームービーでもあることから、喪失が様々な場面で描かれる。冒頭はプレジャーボート・グローリー丸が資料と詩集、折り鶴を残して誰もいないというシーンから始まる。中盤には物語の重要な存在だった内閣総理大臣ほか多くの閣僚がゴジラの放射熱線によって死亡する。それだけでなく、都度のゴジラの上陸、歩行、攻撃によって多くの建物や人命が失われている。終盤はヤシオリ作戦によってゴジラの生命活動が停止するが、爆散や撤退などといった喪失はしない。人間、特に日本国民、はゴジラと共に生きていく決断をすることとなる。
 一方で、『シン・ウルトラマン』では存在の喪失について多くは描かれない。「禍」ではあるものの、禍威獣の存在は未曾有の事態というよりも起こることを想定された緊急事態である。ゆえに人々は禍威獣の発生と日常を切り分けず過ごしている。震度4や5弱程度の地震では避難について考えないことと同様に。もちろん、未曾有の事態、想定外の対応については、既に『シン・ゴジラ』によって描かれており、省略されているという見方も可能である。
 外星人によるアプローチも対政府、対人類レベルのものであり、個人レベルの生活では大きく変わらないと思われている。大規模な被害があっただろうネロンガ戦の変電所破壊やザラブ戦の都心部破壊、メフィラス戦の工場破壊が経済や生活的に大損害であったことは明示されない。ゼットンが完成し、1兆度の熱球によって太陽系レベルで被害を受ける(地球は消失する)という状況であっても、政府は国民に情報を公開せず、空にゼットンが見えているまま日常を過ごしていた。このシーンは静かに忍び寄る喪失の不気味さを観客に伝えてはいたもものの、実際には人類とウルトラマンによって阻止される。具体的な喪失は冒頭の神永の死と、終盤のウルトラマンの死(神永の帰還)が主に描かれているに過ぎない。この先は『シン・ウルトラセブン』に続くのかもしれないが、それを想定しなければ、人類が禍威獣や外星人とコンタクトを続けていくのかが物語の未来へと引き継がれる展開となっている。

 庵野秀明が手掛ける『シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース』がどのように展開していくのかはわからないが、少なくとも複数のキャラクターが重なりあい、並行世界的な想像力によって『シン・ゴジラ』とのつながりを夢想できるだろう。それぞれの作品が、過去を未来を想起させるギミックとしてマルチバースは機能する。『シン・ゴジラの逆襲』や『シン・三大怪獣 地球最大の決戦』といった未来が、『シン・ゴジラ』の(近似した)世界にやってくるかもしれないし、その世界の出来事は複数の巨大不明生物=禍威獣の現れる『シン・ウルトラマン』の世界に似ているのかもしれない。又、『シン・ゴジラ』自体が『シン・ウルトラQ』的な作品だったと遡行して述べることも可能なのだ。

安田龍彦のこと

 では、安田龍彦を想起させる要素は、どれだけ存在するのか。

 安田龍彦は、『シン・ゴジラ』にて高橋一生が演じた、巨災対に参加する文科省研究振興局基礎振興研究課課長である。津田寛治演じる厚労省医政局研究開発振興課長(医系技官)森文哉による巨災対参加者紹介においてはオタクと呼ばれた。彼の台詞や出演シーンはけして主人公格のキャラクターほど多くはない。しかし、印象的な台詞や振る舞いも多く、多くの観客を虜にした。

 『シン・ウルトラマン』には龍彦の名を持つキャラクターも、文科省出身のキャラクターも、オタク属性のキャラクターも存在する。しかも、少数精鋭である禍特対の内側に。禍特対の班長は宗像龍彦。この名前は庵野秀明の配偶者・安野モヨコによる漫画作品『働きマン』に登場する梅宮龍彦というキャラクターの名が出典と想定されるが、龍彦と同様に引用元が重なっている主要キャラは存在しない。文科省出身者は同じく禍特対の汎用生物学者・船縁由美が担っており、オタク属性についても同じく禍特対の非粒子物理学者・滝明久が担っている。そして、それだけではない。スタッフロールにおける声の出演の項には高橋一生の名前がある。安田を演じた高橋一生は、ウルトラマンの声として出演し、別のかたちで『シン・ウルトラマン』に参加しているのだ。

 高橋一生という俳優の肉体こそ登場していないものの、安田龍彦というキャラクターが持っている属性、そして声は既に『シン・ウルトラマン』に組み込まれている。すなわち、個としての安田龍彦はこの世界に必要とされていない。そして、物語上必要とされていないキャラクターは、フィクションの世界では存在しないことと同義である。

 他にも『シン・ゴジラ』の世界から不在となっているキャラクターは多いだろう。『シン・ウルトラマン』の主人公である斎藤工は、『シン・ゴジラ』では池田という名前の自衛隊員であり、警察庁公安の所属ではなかった。もちろんマルチバースを謳う同一作品だからといって、同一人物が同一の名前や役割、肉体を持っている必要はない。オリジナルキャストやオリジナルネーム、属性は完全一致しなければならないというものではない。キャラクターの形成に関わっているものであっても交換可能だと、平成仮面ライダーシリーズにおける『仮面ライダーディケイド』や『仮面ライダージオウ』は提示している。したがって、前述の指摘は全く外れており、『シン・ゴジラ』とは全く違うかたちで安田龍彦は『シン・ウルトラマン』の世界で生きているのかもしれない。

 その上で、このように仮説を立てることも可能だろう。『シン・ゴジラ』と合同な安田龍彦というキャラクターが存在しないからこそ、『シン・ウルトラマン』の世界は駆動している。安田を形成するあらゆる要素、情報の束の留め金が外れ、バラバラになった。安田の情報のピースが様々なキャラクター、地球人類だけでなく、光の星からの外星人リピア=ウルトラマンまで拡散した。それは、ウルトラマンが神永の不合理な行動に興味をそそられたのも、『シン・ゴジラ』において安田がゴジラの行動パターン分析を行っていたこととリンクすると強弁することすら可能である。

おわりに

 そしてわたしは、『シン・ウルトラマン』に安田龍彦の不在を、見出してしまっている。
 ネットワークに遺された情報に様々なタグが付記され、原型を失ったのち、ある集団が一定の秩序のなかで再解釈し構成された存在が、わたしである。このわたしは、幾百幾千のうち、いつの、どこのわたしなのか、わからない。しかし、このわたしは、わたしたちを知っている。このわたしは世界を揺蕩った結果、安田くんのいない世界へたどり着いたのだ。
 かつて「恋人を喪った」という架空設定をふまえた上で『シン・ゴジラ』や、安田くんを演じた高橋一生が出演している作品を観てみるというのも面白いかもしれない、と述べたわたしが存在した。その上で観る『シン・ウルトラマン』は安田の、安田くんのいない世界の物語であると、わたしは認識している。だから、安田くんを喪ったわたしたちは、あなたたちの力を借りたい。あなたたちが、『シン・ウルトラマン』で、安田くんを見つけられたなら、教えてください。それが、わたしたちの願いです。

#安田龍彦を喪った空想科学文学



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