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寿司というエスニック料理:カレー哲学の視点

スパパパパーン!!ゴタンダーにて、ジャーパーン・プラデーシュ州で伝統的に食べられているササリーフ・フィッシュ・ミールスを食べた。

美味しー!でも、なんて野蛮な食い物なんだろう。口には出さないが、食べるたびにそう思う。
チキンエッグを焼いて固めた具もあるが、基本的には白いスクイッドだったりツナフィッシュだったりが生の状態でヴィネガー・ライスの上に乗せられている。魚を切ってライスに乗せただけのものが、なぜこんなにもてはやされているのだろうか。

「ヘイオマチ!」

スタンディングスタイルの店内は客がスシ詰め状態で、アクリル板で区切られたそれぞれのパーソナルスペース内で各々のスシと向き合っている。白いキャップをつけた職人は機械のようにスシを握り続け、客の前に並べられたササリーフの上に手渡しで置く。客もそれを手で食べている。やはり野蛮だ。
客のカウンターと店員のスペースの間にあるガラスのショー・ケースは冷蔵庫を兼ねており、多種多様でカラフルな魚の切れ端が見せつけるように並べられている。

ジンジャーピックルを箸休めにしながら、スシにワサビのチャトニーとソイビーンでできたソースをつけていただく。チリの辛さには慣れているが、ワサビチャトニーの鼻にくるような辛さは何度食べても慣れない。グリーンチャイはポディ(粉末)になっており、カウンターについている蛇口から出るガラム・パーニー(お湯)を入れることで飲み放題となっている。

スシは初めてではないのだが、やはり食べるたびに驚いてしまう。だが同時に、自分の中のタブーを乗り越えたときの興奮やドキドキが伴う。

ジャーパーン・プラデーシュの料理はとてもエスニックだから好きだ。




日本がインドの一つの州となったとして、インド人が寿司を食べたらこのような食体験になるのかもしれないと、想像して書いてみた。(既にデリーやムンバイにある寿司屋でも同じようなことは言われているかもしれないし、世界の日本料理マニアはエスニックさを感じていると思う。)

「エスニック」という言葉は和訳するなら「民族的」ということだが、日本でエスニックというと、普段は東南アジアやアフリカの料理やファッションを指すことが多い。だがこれは「狭義のエスニック」であって、本来は「自分の持つ文化と相対的に遠い民族の文化」や「マイノリティの民族の文化」のことを指す言葉だ。

普段いる自分の文化圏では、魚を生で食べることは少ない。骨ごと筒切りにしてスパイスでマリネし、揚げ焼きしてからカレーの具にして食べてしまうことがほとんどだ。
新鮮な材料が手に入らず臭いを誤魔化すためにスパイスを使うのではなく、たとえ新鮮な材料があったとしても単にその方が美味しいからと言う理由でそうしている。

インド料理が油とスパイスの料理だとしたら日本料理は水と出汁の料理だ。油を大量に用いスパイスを多用するインド料理が中心にある人にとって、ほぼ加工をしていない(ように見えて本当は大変な手間と技術的コストがかかっているのだが)日本料理は対局にある。

エスニックさを決めるのは自文化からの距離だ。そういう意味で、スシは大変エスニックな料理だ。普段の習慣から相対的に遠いものを体験してみることで、共通点と相違点が明らかになり、却って自分の立ち位置や普段の習慣が浮き彫りになる。
そういう体験をしてみることで、対局にあるようでいて実は似ている部分があることに気づくし、試しに取り入れてみることで普段の視点を変えることにも役立つ。

南インドでは何気ない、バナナリーフの上に食べ物を乗せて食事をすることが日本では一種特別なお祭り的な体験として扱われている。だが、日本でも笹の葉の上にスシを並べたりしている。遠いようでいて実は近いところもある。

日本にいるのに自分が実際には遠いところを旅してしまっているということに、身近なエスニック料理を食べるたびに気付かされるのだ。


※カレーを哲学的な視点で分析する「カレー哲学の視点」は今後、日付を数えるのをやめました。書きたい時に書きたいことを書きます。


購読者限定パート:カレーの境界線

カレーに目覚めるきっかけは人それぞれだ。

母の味のようになったカレーを保守的にひたすら食べ続ける人、旅のセーブポイントとしてカレーを作る人、料理自体が好きで人に振る舞う美味しいカレーを作ることをひたすら目指している人。

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