自分の中の優性思想

リンク先は津久井やまゆり園の事件についてのお話なんですが。

自分の中の優性思想に気づいたとき、弱者と「連帯」するか、自分の「有用性」を証明するか。これって難しい話というか、仕事柄、いつも考えていることだよなあって思ったりしました。

片方では、成績上げろよーって言うけれども、もう片方では連帯は大事っていうダブスタで。私にとっては成績よりも中身が分かってるかって話なのですが、私を含めて保護者の方々もどれだけの理解があるかなんて怪しいもので、だからこそ適当な入試システムに依存してしまっている現状がありますよね。

勉強に意味がないことはないとは思います。でも、勉強を必要とするほどの趣味や生活を持ちえていないのに勉強をさせられている現実というものは悲しく辛いものなんじゃないかなぁと思ったりもするわけで。自分が学びたいことと紐づける勉強をもっとするべきだと思うんですよね。

だからといって、そんなことを言っても話の通じない人の方が多いわけですが。テスト勉強しなくていいってことですか?とか言われても、いやそうではなくて…って感じで。勉強は自分でするものだけれども、誰もが教えることができるわけではないから、学校があるんですよ。って伝えたいけれどもオブラートに包まないと先生にも個人差があるから「あの先生の授業は何とかなりませんか!」ってなったりもするので地雷は避けるわけですが。

つまるところ、生活と仕事のどちらを大事にしている社会かって感じで、仕事が中心になってしまうと能力が必要になるんですよね。能力がなければ未来を切り開くことができないのも事実だから、仕事と生活ができるだけ重なればいいなあって思ったりもして。私の場合は人間臭いものを感じたいって理由もあるから先生って仕事は別にいいのだけれども、仕事に偏り過ぎている感じは労働環境的にはありますね。

特に、この年明けからの数ヵ月は忙しかった。周りで暇してる人もたくさんいるのに何で私だけ忙しいの?って感じで。でも逆に言えば、彼らは彼らの中で連帯していて、できないものはできないのだから仕方ないよね。って社会構造にあって、私の世界とは違う部分があるんだなあって感じです。

私は元々が理系だったり創作活動も好きだから、できないことができるまでの過程って良いチャンスとしか捉えることができなくて、よく分からない仕事でも世の中で誰かがやっていることなら何とかなるだろう。って感じで動いてしまうから、「この人に頼めばとりあえず何とかなるんじゃないかな?」って感じで何でも頼まれてしまう環境を作ってしまったんですね。

私は「できない連帯」の外側にいて、「できる連帯」に仕事を投げればいいんじゃないの?って感じで、良いように使われてしまうわけで。もちろん、それを心配してくれる人もいるけれども、仕事の配分くらい考えてくれー!って思ったりはしますよね。普通の会社じゃあり得ない感じの仕事の振り方はあります。逆に言えば「できる連帯」がなくなったときにどうするんだろう…ってくらいの。

自分に出来る仕事を割り振りするなら、最後のフォローは自分ができるからいいのだけれども、自分が出来ない仕事を割り振りする環境って異常なんじゃないの?って感じ。だったらちゃんと仕事量で給料とか増やせよー!って言いたくなる気持ちはすごい分かるし、優性思想がどうとか言われても、他の人より仕事してんだから優遇されて当然だろ!って気持ちになりますよね。まぁ、私はそもそも立場の弱い講師なのですが。

職場でどれだけ感謝の言葉を頂いても、試験で受からないとどうしようもないよなーって感じです。半年契約で社会的には何も保証されてない。有用性を示さなければ、どうにもならないでしょう?生産性を求められない環境って、やっぱり終身雇用の内側か外側かってところに大きな壁があるんだろうなーって思ったりします。

社会的に持たざる者にどんな理屈を伝えたところで、自分が救われることがない理屈なら納得できるはずがない。安定性を得る前に、障がい者との連帯を理解させる学校教育、インクルーシブ教育ってのは確かに大切だろうなあって思う。けれども、やっぱり一番大切なのは、人手も時間もかかるけれども皆が作りたいものを作るために働くって環境作りだと思うんですよね。

それには能力が必要なんです。未来を描く能力と、それに寄りそう能力。でもプログラミング教育とか国語を減らして英語を増やす教育とか道徳の教科化とかはお役所仕事というか、何かやらなくちゃいけないからやってます!みたいな感じでマジでクソだなって思いますね。何が道徳だ、人権だ。だったら最初から特別支援のための教育でもやれよ!って思います。そうすれば身の回りのいろんな差異に対する理解だってできるはずなのに。

お金があれば、いろんなことができるって思っている人もいるとは思いますが、その「いろんなことができる」の中に自分の能力がどれだけ関わっているかを理解していないと、何のために勉強するのかも分からなくなってしまいます。

思想なんてどうでもよくなるくらい、みんなが夢中になれる環境を自分から作ることができるようになればいいのですが。小中高大を超える(流行り言葉の)ギガ!学校くらいが出来ないとどうしようもないかな?というか、もっと仕事寄りの学校を義務教育の段階から作ればいいのになあって思ったりしますね。飛び級も留年もない日本では無理だろうなって思いますが。

その、無理だろうなって思われている部分を改革していかない限り、教育改革とは名ばかりのものになっていることを役人さんは自覚するべきだと思います。IT担当大臣をバカにできないよ!!って。

眠いから、今日はここまで。おやすみなさい。

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