◎リアリズムから遠く離れて-『サド公爵夫人(第二幕)』

SCOT (原作:三島由紀夫 演出:鈴木忠志)

サド公爵夫人・ルネ:佐藤ジョンソンあき
モントルイユ夫人:齊藤真紀
アンヌ:木山はるか
サン・フォン伯爵夫人:内藤千恵子
作家:加藤雅治

吉祥寺シアターは、当時同じような若者の街として人気のあった下北沢に対して、演劇面で大きく立ち後れていた吉祥寺に芝居を根付かせようという意図のもと建設された(←独断と偏見ですw)単館劇場で、今はなきバウスシアターと並んで吉祥寺に文化的色合いを添えた功績は大きいと言えるでしょう。その吉祥寺シアターで毎年定期的に公演を行っているのが、鈴木忠志率いるSCOT です。
今回は、2019年12月に行われた公演から、そのSCOT の代表的な演目の一つ『サド公爵夫人(第二幕)』について書いてみたいと思います。


●言葉の力、声の力

黒をベースとした簡素な舞台、ほの暗い室内に対峙する母と娘。囚われの身となったサド公爵解放の知らせを受けた妻ルネとその母モントルイユ夫人が、不在のサド公爵を巡り自らの想いをほとばしる言葉に乗せて紡ぎ合います。そこで交わされる言葉は激しくかつ繊細で、異様なまでの力に満ちあふれています。初めて鈴木忠志の演劇に触れる観客は、この戦いのような激しいやりとりに戸惑いを覚えるかもしれません。観客席は水を打ったような静けさで、息をするのも苦しいような緊張感に満たされていきます。
このやりとりは、ルネの妹のアンヌ、モントルイユ夫人の友人であるサン・フォン伯爵夫人という二人の途中入場によって一時的な変奏を余儀なくされますが、基本的に最初から最後までその勢いは衰えることを知らず、お互いの主張を譲る気配は見られません。
今「お互いの主張」と書きましたが、ここで演じられるのは現代の多くの演劇に見られる「会話」ではなく、お互いの主張を「神よ照覧有れ!」とばかりに貫き通す戦いの場なのです。(これは演出家ご本人による解説です。)
もちろん、その言葉は三島によって書かれた戯曲の台詞であり、華麗な文体に加え強固な思想によって組み立てられています。そのような場において、ささやきや微笑みや目配せといった「日常の自然な仕草」は不要のものとなり、先ず以て必要とされるのは観客を鷲掴みにする声の力だというのは、当然の帰結と言えるでしょう。三島の書いたきらびやかな台詞が宙に浮く事無く、質量を備えた物体として観客に襲いかかってくるその様は見事というほかありません。
物語そのものは、舞台奥に控える「作家」の言葉によって始まりと終わりを迎えることから、演じられる舞台はこの作家の妄想と捉えても良いのですが、そのような劇構造にことさら目を向けることもないような、舞台そのものの力強さがこの芝居の本質だと思います。

●「リアル」と「リアリズム」の違い

ところで、私は今回本当に久しぶりに鈴木忠志の舞台に触れたのですが、渡辺保との対談を聞いた影響で、以前よりも随分と深い部分で心に響くものがありました。
それは、その対談で語られていた「リアリズム」と「リアルであること」の違いです。これは非常にシンプルな問いでありながら演劇の本質に関わることです。早稲田小劇場のころから既に有名だった通称「鈴木メソッド」と呼ばれる身体訓練と発声法、それが何故生まれ必要とされたのか。論点は2つあって、1つは空間論から、もう1つは演技論から導かれるのだと思います。空間論は別の機会に譲るとして、今回考えたいのは演技論です。
演技についてメソッドと呼ばれるものは「スタニスラフスキー・システム」と「ザ・メソッド(アクターズスタジオ)」が有名ですが(というかそれ以外知らない)、どちらもより自然な演技を要求される「リアリズム」の演技法と言われています。では、なぜ「リアリズム」が必要とされるのか。それは、芝居なり演技なりをより「もっともらしく」見せるためと言って良いでしょう。言い換えればそれが「リアル」を担保するものと考えられているからです。もちろん、日本の新劇と呼ばれるものもこの系譜を継いでいました。そして旧早稲田小劇場はその新劇に対してアンチを唱える流れ(天井桟敷館やテント劇場に代表される「小劇場運動」と呼ばれる一連の動き)の中から生まれたものです。
ただ、今考えれば、そこで強く意識されたのは演技におけるシステム論ではなく、むしろドメスティックな「役者論」だったように思います。それは近代を否定し、もっと以前の伝統芸能や大道芸に、あるいはそれを生みだした歴史性や精神性にそのルーツを求める動きだったのではないでしょうか。そのような流れの中で、他の多くの劇団が座付作家を主宰としその言葉や思想を演劇的に展開していくのに対し、初期は別役実を、半ば以後はギリシア悲劇や構成劇を演目とし、自らを演出家として定めた鈴木忠志のアプローチは異色のものでした。
それは、ともすれば戯曲の文学性に依拠しがちな既存の演劇を解体し、演劇そのものの独自性を追求する行為だったのかもしれません。西洋演劇を輸入することから始まった新劇を超えるために、演劇そのもののアイデンティティを役者の身体に求める独自の演技論を構築していったとも言えるでしょう。
役者の存在こそを演劇の生命線と捉えるとき、「リアルであること」と「リアリズム」は明瞭に区別されます。そこでは、役者が舞台の上でリアルな存在であるために「らしく振る舞う」ことは重要な要素とは見做されず、情動が直接反映されるような声と身体が求められたのではないでしょうか。

●芝居はどこに向かうのか

と、そこまで考えて来たときに、この鈴木忠志が既に半世紀に渡る演劇活動を行ってきたことに思い至りました。今後演劇はどのような方向に向かうのでしょうか。この半世紀、新しい演技メソッドが生まれていないばかりか、まともな演劇論ですら敬遠される傾向にあります。それがどのような理由に基づくものかは分かりませんが、「継承」ということを考えると暗澹たるものがあります。伝統芸能においては(それがどのようなやり方であれ)技術の継承が意識されていますが、現代演劇にはそのような土壌は見えてきません。ある種の才能が短い間に咲き競っては散っていく、その過程こそが芝居だという言い方もあるのかも知れませんが、何かしらの土台が残ればと思わずにはいられません。
さらに、「リアルであること」は時代によって変化するのかという問いがあります。鈴木忠志が言及した平田オリザの芝居『東京ノート』を随分前に鑑賞した際、そのボソボソと喋る不思議な空間にある種の「リアリティ」を感じたのは事実です。ただそれは「世間と同じで、芝居の熱量も随分と下がったものだな。」というどこかしら覚めた感慨に過ぎませんでした。それが、多くの人に受容される現代の「リアリティ」だとしたら、何か肩透かしを食ったような気にもなろうというものです。
ただ、この問題については『東京ノート』を再度鑑賞してから、じっくり考えてみたいと思います。

●充実した女優陣

今回の公演の配役、初めて観る方ばかりなので何とも言えないのですがとりあえず皆さん素晴らしかったと思います。その上で、難しい役だと思ったのがサン・フォン伯爵夫人。この、やくざな精神を体現したような人物を、それなりの品位を保って演じるのはなかなか骨の折れる仕事で、微妙なバランスが要求されます。内藤千恵子さんはその辺りを上手く演じられたと思いますが、別のキャスティングではどうなるか、もう一度観てみたいと思いました。また、妹のアンヌを演じた木山はるかさん、私は今回2回とも下手奥の最後列に近いところで観たので表情が良く見えなかったのですが、なぜか非常に気になりました。なぜなのかは良くわかりませんが、こちらももう一度観たいと思わせてくれました。

そんなこんなで、久々に舞台に触れた私に濃密な時間を体験させてくれたSCOT には感謝です。もう一度、夏の利賀村に行ってみようかなと思っています。



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