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早見沙織の作詞アプローチ・表現力の考察と、GARDENの赤裸々な内面・自己肯定の話。



早見さんのライブで歌を聴くと、凄まじい多幸感に包まれ、一切の語彙が消失するという事が多々あります。
そんな中でいつも不思議と感じるのが、「ただ日々を生きるだけで、頑張ってるねと赦される感覚」というか、自己肯定感が芽生えてくるような感覚で。

今回は、最新アルバム「GARDEN」を紐解きながら、この自己肯定感が芽生える理由、早見沙織の表現力について、無謀にも言語化をしてみようという試みです。

昨年の水樹奈々さんの記事と同じく、凄まじい文量になってしまいましたが、早見沙織さんという人間に興味がある方には是非、お読みいただきたいと思っています。


1.過去のアルバムと、GARDENの世界観について

早速ですが、早見沙織さんのこれまでのアルバムを振り返ってみたいと思います。

●1st Album「Live Love Laugh」:提供楽曲が多め
→作家・Producerが考えた、またはキャラソンに定評のある早見沙織に歌わせたい曲を集めた1枚。
(1st mini Album「live for LIVE」:元々ライブ用に作られた曲を音源化)
●2nd Album「Junction」:自作詞作曲多数
→自分の周囲の世界・様々な人・多面性を、自らの視点で描いた1枚(作家←→自分が対比)
●2nd mini Album「シスターシティーズ」:全曲自作詞×他作曲
→自分と世界との関係性、世界の中の自分を描いた1枚(周囲←→世界の対比)
●3rd mini Album「GARDEN」:自作詞作曲多数
→自分の内側について描いた1枚。(周囲/世界←→内側が対比)

という印象で、それぞれ前作との対比による連続性を感じさせながらも、それぞれのアルバムで明確にコンセプトは異なっており、どのアルバムも非常にいい出来です。

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さて、今回発売したGARDENですが、昨今の自粛期間と重なったため、外や移動中、帰宅後の深夜の制作がメインだった過去のアルバムと違い、自分と向き合う時間が多かった事から、内面を描いた事が語られています。

また、上に書いたように、枚数を経るごとに、早見沙織らしさが色濃く表現され、特に今回はコンセプトも相まって、早見沙織の感じていること、想い、内側が、極めて赤裸々に、綴られているように感じました。


ここで「極めて」赤裸々と書きましたが、前向きな気持ち、内面の綺麗な部分だけでなく、自らを好きになれない部分や自己嫌悪といった、人にあまり見せたくない部分も、ありありと包み隠さず描かれていて。

実際に各曲の詞を見ていくと、

1.garden→憧れ(ショーウィンドウ=手が届かない、並ぶ花 - 毒も棘もある花)
2.瀬戸際→二律背反(近づきたい - 近づけない)、逃避(主語が1人称I→3人称Love)
3.やさしい希望→臆する姿(言えない、すくむ足)
4.Akasaka5→言い訳(気にしなければ)、劣等感(平凡に歩くわたし - 眩しさ/華やかさ/賑やかさ)
5.glimmer→絶望(死なないようにひとり泣いてた)、自己否定(なんで自分は、こんな自分に)

といったように、かなりのword数でこれが綴られているように感じます。

ややマイナスに解釈していますが、そもそも考えたこともないことは書けない(例えば、死にたいと思う事がなければ、死なないようにとは書けない)と思いますし、少なからずそういう一面が彼女にあるのだと。

また、詞はフィクションを含むものではありますが、それは歌詞に描かれた出来事の話であって、理想や皮肉が乗ることはあれど、曲のメッセージはその人のものではないかなと思っています。


などと考えを巡らせていると、早見沙織が我々と何ら変わらない、自分に対する否定的な感情を抱えているということを再認識させてくれるような気がします。

一般人からすると、それだけ能力があって、多くの人から認められて、たくさんの成功もしていて、何を悩むことがあるのか、と考えがちですが、そもそも自己肯定感は自己の基準に照らしたものでしかなく。

いくら自分が優れた人間になっても、その悩みは変わらずにあるもので、「私とあなたの悩みは全くに同じで、同じように悩んでいる」「人生において前を走っているのではなく並走している」というメッセージを含んでいるように感じます。


2.gadenとglimmerの関係、生き方のヒントと肯定感

特に印象的な2曲について、もう少し掘り下げていこうと思います。

表題曲のgardenは、幸福論的な、自分的幸福マニュフェストとして描かれたという発言がありましたが、「私だけの庭がともにあれば強くなれる」という、何とも強い自己肯定を感じます。

これは、前回のアルバムのリード曲「yoso」で語られた、「どこにいってもよそ者みたいな気がする」に対する解を示しているようにも思えます。

一方で、早見さんの幸福「論」であるという言い回しが、「常にそうありたいが、いつもそう考えられるわけでない」という、先で述べた、前向きだけど突っ走らずに、聴き手に寄り添ってくれるような印象も与えてくれて。


また、初OAのふりすたで言っていた、

「変わる道、変わらない道をそれぞれみんな選んでいく」
「簡単にわーい、ハッピーっていうのも勿論めっちゃいいと思うけれど、自分は覚悟を持って幸せになる道を選び取っていくんだ、その中でいろんなことが起こっていくかもしれないけど、私自身が1番いいと思ったものを選び取っていきたい。明るい方に行けるといいよねっていうところを意識した」

というお話もとても印象的でした。

これを聞いて、生きていると年々、今持っている幸せに満足して(或いは満足していると自分を思い込ませて)いることが増えたなと改めて思ったんですよね。

変わらない事自体は悪ではないですが、手元の幸せが今と10年後で同じように感じられるとは限らないですし、(まさに今年の出来事もあって)昨日まで普通にあった幸せが、明日も同じようにあるとは限らないので、選択肢がある、選び取るという意識を無くすと、手から幸せがただただ溢れていくだけに思えてきて。

私自身も「自分で決める」という事を日頃大切にしていますが、自分を他人に任せず、自ら選び取る勇気、或いは変わるという勇気、覚悟を持つというメッセージに強く共感しています。
まさに、迷った時に改めて生き方を示してくれる、立ち返れる曲になりそうです。

また、gardenには太陽(=力強い肯定)が降り注いでいますが、曲順的にも詞的にも対極にあるのが、5曲目のglimmerで、弱々しくやっとの思いで手を伸ばす姿が描かれています。

ただ、何回か聞いた限りでは、正直なところ何を伝えたいのかが分からず、しかも曲の最後にある「愛」というフレーズが、曲全体の朧げな印象からすると強すぎる表現に思えて、違和感すら覚えていました。


のですが、ある夜中、この曲を聞いていた時に、この「愛」は他者へ向ける愛ではなく、「自分に向ける愛」=自己肯定感であり、曲全体が自己受容の過程であると捉えると、恐ろしく綺麗な曲であることに気付きました。

こう言った気持ちがどん底にある時って、同じ思考から抜け出せなかったり、あげく見えるはずの風景(希望)が目に入らなくなったり、一向に前に進まないような感覚があると思うのですが、これを「トンネル」「覆われた月」「真夜中」「暗い空」「滲んだ星影」…と暗い比喩表現を言い回しを変えながら繰り返すことで、確かに進んではいるのに、暗闇から抜け出せない、という感覚を表現しているのではないかなと。

またそんな中で終盤に、触れるかな→触れるから、光が灯る→光は注ぐ、そして最後には祈る、愛に変わるからと、少しずつ少しずつ前向きさを手に入れていくようで。
(早見さんの曲には、こういった心理状態を、視覚的な情景として描写する詞が多くみられます。というか今回作った4曲も、前回作った5曲もすべて情景描写から始まっていますね…)

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また、この曲の位置がすごく大切で、例えばgardenを5曲目(glimmerの直後)に配置すると、gardenの強い肯定感に引っ張られて、すべてが前向きさに集約されるような印象になるんですよね。

ただ、このアルバムで伝えたいのは、こういった前向きさだけではなく、5曲全ての弱さをも肯定することであると考えると、gardenを最初に置くことで「大切なのはこれだけど…」と、表題曲としてしっかり伝えつつ、「…」の部分でgarden以外の様々な曲の状態を許容するような印象に変わります。

加えて、glimmerでゆったりと自己受容の過程を描いているのに、gardenの強い肯定感に直結するのは唐突感があって。
そういった意味でこの2曲の間には余白が必要で、それを実現する方法論として、アルバムの最初と最後に配置し、(聴き手が再生ボタンを押す必要があるという)空白を挿れつつ、連続性をもたせているのにはすごく意味があるように思います。

(ボーナストラックのワンスモアを、自分の殻に閉じこもっているだけではダメでGARDENの外に一度出てみよう、という意味で空白の位置に置いている、と捉えるのも面白いかもしれません。)


前向きさを歌えるアーティストは確かに他にもいますが、これだけ自分と向き合い、前向きになれない場面を含めて、ありのままの前向きさが綴れる、心の強さを持ったアーティストはそう多くないように思います。

早見さんがこのアルバムを機に、これから歌っていきたいと言っていた「聴いてくださる方がちょっと前へ進んだり、日常に寄り添えるような音楽」が、まさにこの、聴き手にどこまでも寄り添おうとする姿勢に強く表れているなと感じています。

 ★早見沙織のふり〜すたいる♪#493

ラジオで早見さんに曲順についての質問をしたところ、有難くもコメントを頂戴致しましたので、要約とそれを受けての考察を追記。

3.早見沙織はミステリアスか?

ここまで曲のメッセージについて話をしてきましたが、ここからはそのメッセージを、聴き手が自分に置き換えて聴ける、自分に重なっていると感じさせる、テクニック的な部分(詞の書き方・メロディー・声の表現)について考察していきたいと思います。


これを紐解く上でヒントになったのが、A&G+にて放送されている「鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイト」のゲスト出演です。
リスナーからメールで、ミステリアスと振られた早見さんが、たまに言われるが石田彰さんほどではない(19/12/12放送)、全然ミステリアスじゃない(20/3/26放送)と返した一幕がありました。

私自身、早見さんにミステリアスという印象を少なからず持っていましたので、そういった周囲からの認識を理解しつつも、彼女の自意識としては、あくまでも「ミステリアスではない」というのが非常に面白いなと。

この認識のズレに対して、私の考えを先に書いておくと、

・ミステリアスではないと考える理由
 →上に書いている通り、自分の思いや考え方、伝えたいことを隠さず言葉にしている。
・ミステリアスに見える理由
 →早見沙織という主体に起きた出来事が、多く言葉に出ていない。或いはぼかされている。

ではないかと思っています。

この「出来事が多く言葉に出ない」というのが詞の書き方にも影響しており、早見沙織の曲をいっそう魅力的なものにしていると思っています。
まずはこの詞の書き方について、掘り下げてみようと思います。


4.シンガーソングライター早見沙織と、声優アーティストの作詞アプローチ

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一般的に声優アーティストが作詞をした際、それがいつの出来事で感じたことで、どういう想いを込めたのかという背景を、ラジオなどを通じて聴き手に伝えるという方は少なくないと思います。
(例えば「挫折を歌った曲」ではなく、「自分のxxの出来事で、xxという挫折があり、その時に感じたxxという想いを曲にした」みたいに、ストーリーを伝えるという感じです。)

さらに言えば、それがアニメの主題歌や、キャラクターソングともなれば、描かれるのはアニメの中の出来事であり、曲中で描かれる主体とその物語が明確に描かれ、「そのアーティスト、ないしそのキャラクターが歌うからこそ素晴らしい曲」になります。

こういった曲は、役者の一面を持ち、演技を歌に活かすという点で声優アーティストの得意とするところだと思いますし、声優アーティストが歌うそれを、(舞台上でお芝居を見るのと同じように、)役・演技として楽しむのであれば、表現として申し分のない、素晴らしい表現であると思います。


一方で、こういった意味づけのある曲は歌詞と聴き手の状況がピタリと重なることは少なくなり、曲の捉え方や解に幅を与えず、曲自体への共感性は低くなると言えるのではないかなと思っています。
(聴き手が曲を自分と重ねるというよりは、演者の表現として素晴らしいから神曲だ!というような感じですかね。※アーティストやキャラクターといった人物への共感性の話ではないことに注意してください)

で、早見沙織さんはどうかという話ですが、彼女のラジオを聞いていると、書いた時の情景などの視覚的なイメージを話す一方で、「曲に書かれているメッセージが、具体的に何の出来事の経験を描いたものなのか」という、生活感のようなものをほとんど口にしていなくて。
(例えばGARDENに収録されている瀬戸際であれば、書き上げた時間帯や場所、描きたいメッセージは示されていますが、この曲が具体的に早見沙織のどの体験をもとにしたものかは示されていませんし、他の曲も同様です。)

言い方を変えれば、出来るだけ書き手という主体を想像させない、詞における主体をぼかそうとしているように思います。


他にいくつか同じようなエピソードを挙げてみようと思います。

2019年のJUNCTIONツアーでは、各地を巡りながら曲を書き上げ、千秋楽の東京公演で初めて詞を乗せて披露したことがありました。

このcurtainの歌詞には、早見さんの見て感じたもの(背もたれ、照明、椅子の軋む音など)がそのまま描かれていましたが、この歌唱後、curtainの音源化に触れる場面がありました。これについて、

「この詞はこの場のために書き上げたものなので、音源化にあたってはこの場のものというだけでなくもう少しみんなに寄り添えるものにしたい」
「ライブじゃない場所で聞いても、また違う意味合いが生まれたらいいな」

という発言をされており、自らを曲の主体から外そうとしているように感じます。

また他にも、1st Singleのやさしい希望の作詞時、

「白雪の関係にも通づるけれども、似たようなパートナーだったりとか、友達、親だったりとか、そういう人に普遍的に当てはまる…」

というような議論をしている場面があり、デビュー当時からこの事を意識していた事が伺えます。


GARDENを含め、こういった主体をぼかすような詞の書き方によって、聴き手は何のハードルもなく、曲の主体を早見沙織としてではなく、自らを主体として聴くことができ、曲の捉え方に幅を与えるため、聴き手に刺さる、共感性の高い詞になるのではないかなと思っています。
(ラジオでアルバムについて話す際、基本的に話し相手の解釈を先に聞いてから、その解釈を決して否定せず、解釈に補足するように、自らの思いを話し始めますが、これもまさに解釈に幅を与える所以だなと思います。また、「それも」ありますね、という言い回しも非常に多いです。)


分かりやすいんだか分かりにくいんだかよく分からない概念図?のようなものを描いてみました。

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全く同じ出来事を体感する人間の方が少ないので、書き手の曲の核が伝わっていれば、聴き手がどんな出来事を思い浮かべても問題はなく、曲に込めたメッセージは伝わるという話で、書き手側の出来事が見えてしまうと、自分事として捉えるというよりも、そのアーティストの曲として捉えてしまうので、点線は見えなくていい、みたいな感じでしょうか。


また、JUNCTION前後において、早見沙織の表現には余白があるという話がありましたが、歌における余白とは、まさにこの曲の解釈の幅ではないかなとも思います。

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こういったアプローチから見るに、早見沙織は声優アーティストが得意とするフィールドではなく、シンガーソングライターとして勝負している、という方が適切かもしれません。

と、こんなことを以前から考えてたんですが、今回asahi.comのインタビュー記事に、これに触れているものがありました。
(この手の発言、中々見つからなかったので本当ありがたかったです…)

声優業も音楽業も、自分の中ではどちらも大きな支柱として存在しているものなんです。どちらかがメインでもう一方がサブ、というふうには捉えていないですね。どちらも自分だし、表現をするという意味では一緒かなって。なので「声優として音楽で何ができるか」という意識ではなく、「早見沙織として何が表現できるか」という根底の上に、音楽もお芝居も並列にあるというイメージかもしれないです。
<抽象度の高い愛の表現に魅了される――。声優、アーティスト・早見沙織が選ぶ愛の5曲>
https://www.asahi.com/and_M/20200903/15496642/

5.聲の形&水樹奈々共演から見る表現力

さて、これまで詞に乗ったメッセージや書き方について考察してきましたが、シンガーソングライターはそれに加えて、詞を乗せるメロディーと、最終的なOutputである声の表現も大切です。

メロディーについては、やはり作曲がライフワークとしてできる、というのがかなり大きいと思います。
アルバムGARDENでも4曲、過去のアルバムでも持ち曲の半数を自ら作詞しており、曲のストックという言葉をよく聴くことからも、一生懸命書き上げたものというよりは、例えば日記を書くような感覚で、自然な感情表現の1つとして作曲があるような感じというか。

また、多様なメロディーが浮かぶのは、聴いてきた曲の幅の広さでしかなく、小さい時から色々な音楽に触れてきた早見さんだからからこそで。
(邦楽の話はたまに出てきますが、洋楽もめちゃくちゃ広いんですよね…先日POWER OF MUSICを聞いていて改めて思いました)

それゆえ、詞に最も合う、音楽的に魅力的なメロディーを作り出せる(その逆も)のだと思いますし、ここまであまり触れてきませんでしたが、その点、GARDENの中では瀬戸際が1番好きだったりします。
(この曲を多分1番聴いてます)


そして、声の表現については、ここで語るまでもないかもしれませんが、個人的に表現力という点で印象に残っているものを2つほど。

1つは聲の形という作品で、早見さん演じる西宮硝子は聴覚障害を持ち、滑らかな発声が困難というキャラクターです。
この演技については、言葉で伝えるよりも実際に見ていただくのが早いと思うのですが、言葉になりきっていない台詞、敢えて言うなれば、声・音だけで、想いも表現もニュアンスが伝わってきて、涙が抑えきれなくなるんですよ…

アニメを見ていて、××の台詞で泣いた、っていうのはそれなりにあると思うのですが、声の表現力自体に泣かされるような感覚は、中々無い経験のように思います。

以前のライブで、詞のついていない曲をラララで1曲歌うというのがありましたが(東京以前のcurtain)、それでも曲の奥行きを感じて心を動かされたのは、そういうことなのかなと思います。


もう1つは2019年に愛媛ひめぎんホールで行われた水樹奈々さんとのアカペラコラボで共演した時のエピソードです。

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上はラジオで語られた後日談なのですが、この「どういう想いで歌詞を書いたのかを(水樹さんに)聴いた」という点がとても印象的でした。

早見さん自身はこのことに触れていないので、何のために聞いたのかは彼女のみ知るというところですが、少なくとも早見さんにとって関心がある、または彼女の解釈に必要なものであり、過去数え切れないアーティストと共演している水樹さんが「初めて」といった事から、これは彼女らしさであると言えるのではないでしょうか。

私が今までに聴いてきたコラボは、各々が自分なりに曲を解釈し、各々が自らの表現をOutputすることで、異なる2つの表現が重なるような印象を受けるのがほとんどだったと思います。

ただ、この日の歌は早見さんが水樹さんの歌に散りばめられた抑揚やニュアンスの必然性までをも理解しているかのような、極めて深い曲の理解というか、実際に会場で歌を聴いて最初に出て来た感想が「表現が1つしかない」と言えるほど、自然に重なってまざりもののないものでした。

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このエピソードはあくまで一つの例であって、こういった曲の核の部分、本質を大切にする積み重ねが、一朝一夕に積み上がるものではない表現力に繋がるのではないかと思っています。

(個人的に、多彩な人間に共通しているのがこれだと思っていて、ある物事の基本や他との比較で見抜いた本質を、また別の物事にも適用し、最適な努力で効率的に上達できる=多彩なのではないかなと。世間的には天才の一言で片付けられてしまいがちですが…)


6.あとがき

さて、長々と書いてきましたが、結論としては、早見沙織は我々が思っている以上に詞に想いを乗せていて、詞の書き方・メロディー・声の表現のどれを取っても、素晴らしいシンガーソングライターである、という事でした。
(結論だけ抜き出すと当たり前のことしか言っていない気がするの、何故でしょうかね…)

当然、ここに書いた考察は考察でしかなく、私以上に早見さんを見てきた方、私とは違う早見さんを見てきた方、今までに触れたコンテンツ、そしてその捉え方よって、解釈は無限に変わってくるものだと思っています。

考察がまだまだ浅い、というご意見もあるかと思いますが、これによって私とは違う色々な意見が聞けたり、議論が活性化したりすれば、それでいいのかなと思っています。

もし気が向いたらtwitterまで是非、皆さんなりの解釈や、こういった見方もできないですか?等々、コメントいただければと思います。


ということで、このアルバムから新たにスタートを切る早見沙織さんを、今後も細々と応援していきたいと思います。


2020.9.12
.kura@impgnm7

7.参考資料

・19_JUNCTION,CHARACTERS,他(+18年イベ) ライブレポート
 https://togetter.com/li/1590713

・2019 NANALABOふりかえり
 https://togetter.com/li/1332801

・早見沙織のふり〜すたいる♪(第485回〜492回)など各ラジオ

・各種インタビュー記事
 https://realsound.jp/2020/09/post-611217.html
 https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1599012376
 https://www.asahi.com/and_M/20200903/15496642/

・これまでの全歌唱履歴など
 http://pgnm7.wp.xdomain.jp/

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