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ラテンの作品の根底にあるキリスト教哲学

こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。

今日は、キリスト教のお話をしようかと思います。

ラテン諸国の芸術、
そして私達「墓の魚」の作品の根底に流れている
キリスト教精神のお話です。

西洋(特に南欧)、ラテン世界には
(カトリック系)キリスト教精神が根付いています。

多くの芸術に、それは多大な影響を与えており、
ラテン音楽を作曲する私は、
もともとその哲学に興味があって、
この世界に足を踏み入れたと言っても過言ではないのです。

信仰というと日本では敬遠されがちですが、
キリスト教は、信仰という形だけでなく、
哲学という形で芸術に関わっていると私は思います。

さて、以下を抑えておくと、
キリスト教文学がより理解でき、楽しめるかもしれません。

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キリスト教においては「神を信じる」という心が、
とても重要なキーワードとなっています。

何しろ、それが神から与えられた試練でもあるのです。

ただ信じるだけではありません。
信じる事ができなくなるような出来事、
信仰を失うような事件、
神を信じられないような現実
の中で、
それを乗り越えて、それでも信じ続ける事ができるか?
という事がキリスト教徒にとっては重要な事なのです。

つまり、平和な世界の中で、
ぬくぬくと信仰しているよりも、
むしろ、信仰の危機こそが、神が人間を試している出来事なのだと
キリスト教徒達は考えます。

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さてさて、
これはキリスト教、宗教でなくても、
当てはまる事ではないでしょうか?

つまり我々の日常の中で、
「夢への実現を信じる事」
「友人を信じる事」
「自分の信念を信じる事」

というのは、
平和の中でなく、危機の時でこそ、
その本質を問われるという事です。

この辺りが
ラテン、スペイン作品では、よく題材とされます。

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それは例えば、本当に強い戦士というのは、
自分が絶対に勝てない大軍の前(戦局)で
笑う事ができる者の事であって、
自分が絶対に勝てる相手にしか笑えない者は、
真の意味での強者とは言わない、という事と同じです。

穏やかでゆとりのある環境では、
大きな夢を語っていたのに、
経済的に本当に大変な時に、夢を捨ててしまう様な人間は、
夢を叶える者ではないという事です。

「墓の魚」の劇の中の台詞で、
こういうものがあります。

「もちろん、君に何の落ち度があったか、
無かったかは知らないがね。
人生とは落ち度が無くても、
こういう場面に、何度か出くわす事があるって事を覚えておくんだ。
そういった時にこそ、戦士なら資質だとか、
百姓なら信仰だとか、
こそ泥なら度胸だとか、
あるいは魔女なら魔力だとかが問われるのだ。
理不尽に見える時こそ、
道理を貫く馬力が必要なのだ。」

これをひねくれて考えると、
もし「神がしっかり実在している世の中」で、
神の存在性とご利益が保証されていたら、
神を信じる人間達など、信者でも何でもなく、
それは利益にすがろうと、あやかろうと、
現実に媚びうる輩達でしかないのです。

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神がいるかわからない・・
むしろ存在しない!?

と言われているこの世の中で、
それでも信じる何かを持つ者こそが、
本当の意味で信者であり、
利益でもなく、損得でもなく、
信仰心を持つ者なのでしょう。

聖書でイエスが語った言葉があります。

「わたしを見たから信じたのか?
見ないのに信じる者は幸いである」

神はよく南欧文学の物語の中で、
乞食の姿をして、人間の前に現れます。

そして信仰に篤いはずの者達が、
その乞食を粗末に扱うと、
真の姿を現して、彼らを嗜めるのです。

「あなた方は私を愛する者達ではなかったか?
私を愛するという事は、
目の前のただの乞食を愛するという事なのだ。」

と。

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こういった表現は非常にルシタニア芸術的であり、
イベリア文学の中で
何度も何度も繰り返し出てくるテーマです。

神を愛するという事は、
世界を愛するという事。


なぜなら神は世界であり、
その中には残酷な悲しみも含まれます。

悲しみや理不尽を受け入れず、
喜びしか認めない者は、
利益にすがる者でしか無い

という精神が
イベリア(南欧)文学の中にはあります。

あえて悲喜劇的な現実の中で、
物語を皮肉に生々しくシニカルな位置に置き、
しかし、その中で動く人間の心中に、
真の純粋な信仰の姿を見せるのです。

先程の乞食の話や、上記の世界の話は、
以下の様な話に言い換える事もできます。

本当に芸術を愛する者は、
成功し、社会から勲章を授与されたピカソやゴッホの絵でなくとも、
目の前の薄汚い芸術家の作品にも感動するはずです。
しかし、その無冠の芸術の良質さを
我々が見極める力を持たない。
(我々は何が真の尊さなのかを見つける事ができない)

そこに葛藤の物語があるわけです。
信仰の物語がいつも手探りなのと同じ事ですね。

それは、前提となっている社会、
この世の価値観に
いつも疑問を辛辣に突き付けるイベリア文学の
支柱を支えている精神だと思います。

というわけで、
そんな視点でラテン作品や、
私達「墓の魚」の作品を見てみると、
また違った面白さがあるかもしれません。

最後に「墓の魚」の作品の詩を載せますね

「諸君、主はいない
確かにこの世界の何処にも・・・
恐らく永遠に。

しかし、その事実を理解し、突きつけられても
なお十字架を背負った男がキリストなのだ
それこそが信仰であろう?

だからこそ主は、
実在せず、密かに
我々の信仰心を愛するのだ」

(「墓の魚」のオリジナル曲↑)


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