見出し画像

ロールズ正義論に対する古典的自由主義的解釈の検討

ピーター

 今回は前回予告したJohn Tomasiを紹介しようと思います。この人は、"Free Market Fairness"という本で”Bleeding-heart-libertarian”(慈愛リバタリアン)という思想を生み出し、新古典的自由主義(Neoclassical liberalism)を誕生させました。英米圏の政治哲学ではかなりの影響が発揮しており、例えば、前回紹介したブレナンの論文でも関連するものでは必ずこの本を引用していますし、『擁護できないものを擁護する』のウォルター・ブロックは、トマーシを「地球上で最も権威のある高等教育機関の1つであるbrown大学にいる、素晴らしい哲学者」とべた褒めしています(そのあときっちり批判もしていましたが)。もちろん、左翼リベラル側からも多数の激しい反論がなされています。そんなわけで、トマーシは、現在の古典的自由主義を語る上では絶対に欠かすことができない存在と言えるでしょう。以下、名前などの題名にリンクを貼っています。

John Tomasi(ジョン・トマーシ)

画像1

 トマーシは現在Brown大学に所属しています。アメリカの政治では、二つの政治思想を合わせることを"fusionism"(統合主義)と呼びますが(例えばマイヤーのようなリバタリアニズムと保守主義との統合)、トマーシも自身を統合主義と明言しています(マイヤーとは立場が異なりますが)。トマーシは、リバタリアニズム思想(というか古典的自由主義思想)と左翼リベラル思想を統合しているので、トマーシの立場は"Liberaltarian"(リベラルタリアン)とも呼ばれているそうです。

 トマーシ本人は自身の本をこのようにまとめています。

 私の一番最近の著作である、Free Market Fairness(Princeton University Press, 2012)では、経済的自由を擁護するF.A. ハイエクによる道徳的示唆に着目し、さらにジョン・ロールズの言う社会正義にも注目する。この著作では、リベラルな正義を統合させることで、制限された政府、さらに貧困者が財をより持てることの両方を重視して議論を発展させている。この本のなかでは、統合できないものを統合することを試みている—つまり、資本主義、民主主義、私有財産制、社会正義、自由市場、そして公正—これらを一つに組み合わせるのである。https://www.brown.edu/research/projects/tomasi/←引用元 訳はピーター

 さて、不可能なことを可能にしようとするこの本がどんな主張をしているのかをざっくり見ていきましょう。ちなみにトマーシ本人が解説している動画がyoutubeにあります。

スペインでも注目を浴びたようで、スペインで講演もしています。


1 ”Economic exceptionalism”(経済例外主義)

 今の英米政治理論の文脈では、ロールズのような左翼リベラルは"High liberal"(高尚リベラル)と呼ばれています。ドゥオーキンなども含む高尚リベラルは、経済的自由をあまり重視せず、平等や雇用の機会均等の保障を通じて社会正義を実現しようとするリベラルです。高尚リベラルという区分に関するより詳しい説明は、Samuel Freemanによる"Illiberal Libertarians: Why Libertarianism Is Not a Liberal View"を参照してください。

 さて、トマーシは、ロールズの正義論に対して大きな共感を示すものの、その問題点も指摘します。その一つが"Economic exceptionalism"(経済例外主義)です。さきほど、高尚リベラルは経済的自由に大きなウェイトを与えないと言いましたが、トマーシはこれを問題視しているのです。

 ロールズが提案した正義の二原理のうち、第一原理では基本的権利と自由が設定されています。この基本的諸自由に含まれる行為としては、政治的自由(投票権や公職就任権)・言論および集会の自由・良心の自由・思想の自由・身体の自由・個人的財産=動産を保有する権利と法の支配が規定する、恣意的な逮捕や押収からの自由が含まれています。

 以上のリストを見ればわかる通り、この基本的諸自由のなかに経済的自由(例えば、完全に個人の責任のもとで売買をする自由、スモールビジネスをする自由など)が入っていません(生産物ではない個人資産所持の自由と職業選択の自由を認めてはいますが)。トマーシは、基本的諸自由から経済的自由を恣意的に排除すること、これをeconomic exceptionalismと呼び、批判します。

 では、これの一体何が問題でしょうか? まず、ロールズは自由の役割を次のように説明しています。

 自由の役割とは、個人が自律と自尊の感覚を所持するための十分な物資的基礎を与えることであって、自律と自尊は二つの道徳的能力の発展と行使にあたって本質的なものである。(Political Liberalism, p298 訳はピーター)

自由をこのように理解したとき、ロールズは個人資産を保有する自由などしか認めませんが、それはこのような理由からです。

経済的自由の広い体系というものは、資本主義のもとであれ社会主義のもとであれ、基本的諸自由ではない。そのような自由は二つの道徳的能力の発展と行使には必要でないのである。(ibid. 訳はピーター。原文とは少し内容が変わってます)

 ロールズにとっては、生産手段を保有する権利や自由に契約をする権利は基本的なものではないことになります。なぜなら、最も恵まれない人を救出することが社会正義であるために、経済的自由の保障によって発生する甚だしい不平等を容認できないからです。

 しかし、トマーシは、"self-author"(自己著者)という概念に訴えることで、経済的自由を大きな程度まで認める必要性があると主張します。権利や自由は、自律心・自尊心を持ったものとして人を尊重するためにあるとすれば、例えば政治的領域で自由を行使することと経済的領域で自由を行使することが道徳的にみて何の違いがあるのか? とトマーシは問います。言い換えれば、社会の目的のために経済的自由を抑圧するのは、自律した人間を手段として扱うことになり、むしろ正義に悖るとトマーシは主張します。

 では、自由の役割というものを、自律や自尊を通じて道徳的能力を発展させるのに役立つものとするならば、なぜ経済的自由も大きく認めなければならないのでしょうか?それは、必ずしもすべての人が政治的領域やそのほかの領域のみで活動することはなく、むしろ経済的領域で活動することを好む人がいることが容易に予測できるからなのです。さらに言えば、現代の人間にとっては、経済的領域での活動は必要不可欠です。例えば、投資をする、起業する、民間保険に加入する、ローンを組む、転職をするといった行為はリスクを伴うものであり、それによる成功や失敗を通じて自律心を養うことが可能です。さらに、無駄遣いを我慢して節約をすることで忍耐力を上げたり、情報を集めてお金を賢く使うという行為を通じて経済的合理性を鍛えることでも自律性を高めることができます。そうすると、自律性を比較的に強く要求されることが多いのはむしろ経済的領域ではないでしょうか?このようにして、各個人が自律して活動しているのであれば、それが政治的領域であろうと経済的領域であろうと、恣意的に制限されるいわれはありません。道徳的に正当な理由を示さずに経済的自由を制限すること、これがeconomic exceptionalismなのです。

 しかし、ここで急いで付け加えなければならないことがあります。トマーシは経済的自由に大きなウェイトを与えることを主張していますが、例えばロスバードやノージックと異なり、その自由が絶対的なものであるとまでは主張しません(これはトマーシと自然権リバタリアンとが激しく対立するところです)。正当な理由さえあれば、経済的自由が他の自由よりも少ないウェイトが与えられてもよいと言うのです。つまりここでトマーシが言っているのは、ロールズのような高尚リベラルがなかばドグマ的に経済的自由を劣位に置いていること、これが問題であるということです。

 以上の議論から、アプリオリに経済的自由を排除することが道徳的に恣意的であることが示され、そこから、どれぐらい経済的自由を認めるべきかという論点をエンピリカルに議論していくことになるのです。

 2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論

  経済的自由に加えて、高尚リベラルがもう一つ標的にするのは財産権です。高尚リベラルによれば、財産権はlegal convention(法による慣習)に過ぎないと言うのです。つまり、財産権による経済的自由というのは、政府、社会の法律・慣習によって成り立っているものだと主張します。しかし、財産権に限らず権利というのはそれを執行する社会あってのものなので(ロックも政府の存在は自然権を守るためにあると論じた)、リバタリアンにとっては一見問題なさそうに見えますが、高尚リベラルはここからさらに議論を進めるのです。マーフィーとネーゲルによる『税の正義』(2002)では、以下のような議論がなされます。

 ——あるところに、「野良リバタリアン」がいたとします。彼は課税前の所得は自分の物であると主張しているようです。しかし、ネーゲルとマーフィーに言わせれば、課税前の所得は会計上のまやかしであって、課税後の所得が本来の正当な所得だそうです。なぜならば、現行の所得と財の保有パターンは政府とそれを支える税がないと成り立たないため、つまり社会制度のおかげで安全に稼げることができたのだから、所得にたいして自然権は発生しません。したがって、政府が金を勝手に取り上げていると野良リバタリアンが不満を呈しても、そもそも政府が存在しなければ経済活動を円滑に営めないのでそのお金は野良リバタリアンが独力で得たものではないことになるのです。したがって、個人が稼いだお金に対して課税することが正当化されます。

 しかし、トマーシによれば、以上の議論は、財産権を絶対的なものとする自然権リバタリアンには有効ではあっても、トマーシのように、単に大きなウェイトを財産権に与えている立場にはあまり有効でないと論じます。なぜならば、マーフィーとネーゲルの意図に反して、legal conventionの議論は財産権に限らずすべての権利に当てはまってしまうからです。この議論は"generalization strategy"(一般化戦略)と呼ばれますが、以下のように展開されます。

一般化戦略
①C は法による慣習である。つまり、法やそのほかの社会規則の体系である S によって C は整備(facilitate)されている。
②S は、C に対して、L という制限を設けている。
③S に正当性があるかどうかは、S が規定する legal convention(法による慣習=C)に基づいて判断することはできない。したがって、
④L に正当性があるかどうかは C に基づいて判断することはできない。

 ここでC=財産権、L=税制度となるのが(S=法やそのほかの社会規則の体系)、マーフィーとネーゲルによる議論でした。さて、この一般化戦略は、他の権利にも当てはめることができます。では、「身体の安全を保障する権利」を例にしてみましょう。すると、こんなふうになります。

 (例)
①身体の安全を保障する権利は、法による慣習であり、法やそのほかの社会規則の体系によってその権利は整備され、その内容も規定される。
②その権利の正確な内容は法や規則の体系によって決定される。
③そのような法や権利の体系に正当性があるかどうかは、それが規定する legal convention (法による慣習)に基づいて判断することはできない。したがって、
④身体の安全を保障する権利が侵害されたときに、その侵害に正当性があるかどうかは、その権利単体だけに基づいて独立に判断することはできない。

  以上の例でわかるのは、マーフィーとネーゲルの理屈に従うならば、財産権のみならず、身体に対する制限も正当化されてしまうということになります。つまり、こういうことになります。

 ——野良リベラルがいたとします。彼は自分の身体に対して権利を持っていると主張しています。しかし、もし政府が存在しない自然状態だと自分の身の安全は自分で守らないといけないので、それは権利があったとしても保障されているとは言えません。したがって、その安全は法と社会による保護あってのものということになり、上記の所得の話と同じ理屈に則って、自分の身体に自然権がないことになります。そうすると、安全の対価としてなんと強制的に治安活動(例えば徴兵令)に従事しなければならないということが帰結されてしまうのです。

  しかし、そのような事態は高尚リベラルも拒絶するはずです。ということは、少なくともマーフィーとネーゲルの議論だけからは、なぜ財産権による経済的自由だけが制限されなければならないかというその理由は提出されていないことになるのです。こうして、高尚リベラルでさえも経済的自由を真剣に考慮する必要があることが示されたのです。

3 正義の条件—"distributional adequacy condition"(分配妥当性条件)

 以上の議論により、経済的自由にも大きなウェイトを与えなければならないことが示されたのですが、しかし、そうした場合には困窮に陥る人が現れるでしょう。それが問題であるからこそロールズは格差原理を提唱したのです。

 格差原理のように経済的自由を厳しく制限することには反対しつつも、トマーシは、貧困の問題は非常に重要であると言います。アナルコ-キャピタリズムから古典的自由主義までを含むすべてのリバタリアンは、自身が思う望ましい社会を論じるときはこれをどう解決するかが必ず求められます。

社会的・経済的制度の体系というものは、それがその社会の内で最も恵まれない者の利益になる場合においてのみ正しいとみなされる。(Free Market Fairness, p125 訳はピーター)

 すべてのリバタリアンは自覚してるかどうかにせよこの規範を受け入れており、トマーシはこれを"distributional adequacy condition"(分配妥当性条件)と呼びます。つまりこういうことです。

いかなるリベラリズムであれそれを擁護する場合、その制度が物質的・社会的財の望ましい分配をもたらす可能性があるという主張をしないのであれば、十分に擁護がなされたとは言えない。(ibid, p126 訳はピーター)

 したがって、経済的自由を大きく尊重する場合であっても、この条件を満たさなければならないことになります。これはすべての正義論が満たさなければならないものであり、特にリバタリアンにとってはここが一番ネックになるところです。

4 ハイエクにとっての"social justice"(社会正義)

 ハイエクは、社会正義という言葉に対して強く反発していました。人間が設計したものに対してのみ正しい/正しくないということが言えるであって、市場は人間が(意識的に)作り出したものではないため、例えば自然災害で被害にあった人は可哀そうではあっても、正しいとか正しくないということは言わないのと同じように、市場による営みの結果貧困者が生まれても、それは可哀そうではあっても正しい/正しくないと言うことはできないと論じました。

 さらにハイエクは、社会正義を様々に批判しています。
①公共政策の文脈では、社会正義に訴える政策が支持されやすい。
②政治哲学の文脈でも、社会正義を主張することは非常に効果的だった。
③ある特定の団体の利害関心のために政府の介入が主張された場合はいつ  でも、社会正義の名前が使用される。そうすると、それに対する反対意見は速やかにもみ消される。例えば、政府が提供するソーシャルサービスを導入するかどうかを議論するとき、社会正義に訴えれば、いわば「開けゴマ」と言うかのごとく導入が認められる。
④社会正義という言葉があまりに濫用されているために、実際の意味が空虚になり、さらに、自由な社会にとって必要な他の価値に対して大きな脅威となっている。 こうして、自由な人間による自生的秩序であるべきの社会が、社会正義という言葉によって、単一の階級による目的のためにすべての人間が隷従させられる社会に変容するとハイエクは論じます。そこでは、個人の自由というものは犠牲にならざるを得ないのです。

 しかし、トマーシは、社会正義という言葉を頑なに否定するハイエクも、困窮に陥った人や孤児に対しては、最小限の金銭を保障するセーフティネット(分配妥当性条件)の必要性を認めていることを指摘します。したがって、トマーシによれば、ハイエクが拒絶しているのは、高尚リベラルが主張するものやハイエクの時代における括弧つきの「社会正義」であり、トマーシが目的にする社会正義は認めるはずであると結論づけます。

5 "Market Democracy"(市場民主主義)

  こうして、高尚リベラル、ハイエク含む古典的自由主義、リバタリアニズムの批判を通じて、トマーシは"Market Democracy"(市場民主主義)という制度を支持します。この制度においては、社会正義の様々な構想、それに対するアプローチ、そして民主主義的理念を実現することが可能になると言います。市場民主主義においては、どのような社会制度が構築されるかは、その民主主義における枠組みで定められた社会正義に基づいて決定されます。 そのような社会正義では、リベラルな市民としての権利を尊重するために、経済的自由にも大きなウェイトが割かれることが条件になっています。これが高尚リベラルの社会正義とは大きく異なる点です。

 さらに特徴的な点として、市場民主主義では、高尚リベラル、ケイパビリティアプローチ、平等主義などによる社会正義が最終的に支持されることを排除しないといいます。なぜなら、高尚リベラルに対する上記の反論においては、経済的自由が他の自由に比べて絶対的に優先されるとまでは主張していないのです。したがって、トマーシは、市場民主主義は、ベストな社会を探るための「リサーチプロジェクト」だとするのです。

  こうして、経済的自由と他の自由が相対的であると判明したとき、高尚リベラルと古典的自由主義(ないしリバタリアニズム)の対立点は、従来考えられていたよりも大きなものではないことが判明します。つまり、規範的には経済的自由の絶対的な優劣を完全に決定できないのであれば、それは実証的なデータに基づいて判断するしかないのです。前回紹介したブレナンの"Libertarianism after Nozick"でも示したように、高尚リベラルとリバタリアニズムの対立点は、現実のデータと照らし合わせたときに経済的自由はどれぐらい尊重されるべきか、市場の失敗と政府の失敗のどちらがより深刻か、というエンピリカルな点に解消されることになるのです。

 以上が"Free Market Fairness"のダイジェストでした。ここで紹介した他にも興味深い議論がたくさんありますので、もし興味があればぜひ原著を読んでみてください。

6 終わりに

 さて、トマーシの議論によって左翼リベラルとリバタリアニズムの議論が新たな局面に突入したわけですが、トマーシ以外にもいろんなリバタリアンが左翼リベラルに論戦を展開しています。そこで次回は、ロールズに対してリバタリアンがどのような反論をしているかを紹介しようと思います。淡々とロールズの矛盾を突く、前回も登場したブレナンによる”Rawls’ Paradox”や、ロールズの理論でもリバタリアニズムを肯定することができると主張する、KEVIN VALLIERの”A RAWLSIAN CASE FOR LIBERTARIANISM”、さらには、パラレルワールドの世界で左翼リベラルのノージックとリバタリアンのロールズがいると仮定してそのまま彼らに自分の議論を展開させると、現実の世界の二人よりも理論が整合的になるという正義論版『君の名は』を展開する、Loren Lomaskyによる”LIBERTARIANISM AT TWIN HARVARD”などを紹介しようと思います。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!