およぐ人、はしる人 20170414

指先に力を入れる余裕がない。水の抵抗を考えられない。今までどうやって進んできたのか、浮いていたのかと、不思議に思うほどもがき溺れている。絶望という言葉を思い浮かべる暇もないわたしは、確実に「ひとり」だ。

負荷がかかると、まったく新しいことをしたように戸惑う。無意識に出来ていたことが出来なくなり、ああそうだ、「当たり前」なんて無いんだったと気づく。わかっているつもりでわかっていなかった、知っていることにしたかったことを、温水プールからでて川に飛び込んではじめて実感として飲み込んだ。自分の中にあるはずの確かなものを探し、やっと見つけた小さくまるいものを握りしめていた。

誰にも見せなくてもいいと思い、同時に誰に見せてもいいと思っていたそれを、なぜまた手を開いて眺めていたのか。

およぐわたしに、陸地から声をかけてくる人がいた。「行きたいところがあるのか?」と。わたしはある、と答えた。するとその人はすかさずこう言った。

「そのやり方では難しい。」

真意を捉えられずわたしは「それはやめろと言いたいのですか?」とたずねた。「そうではないが、、」と言葉を濁し、その人は消えていった。

彼にはわたしがどのようにして進んでいるのかが見えていない。それに彼は、陸をはしる人なのだ。およごうと思ったことなどない。なにより、わたしはどこに行きたいかなど、教えていない。

もちろんわたしも、彼のことなど知る由もないので、ここからはすべて憶測だ。しかし見ただけでわかることは、彼がこれまでずっと陸をはしって来た人であること、その過程で増やしていった荷物を持って進んでいるということだ。それは全て彼が決めて実行して来た、していることだろう。たとえ人に提案されたことでも、従うも流されるもまたひとつの意思決定だ。

彼の言いたかったことはきっとこうだ。

「何をしようとしているにせよこれから荷物は増えていき、そう簡単には進めなくなるぞ。」

わたしは、イッパンテキに持つべきと言われている荷物を持っていないし、持つ気もない。荷物は勝手に増えていくものではなく、自分で増やしていくものなのに、彼は気づかない。気づいていても放っておくのだ。みんなと同じならまず安心だと。そして進めなくなったとき、それを荷物のせいにする。

わたしはきっと、一度溺れて気づくことができた。

ひとりだ、ひとりだった、今この瞬間、誰のせいにもできない、どんなに小さなこともわたしが自分で選んだことなのだ。

それは良い意味でも悪い意味でもない「ひとり」。ただの事実としての「ひとり」。

「ひとり」を受け止める覚悟をすると、次の瞬間にはもう、あっけなく気づく。

なんだ、足のつく深さだったのか、と。

#エッセイ #日記

いただいたサポートで元気になって文章を書きますっ。