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シャワーヘッド 20170821

実は、うちにはシャワーヘッドがなかった。

いやいや、最初はあったんだ。 「なにやらボイラーがおかしい」 「お湯が出ないぞ」 とざわついていたとき、原因をシャワーヘッドだと見抜いた知り合いの手によって外された。

京都旅行から帰ってきたわたしが見たのは、先端が銀色に光るホースだった。

以来、わたしたちはホースで水浴びしていたわけで。シャワーヘッドがないことは日に日に自然になっていった。

案外ホースは不便さを感じさせない。
むしろ、なんて言うか、……いい感じだ。

住民であるわたしたちは、シャワーヘッドが外された結果ホースになったと理解しているが、遊びに来た人が見るのはホースだった。浴室に、たったひとつだけある、ただのホースだった。

「あ、ちなみにシャワーヘッドはないんで〜」 とさらっと口に出す家主はずいぶんあまたがおかしく見えただろう。ここがゲストハウスなら、ゲストが来る前に強めに了承を得なければいけない。

しかし突然のホースへの反応は「わろたwww」である。訪れる側も大概あたまがおかしい。
客人に非日常体験を提供することができるという点で、ホースはいい感じだ。

さけるチーズを知っているだろうか。わたしの記憶では小学生の時に流行り始めた気がする。今となっては理解しかねるが、ベタベタとチーズを手で触り、やたらと細くさき、もはや味を感じない食べ物として大好きだった。

その状況と、シャワーヘッドを当然のように使っていたバスタイムは似ているように思う。
本来太く出てくる(?)水を、細く出して浴びていたのだ。
ホースで身体を流している時は、さけるチーズをさかずに食べているような贅沢感に包まれる。それはもうガブッとだ。

してはいけないことをしているようで、たまらない気分になる。
ごく偶にしか許されない行為を毎日させてくれるという点で、ホースはいい感じだ。

ちなみに後からわかったことだが、シャワーヘッドというのは大体節水機能を備えているらしい。あれを付けているだけで節水してしまっている。わたしのホースに対する「贅沢だ‥」という感覚は間違っていなかったのだ。

うちは山水を引いてきてそのまま使っているので水道代がかからない。あふれる水をどうして節約する必要があるだろうか。
訪れた人だって、「いやあ〜前はシャワーヘッドなかったんですけど付けたんですよ〜」と言われたところで「ふーん。」である。何もおもしろくない。

そう考えるとシャワーヘッドは無いままの方がいいのでは?Amazonでシャワーヘッドを探している時のわたしはいきいきとしていたか?
そんなことがあたまの中でぐるぐる回りだす。
う、うわああああ。

緑色のお兄さんは、そんな事情は露知らず。軽快なステップを踏みながらそれを運んできた。昨日の出来事である。
「あした付けよう!」とわくわくする滞在者に対して、わたしは切ない気持ちを抱えていた。

一晩明けた今朝、いつもより早く起きて、胃腸炎で動きの鈍い身体にムチを打ち、わたしは最後のホースタイムを味わった。本当に意味がわからなかったが、気づいたら自分のお腹にホースから出るお湯でハートを描いていた。なんだったんだ。

そしてついに、先ほどシャワーヘッドが取り付けられた。悲しきかな、問題なくお湯は出た。

これからわたしはシャワーヘッドのある日常に慣れ、ホースとの日々を忘れていくのだろう。シャワーヘッドが悪いわけではないとわかっているからこそ、行き場のない感情がわたしを苦しめる。
当たり前なんてなかったんだ。

せめてこの苦しみを忘れないように、日記に残すことにする。

おわりかこ。

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