Twitter三題噺「溶かしバター・譜面台・眼精疲労」

 ドヴォルザークのチェロ協奏曲 ロ短調 作品104は過去に何度も演奏したことのある曲ではあるが、自分がメインでやるのは初めてのことだ。この日、何度目かの練習を終えて帰ろうとする間際、指揮者のペトルが私を呼び止めた。呼び止められる理由に心当たりが無いわけではない。メインとして、今の自分は十分な働きが出来ていない。
 国営放送後援の交響楽団に入団してから一年。そこからチェロのメインパートを任されるのは四十代を前にして異例の早さであり、自分のこれまでの実績に期待あっての任命であることも理解している。だが、その期待に応えようとすればするほど、指は思うように動かない。ここ最近は、周りからの視線が痛く突き刺さるのを感じながら演奏するのが苦痛で仕方がなかった。タブレットの譜面を見ていると、音や指示も負えなくなるほど目も霞んでくる。まるで、絶えず人が行き交う激しい喧騒のど真ん中でずっと演奏しているようだった。
 他の楽団員がホールを出たのを見計らって、ペトルが私に近づく。
「慣れないよなぁ、タブレットの譜面」
 思ってもみない第一声に、思わず「え?」と気の抜けた返事をしてしまう。ペトルが続ける。
「なんか、全体的に音符や記号が小さく見えるんだよなぁ。私も年寄りだから紙が良かったんだが、断られてしまってね。いや、苦労をかけてすまない」
 ペトルがそんなことで謝るとは思っても見なかったので、返す言葉も見つからなかった。ペトルとは長い付き合いで、私が交響楽団に入る前から親交があり、一緒のオーケストラで仕事をしたこともある。彼が素晴らしい指揮者であるということを、否定するものは誰もいないだろう。各地の著名なオーケストラを率いた実績にも長けている実力者だ。私にとって良き友であり、良き師でもある彼から厳しい指導を受けたことも多い。だからこそ、こんなことで慰められるとは思わなかったのだ。
「道具のせいにしたいと思わないのがキミの良いところだ。でも、目に見えて最近のキミは疲れているよ。家ではきちんと休んでいるのかい?」
「いや正直、最近はあまり……」
「だと思った。根詰める気持ちも分からないでもないが、たまには音楽から離れるのだって大切なことだよ」
 しかし、秋の音楽祭までもう三週間ほどしかない。思うような演奏ができない自分に腹が立つばかりなのに、今更離れることなんてできない。ペトルはそんな自分の思いすら見透かしているかのように、細くしわがれた指で一枚の安っぽいチラシをつまんで取り出した。そこには「指示追従型セラピー」と書かれている。
「何個か前の公演のときに、ピアニストのスーザンから教えてもらったんだ。一度やってみたが、なかなかいいリフレッシュになったよ」
 怪しい文面の書かれたチラシをペトルが差し出すのにも驚くが、それを勧めたのがスーザンというのにも驚く。スーザンと言えば、ベルリン・フィルの常連音楽家だ。彼女も経験者だと言うなら、なおさら無下にはできない。
「次の休みのときにでも行くといい。そこに書いてある電話番号で予約するんだよ」
 チラシを受け取ると、ペトルはさっさと立ち去る。それを引き止めて、私は声をかける。
「どうしてコレを私に?」
 ペトルは肩をすくめて、言う。
「だって、今のキミは休み方すら忘れてそうじゃないか。すっかり目がショボショボしているぞ。アダム、良き音楽を奏でるなら目で音楽を見れるようになるまで休むことも大切だぞ」

 自宅に帰ると、妻のカーラがまた何か菓子を作っているようだった。バターと砂糖の混ざった甘い匂いがする。
「おかえりなさい。夕飯出来ているんだけど、コレをオーブンに入れちゃうから少し待っててね」
 カーラは普段ITエンジニアとして自分には想像もつかないような大きな企業の大事なシステムを作ったり、社会に欠かせない公益システムを作ったりしている。自分とは違うモダンな仕事で、この家の経済を支えているのだ。にもかかわらず、彼女の趣味は菓子作りや手芸など、アナログな物が多い。テレビゲームなどをやっているのは見たことが無く、むしろ自分のほうがゲームやPCで時間を費やすことが多い。
「今日は何を作っているんだ?」
「フィナンシェよ。この間作ったイチジクのジャムも混ぜてみたの」
 自分としては、頻繁に美味しい菓子を食べられるのでありがたいが、最近は丁寧に紅茶とともに菓子を食べるよりも、家で練習する際の間食として雑に食べてしまうことのほうが多いので、少し後ろめたい気持ちもある。
「ペトルに休めと言われたよ」
「あら、あの人も良い提案をするわね」
 フィナンシェの生地が入った型をオーブンに入れながらカーラが言う。
「私も休むべきだと思うわ。あなた、最近よくココを強く押さえてる」
 カーラはそう言って目頭の辺りを指す。確かに、最近目の周りが鉛のように重く辛い。ペトルの言うように、やはりタブレットが合わないのだろうか。
「キミの方こそ、こういう疲れが溜まりやすそうだけど、いつもどうしているんだ?」
「お菓子を作って、モニターやスマホから離れる。あと、ゆっくりお風呂に入るとか、散歩に行くとか。そうだ、今日こそ湯船に浸かったらどう?」
「いや、夕飯を食べたらもう少しやっておきたい」
 カーラが呆れてため息をつきながら、夕食のチキンソテーを盛り付ける。
「ペトルは何て言ってたんだっけ?」
「それはそうなんだが、どうも上手くいかなくて」
「上手くいかないのは、そうやって根詰めてるからなんでしょう。あなたも、今度一緒にお菓子とか作ってみない?とても良いメディテーションになるわよ」
 メディテーション……確か瞑想のことだったと思う。しかし、そんなことをしたところで、運指が思い通りに滑らかになるわけではない。カーラはやっている仕事の割に、こういう根拠があるのか無いのか分からないものにも関心が高い。
 スパイスのたっぷりまぶされたチキンソテーに、ポテトやほうれん草の炒めものが添えられる。夕食の皿をテーブルに並べて座ると、早速パンを手に取る。今日のパンもカーラが焼いたものらしい。グラスフェッドバターをパンに塗り、口に放り込みながらシェフの説明を聞く。
「お菓子や料理を作っている間、そのことしか考えられなくなるのよね。パソコンやスマホからも離れて手だけを動かせるから、無心になれるの。無心になれるってことは、ココロの中にある色々なことを一旦忘れて、リフレッシュできるのよ」
「それがメディテーション?」
「そう。一旦すべてを忘れるからこそ、自分が向き合いたいタスクに、新鮮な気持ちでまた向き合えるようになるの。ペトルはそのことを言っているのかもよ。もっと新鮮な気持ちで自分の音楽に向き合ってほしいのよ」
 ペトルがくれたチラシをカーラに見せる。カーラが受け取ると、書かれている内容をまじまじと見つめる。
「聞いたこと無いセラピーだが、ベルリン・フィルで演奏するようなピアニストが行きつけにしているらしい」
「初めて見るセラピーね。でもいいじゃない、値段も良心的だし。すごい人も行くセラピーなら、まぁ社会勉強だと思って行ってみたら?」
 カーラはチラシをこちらに返してそう言う。チラシをしまってから空になった皿を下げている間に、カーラが焼き上がったフィナンシェを取り出す。
「今週末に行くのね、じゃあ帰り待ってるわ」
「いや、まだ行くとは……」
「ペトルが言うのよ、行ったほうがいい。お菓子作りが良ければ、私は大歓迎よ」
 フィナンシェを盛った皿を渡しながらカーラが言う。皿を受け取ると、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。練習のお供に最適なものを、カーラはいつも作ってくれる。一つ取って齧ると、カーラが言った。
「言い忘れてたけど、それを食べたら必ず行くって約束したことになるから」
「え?」
「いい?約束よ」
 カーラが笑ってそう言う。仕方なく、チラシに書かれたメールアドレスに予約のメールを送ることにした。こういうとき、カーラには逆らえない。

 土曜日になり、ペトルに紹介されたセラピーの場所へ向かった。古びたアパートの螺旋階段を上がり、チラシに書かれた部屋の番号の呼び鈴を鳴らす。ややしばらくすると、家主がドアを開ける。想像よりずっと若い、二十代くらいの精悍な男性が爽やかな笑顔で出迎える。
「やぁ、アダム・シュパーチェックさんですね。セラピストのミハルです」
 ミハルの差し出した手を握り、握手を交わして中に入る。白を貴重としたモダンな室内は古いアパートにも関わらずリフォームでその古さを全く感じさせず、生活感がない。白いタイルが敷き詰められた床を歩き、明るい窓辺に置かれたグレーのスエード張りのソファに座るよう案内される。観葉植物が所狭しと置かれているのに、いやに部屋は広く見えた。
「ペトルさんのご紹介だそうですね。セラピーを受ける前に、簡単なカウンセリングをさせてください。その後で、実際にセラピーを受けていただきます」
 そもそも初めて聞くようなセラピー方法なのだから、普通に話を聞いて終わりではないとは思っていたが、全容があまり分からずやきもきする。とりあえず、ミハルの言うことに頷くしか無い。
「アダムさん、ペトルさんからお疲れだと伺っていますが、どこが辛いとかありますか?」
「目ですかね。ペトルが言っていましたが、最近は譜面も電子化で……タブレットで見ることがほとんどですが、最近はめっぽうそれが合わないらしくて」
「なるほど、それで演奏の方に支障があると?」
「はぁ、まぁ……そういうことなら、眼科に行くべきですかね?」
「あまりひどいようなら、それもそうかもしれないですが、私の見立てではもっと他に原因があるのではないかと思います」
 ミハルが手に持ったバインダーを閉じて、言った。
「最近、チェロを弾いていて楽しいですか?」
 思いがけない問いかけに狼狽えてしまう。楽しい、か……音楽は自分にとって生きる術だ。楽しいとか辛いとか以前に、コレ以外にやることが無い。そう思ったことを素直に伝えると、ミハルは眩しそうな顔をして頷いた。
「リフレッシュが必要だと伺っていますので、それに見合ったものをご用意していますよ。では、念の為禁忌症がないか確認するため、こちらに記入をお願いします。その間に、準備しておくので」
 質問用紙の挟まったバインダーをこちらに手渡すと、ミハルは立ち上がって観葉植物たちをかき分けた奥へ消えていった。
 手渡された用紙に目を落とすと、至って普通の問診票のような質問が並んでいる。アレルギーや恐怖症は無いか、過去の発作や病歴など……一つ一つ、記入し終わるとほぼ同時くらいのタイミングでミハルが戻ってきた。書き終わった問診票に目を通して、問題がないことを確認すると、ミハルは笑顔で立ち上がるように言って、先程消えた観葉植物の奥へと案内した。
「コチラの中へ」
 青いドアを指さされるがまま、開けて室内に入る。中は真っ暗だ。完全に入ったのを見届けて、背後でドアが閉められる。不安に感じて振り返ると、室内にミハルの声が響く。別室からマイクで話しかけているようだ。
「アダムさん、驚くでしょうがどうぞ落ち着いて。このあと室内の電気をつけると、あなたの目の前に指示の出る機器が見えると思います。そこに表示される指示に従って、行動してください。もし、途中でご気分が悪くなったら遠慮なく言ってください。私は隣の部屋にいます。では、始めて良いですか?」
 胸に一抹の不安を抱えながらも、もうここまで来たら後戻りはできない。覚悟を決めて「はい」と返事をすると、白くまばゆい光が室内に満ちる。
 眩んだ目が徐々に慣れると、天井も壁も床もすべて真っ白で窓も飾りもない室内の全貌が見えた。その中央に置かれたあるモノを見て、思わず口をついて言葉が出る。
「勘弁してくれ……」
 そこには木製の譜面台に置かれたタブレットがある。指示の出る機器とはこのことだろう。見慣れすぎただけでなく、自分の不調の原因として憎々しさすら感じる薄い電気の板は、煌々と光ってコチラを呼ぶ。おずおずと近寄ると、タブレットに大きく文字が表示される。
「DANCE.」
 意味が分からない。何もない空間で、ただ「踊れ」と言われてどうすればいいのか。するとタブレットの画面が切り替わる。
「指示に従ってください」
 そして再び表示される「DANCE.」の五文字。音楽も無いのにどうすればいいか分からないが、とりあえず体をゆっくり左右に揺らしてみる。タブレットをチラと見ると「DANCE.」の文字はまだ消えない。それどころか「MORE!」と表示され、画面は激しく点滅した。小さく舌打ちしてから、もう少し体を大きく動かしてみた。左右に軽く飛びながらステップを踏み、腕を大きく振り上げる。もはや、踊りとしては相当低品位でみっともないものなのは、想像に容易い。老人ホームのエアロビクスのほうがまだ気合が入っていそうな動きだと、自分でも思う。
 タブレットの文字から「DANCE.」が消えた。かと思うと、また別の言葉が出てきた。今度は「SING.」と出ている。歌えってことか……歌は苦手だ。そもそも、歌が苦手なのに音楽が好きだからチェロをやっているのに。仕方なく、今朝車のラジオで聞いた流行りのナンバーをハミングのように口ずさんで見る。思い入れも何もない曲だが、キャッチーな旋律で耳に残っていたものだ。タブレットに再び「MORE!」と表示される。歌詞も含めてちゃんと歌えってことだろうか。歌詞の分かる曲となるとオペラのアリアとかしか思いつかない。トゥーランドットの『誰も寝てはならぬ』を選んだ。多少声を張り上げ、いかにも歌っている感を出して、歌う。そんなポーズをとったところで、別に上手くなるわけではない。こんなダミ声では、誰も寝ないどころか苦情を言われそうだ。まるで自分がバカになったみたいだ。画面から文字が消える。段々とこのタブレットがより一層忌々しいものに見えてくる。次に表示された文字は「SHOUT.」叫べというのか。踊らせて、歌わせて、叫ばせて……まるで操り人形にでもなったような心地だ。もうどうにでもなれ、というヤケクソな思いで叫ぶ。「MORE!」なんて言わせてたまるか。
「うぉおおおおおおおおおおお!」
 タブレットの文字が一発で消える。ざまぁみろとほくそ笑んでいると、次の指令が出た。「PLAY.」
 しばらく頭を悩ませた。遊べという意味か、演奏しろという意味か。立ち尽くしていると文字の表示が変わる。
「PLAY MUSIC.」
 先程より具体的になったとはいえ、いやに漠然とした指示だ。音楽を奏でろと。何か楽器があるのかと思って改めて部屋を見渡すが、ここにはこの忌々しい譜面台とタブレット以外に何もない。タブレットの表示はそこから動かなくなった。
 踊りも歌も叫びも、ある種の音楽的な側面ではある。でもそれは、音楽を奏でることそのものとは違うのではないか。ここで、俺は、どう音楽を奏でるべきなのだ。このとき、家に置いてきたあのチェロの姿を思い出した。ヴァーツラフ・クンツの手掛けたあのチェロは、何年も前に古い楽器店で弾いてから一目惚れしたものだった。最初は驚くほど扱いづらく、もう何年も無かった指への痛みすら覚えるほどだった。普通なら、その時点で買わないと選択をすると思うし、そうすべきだと思う。でも、あのじゃじゃ馬な四本の弦の奥には、確かに宇宙が見えた。自分にしか紐解けない、遥かな秘密があるという予感があったのだ。その予感は的中し、日を追うごとに弦は指に馴染み、想像以上の音を奏でてくれていた。世にある著名な職人が手掛ける超一級品のチェロには劣るかもしれないが、あれは自分以外には扱えないという自負すらある。その揺るぎない自信を与えてくれるだけで、あのチェロを持ち、弾く意味があるとすら思えた。
 あのチェロが恋しい。
 思わず、あのチェロが奏でる旋律を口ずさんでいた。低く、嫋やかに流れる旋律は、樹木から根を通り、地面を伝って流れる雨水のようであった。自分の喉を鳴らし、あの深い音色に近い音を一生懸命絞り出す。もちろん、到底及ばない。歯がゆい思いで、何度も喉を鳴らす。腹に力を入れてうーと声を出し、喉を震わせて響きを与える。
 タブレットの文字が切り替わった。そこには「GET OUT.」と記されていた。最後の最後まで忌々しい存在だ。鼻を鳴らし、タブレットを一瞥する。煌々と光る画面を爪先で弾いて、譜面台をつま先で軽く小突いてやった。それで溜飲が下がるわけではないが、やらないよりはマシだった。
 青い扉に向かってドアを開ける。それを見計らってミハルが隣の部屋から現れた。
「お疲れさまでした」
 軽く会釈をするが、そういやあの譜面台の仕掛けはこいつが仕込んだものだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。ミハルは変わらず、爽やかな笑顔で続けた。
「慣れないことをしてお疲れでしょう。お茶を淹れましょうか」
「いや、結構。ありがとう」
 ミハルは、まるで私がそう答えるのを分かっていたように笑顔で頷いた。支払いをさっさと済ませて、帰ることにする。足が浮ついているのが自分でも分かった。
 あの古いアパートを出ると、街の中にはいつもの喧騒がひしめいている。風になびく街路樹の葉がパーカスの奏でる確かなビート、人々の話し声はバイオリンたちのアレグロ、行き交う路面電車のティンパニーとトライアングル。すべてが美しい音楽だった。どうして、こんな当たり前のことを忘れていたのだろう。私はただチェロが好きで弾いていたんじゃない。あのチェロから見える宇宙や、この世界を奏でたいと思ったから弾いているのだ。まだ陽も高く明るい空を見て、ふと家に帰る前に寄り道をしようと思いついた。

 自宅に帰ると、カーラは窓辺のソファで本を読んでいた。顔を上げると、私が手に持った買い物袋を見つけて目を見開く。
「珍しいじゃない、何か食べたいものがあったの?」
 私は少し笑うと、袋の中のものを取り出した。バター、砂糖、小麦粉……製菓材料が出てくるのを見て、カーラはますます目を丸くした。
「作り方を教えてくれないか。キミの好きなものを作りたい」
 カーラは顔をくしゃりと歪めて頷く。大きめの鍋に湯が沸かされ、キッチンにボウルや泡立て器などが並び、耐熱ボウルにバターが落とされた。
「沸かしたお湯の上にボウルを置いて、バターを溶かすのよ」
 言われるとおりにボウルを置いて、中のバターをゴムベラで優しく撫でた。バターの溶ける香ばしくも甘い香りが広がる。
「私、この瞬間がとても好き」
 カーラが口を開く。
「バターの溶ける香りって、今の自分がとても幸せだと感じるの。いい香りでしょ?」
「あぁ、本当に」
 鼻孔をくすぐるバターの芳醇な香り……これは、チェロの旋律に似ていた。家に帰り、カーラが菓子を作っているとき、ホッと安心するのはこの香りがあったからなのだ。すぐそこに、欲しい音は音の姿をせずに存在していた。カーラは、気付かぬうちに知っていたのかもしれない。そう、私のもう一人の伴侶であるチェロは、弾いていないときでも幸せの音色を常に奏で続けていたのだ。
「その様子だと、セラピー良かったみたいね」
「まったく、変なセラピーだったよ」
 すっかり溶けて黄金色の泉と貸したバターを、カーラが振るっておいた粉やオートミール、レーズンの混ざったボウルに注ぐ。徐々にもったりと重たくなる生地を混ぜて、ボソボソとした生地が少しずつ光沢を帯びてまとまっていく。均等に切りそろえて、鉄板に並べてオーブンに入れると、カーラが聞いてきた。
「どんなことがあったの?興味があるから詳しく聞かせて」
 カーラにせがまれるままに、あの奇妙な一連のセラピーを伝えるとカーラは笑って
「あなたがどんな踊りや歌を披露したのか、見たかった!」
 とはしゃいだ。それだけは勘弁して欲しい。
 生地が焼き上がるまでの間、どうしようかと考えているとカーラは聞いてきた。
「ゲームする?この間やっていたシューティングゲームが途中だったわね」
「いや、今日はいい」
「じゃあ、チェロを弾く?」
「……そうだね、今すぐにでも弾きたい」
「じゃあ、私は本を読もうかしら」
 そう言うカーラを尻目に、自室に入ってチェロを手に取ると再びリビングに戻った。カーラが少し驚いた表情でコチラを見る。
「久しぶりに、聞いてくれないか?」
 カーラは本を置いて、コチラに向き直る。
「えぇ、もちろん。ぜひお願い」
 愛する観客を前に、チェロの弦を押さえ、弾く。何の音楽でもない。ただ、今日街中で聞いたオーケストラの喧騒と、今この瞬間にオーブンの中でじっくりと焼き上がる幸せの塊が奏でる、旋律を形にするだけだった。きっと、どんな音楽家もそうだったのだろう。雄大に流れる河や、目の前に高く聳える山、移ろいゆく季節と人の流れ、愛する人や友人との他愛もない会話……あらゆるものの中に潜む美しい旋律を、ただ自分なりの音楽にしていただけなのだ。発表会で演奏するあの曲も、ただクラシックの名曲であるわけではない。饒舌かつ悠然とした、世界に向けた賛美歌であり、ラブソングなのだ。
 演奏が終わったのを見計らったかのように、オーブンのタイマーがチン!と軽い音を鳴らす。カーラは笑って拍手しながら、オーブンの前へと私を誘った。カーラがキッチンミトンを手にはめて、灼熱のオーブンから鉄板を取り出す。こんがりときつね色に焼かれたオートミールクッキーがそこにあった。皿の上に並べて、軽く冷ましながら私はカーラに聞いた。
「どうだった?」
「もちろん、最高よ。何より、演奏するあなたの目が素敵だった」
「目が?」
「えぇ、とても透き通っていて綺麗だった。この間まで一生懸命ココを押さえていた人と同じとは思えない」
 言われてみると、何だか目が軽く明るい気がする。世界が違って見えたのはそのせいなのか。謎めいているが、なかなかスゴいセラピーかもしれないと、今更ながらに思う。
「さぁ、マエストロ。最初のひとくちをどうぞ」
 カーラが仰々しくクッキーを取り上げて、私の口の前に運んでくる。それを齧ると、ほのかに温かい温度で、バターの香ばしさと砂糖の甘さ、オートミールやレーズンのプチプチした食感を感じた。チェロの四重奏に軽快なシロフォンが重なっているようだった。
「美味いよ」
「ふふ、そうね。さぁ、お茶を淹れましょう。せっかくの休日だから」
 ケトルで湯が沸かされ、マグカップに琥珀色が広がる。ソファに二人並んで、互いの体温を感じながら、何も言わずに過ごした。自分の体に密接したカーラの身体から感じられる体温と鼓動に、ト長調を感じた。何も言わなくても、音楽は常にそこにある。
 久しぶりに、本当の意味での休日を過ごしている。自分が本来の姿へ戻っていっている実感を得て、変わらず音楽を奏で続けるカーラをそっと抱きしめた。このかすかな旋律を、きっと次の発表会でも奏でるために。


お題提供者:しまうま様(溶かしバター、譜面台)、真リオ様(眼精疲労)

ご協力いただき、ありがとうございました。

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