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抜き言葉はなぜダメなのか

ミルクさんが激昂される抜き言葉、「い抜き」や「ら抜き」について、なんでそこまでダメなのか、私なりに考えてみることにしました。「少しくらい良いじゃん!」と思ったこともある私が理解していくことで、他の方に少しでもミルクさんの狙いや意図が透けて見えてくれればよいのですが、大いに役不足かもしれません。でも精一杯トライしてみたいと思います。

ミルクさんは「丁寧に言葉を使うこと」という考えのもと、抜き言葉を使ってはいけないとよくおっしゃられているのですが、実はもう一つ意味というか、理由とするものがあるのではと思っています。多くの人の抜き言葉を使った短歌を読んでみると、ひとつの大きな共通点を見つけることができます。抜き言葉を使ってしまうと、自分と同等かそれよりも下に見た対称の歌しか作れないという制限がかかってしまうことです。
※(ここで私は手を打ちました、ああそうか、これがミルクさんの言う自分に張り付いてしまう原因の一つか、と瞬間的に解ったからです。)
確かに、自分よりも目上の人や目上の立場が対称の歌は見たところ1首もありません。”タメ”か、それ以下のものに対してしか歌が作れていないのです。
そりゃそうですよね、ちょっと考えれば解ります。目上の人の行動に抜き言葉を使ってしまったら、ぶっきらぼうやジェネレーションギャップを通り越して実社会では問題が起きかねません。かといって詠もうと思っても音数が合わないので詠めないのでしょう。
お気軽お手軽を求めて行き着いた先に、自分に纏わり付いた事象しか詠めない人が大量発生して、抜き言葉を多用するようになってしまったのだと思います。
今はプロの歌人も含めて本当に多くの人が多用していて、時には選者に選ばれたりしていることもあります。試しに私もNHK短歌や角川短歌などの雑誌に蛍光ペンで印を付けてみましたが、結構な数の歌が選ばれて掲載されていました。

驚きです。

ミルクさんは、抜き言葉を「舌っ足らずの叙情」だとでも感じているのか、これを許容しているうちは短歌や歌壇に未来はないとはっきりおっしゃっています。
音数の呪縛など言葉の豊かさで簡単に押しつぶせると言われて、破調になっても丁寧な言葉を使えと説かれています。

丁度ブログでミルクさんが評されたことでもありますし、
笹井宏之さんの「ひとさらい」書肆侃侃房 の中の歌を例に考えてみました。

三階でとてもいいひとになってる主婦のかたちをしたホ乳類
どんなひともひかりのはやさたもってる みえたしゅんかんにみえてしまう

なってる、たもってるというい抜きの言葉なのですが、三階での歌はそのままに「なっている」でも良いと思いました。逆になんでなってるなのかが不思議なくらいです。
そして下段のどんなひとも・・・の歌ですが、これはこのままの方が良いような気もします。「たもっている」にすると上下の区切りがもたついて、リズムも失われて、作者の狙いもズレてくるような気がするのです。大いに間違った解釈をしているかもしれませんが・・。直さなくても使っても良い例なのでしょうか。よく解りません。
もし抜き言葉を使わないとすれば、どのような解決策が考えられるのか、また少しビビりながらではありますが、ミルクさんに尋ねてみました。

ミルクさん曰く、抜き言葉を使うと上から目線のような感じになることが気に入らないということでした。
「いいひとになってる主婦」「どんなひとも」に対して、オマエは一体何様なのだと問いたいと言うのです。そういう心根があるから、抜き言葉を安易に使ってしまうのだということと、総じて他者に対しての「愛」が感じられないともおっしゃいました。
それは裏返せば「自分しか愛していない」ことの現れだということなのです。

ちなみに、どんなひともひかりの・・・・の初見の感想は、「知るか!」だったそうです。

日常の中で不思議だなと感じた事でも、それを自分だけの不思議とするのか、しないのかで歌の作り方が大きく変わってくるということでした。「たもってる」「みえたしゅんかんにみえてしまう」と言ってしまうと、まるで監視カメラのつぶやきだと言うのです。
五百歩譲って監視カメラの気持ちで詠んだのだとしたら、やはり人の温度が足りていないように感じるのだと。ふふーん、難しい。なんだかまた禅問答のようになってきて、「もうちょっと解りやすくするとすれば?」と問いかけてみるとミルクさんなりの歌を作って下さいました。

・どの人も光を保ちたちまちに見た瞬間に見えるカラクリ

おおーっ。監視カメラじゃなくなった。上から目線じゃなくなった。はやさがたちまちに変わって、たもちたちまちってリズムが出来ているし、カラクリと言われると人間の体や光の神秘性が強調されるような気がしてきて、何だかゾワゾワしてきます。
と同時に、笹井さんが言いたかったことがより理解し易くなったような気がします。
不思議です。ミルクさんが作った歌はどれも「自分の何か」「全体の何か」とか「共通の何か」に変換されています。それは普通、言葉の影響が薄まっていく方向だと思いますが、なぜか薄まらずに印象深いまま有り続けています。
どうやら、抜き言葉を使わないということは事象を「自分の何か」から遠ざける目的も兼ねているようです。丁寧に言葉を使うことの裏側に、ミルクさんならではの隠しテーマが潜んでいたのです。深いです。歌に対する何もかもが深いのです。

良いとか悪いとか、そのような表面的なことではなくて、歌の根底に人の温もりや愛情のようなものが潜んでいて欲しいというささやかな願いが込められているような気がして、やはりそういう方法へ向かって歌作りをしなければならないということを思い知るのでした。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/