見出し画像

集団と聖性について考えてみた

「集団をつくるには聖性が必要なのか?」というテーマについて、自分なりに考えてみます。まずは聖性ってなに?というところから、おさらい。

聖性ってなんだっけ

●「聖性」とは、「近寄りがたいけれど、惹きつけられる」感じのことだよ

(たとえば、険しい山奥で神々しさを感じるとか、ロックスターのカリスマ性とか、推しが尊いとか)

●聖性は集団をまとめるのにひと役買うよ

●聖性は、それを直接感じたことがない人にも伝わるように工夫されて、広がっていくよ

3つの工夫
・言葉や映像で伝えられたり(メディア)
・集まってイベントをしよう!となったり(儀礼)
・聖性を保つ仕組みがつくられたり(制度)

つまり、聖性は「人をそこに集めて、引き止めておく」のに使える。惹きつけながら、近寄りがたくするものなので。

聖性は、みんなの心の中にあるよ。外側あるリアルな何かを指すものではないんだ(それが媒介になることはあるけれど)。人間が感じるものであり、だからフィクション(虚構)だよ。


なんで集まって働いてるの?

『近代の労働観』という本を読みました。

キリスト教の?プロテスタント?が盛り上がってきた頃、街のあぶれ者たちを、「施設に入れて労働させたらええやんけ」となったのが、近代の労働の始まりっぽいです。

そのときに「労働は尊い。徳を積めるぞ!」というフィクションが語られました。宗教の聖性からダシをひいて、労働の聖性が煮込まれたのです。つまり、労働の尊さは人工的な聖性としてつくられた。というのが、この本が言っていること(だったと思います。ずいぶん前に読んだから、違ったらごめんね)

そこから、「働くことはえらい」「勤勉、努力、えらい」ということをみんなが言い出し(メディア)、時間を決めて勤務することになり(儀礼)、そういう社会のしくみになった(制度)。

なお、「労働の喜び」っていうのは、けっきょく「みんなでワイワイやること」なのであって、その「みんな」が「嫌な奴ら」だと、しんどいだけだよねー、みたいなことが書かれてました。たぶん。

さいきんでは「その会議、やる意味あるんすか?」「別にどこでも働けるくね?」「そもそも数字増やすだけのゲームじゃん、まだ働いて消耗してるの?」と言い出す人たちが現れ、労働の虚構性が暴かれてしまいました。

たまたま労働を例に挙げましたが、労働以外にもいえることかもしれません。フィクションが成立しにくくなる時代。人々は、バラバラになるのでしょうか。

直接的な聖性の体験がなければ、それを「聞いたこと」(メディア)や「やらされたこと」(儀礼)や「そう決まっていること」(制度)として受け取ることになるため、どんどん形骸化していきそうに思えます。


集まっては散らばる、人類の呼吸

人工的な聖性で人を集めて社会をつくることは可能で、けれど時間とともにいつか褪せてしまうもので、それを褪せないようになるべく生かし続けるのが国とか制度なんだろうなと思います。いつかは滅びるけど。きっとそうやって、それを繰り返して歴史は紡がれてきたんだろうな。

現代は、「近代という人工聖性」が色褪せてきた時期なのでしょう。すでに、一人ひとりが自分にとってのマイ・リトル・聖性を持ち始めるようになったんじゃないかなと思います。「推し」という言葉が目立ってきたように、そこまで有名でもない、ちょっと有名なカリスマを、ささやかに推しながら生きていく人たち。そして、同じものを推す小さな界隈に集まって、ワイワイする人たち。

集まっていたものが散らばっていき、そしてまた、どこかでなんらかの形で集まるのではないでしょうか。吸ったら吐いて、吐いたら吸う。

時代や歴史を、人類の聖性の呼吸だと捉えるとおもしろいなと思いました。


人は何に群がるのか?

さて、いいかげんそろそろタイトルの話をします。聖性じゃなくても、何かしらの「惹きつけるもの」があれば、いちおう人は集まるんじゃないかなと私は思います。

要は人類は「群れてワイワイしたい」「我を忘れて没入したい」という欲求を満たしたくて、そういうホルモン?が分泌されることなら、集まるんじゃないかなと思います。それこそ、お酒でもいい。おしゃべりでもいい。快楽とかでいい。

もしくは、とくにそういった欲求は満たされないれけど、家に住めるとか、安全だとか、そういう利害にも人は集まるかもしれません。

けれど、聖性はとくに引力が強いんだと思います。快楽に集まると「楽しい〜」だけで終わってしまいそうだし、利害に集まると「制度」があるだけで淡々とした集まりになってしまいます。

「歴史以前」を見てみると、いろんな原始人類がいました。ホモ・サピエンスよりイカツイ奴ら、賢い奴らもいたそうです。けれど、虚構を扱うことができて大勢で群れることができるホモサピが生き残ったのです。「聖性に群がれる奴ら」がつくる集団こそが強かったのだ、といえそうです。(このへんは『サピエンス全史』を読むとおもしろいです)

聖性は吸引力がつよいのでしょう。近寄りがたいのに、惹きつけるから。甘いだけでも、辛いだけでもない、塩甘スイーツみたいなものかな。ちょっとずるいですね。聖性はチート。

快楽や利害、人を引きつける力はいくつかあるけど、その引力が最も強いのが「聖性」なのでは?と考えました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?