暇人として気高く生きることもできるかもしれないのです。
先日、「私は暇人になりたい」と書いた。
この自分なりの発見によって、ここ数年間の暗闇を歩く身の入らない生活に対して一筋の光が見えたのは間違いないのだが、それで完全に納得できていないところもある。それは、たとえそういう私であったとしても、果たすべき何らかの社会的責任がある気もしているからだ。
もちろん、私がここで主張した「暇人」という概念が、社会的責任を果たすことと矛盾するわけではない。私の「暇人」の定義は、その論理的出発点を「他者貢献」に置いている点に特徴がある(と思っている)。つまり、ただ単にダラダラと暇をしながら生きるという意味ではなく、誰かのため、社会のために自分の持つ(これから得る)さまざまな力を使うという前提の中で、自分自身の生活を合理化して暇をつくり出す、という意味である。
この世界には、誰かがやらなければならないが、積極的に手を挙げる人間が少ない仕事が数多くある。そうした「必要だが、誰もやりたがらない仕事」を担う人間にとっての1つの拠り所となるのが、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」の精神だ。これは、権力や財力、また何らかの社会的地位にある者は、その立場をわきまえて社会的責任を果たすべきであるという思想に基づいている。この思想については、私も強く共鳴するところがある。
しかしながら、心の奥底では、それに縛られることなく、もっと自由な感覚で生きることに対する憧れも同時に湧いてくる。つまり、「やりたいから勝手にやる」という自発的な行動だけで構成される人生を生きることだ。誰かの期待や社会的責任から離れ、ただ自分が楽しめることに集中する人生もまた、理想的な生き方の1つではないかと思う。
私はこの「暇人」という概念と、「ノブレス・オブリージュ」を軸とした生き方の2つの間で揺れる中で、これらをなんとかうまく統合することはできないだろうか、と考えた。一時は、それぞれを人生のフェーズの中でうまく分けて、ある期間は「ノブレス・オブリージュ」的に、ある期間は「暇人」的に生きていくのはどうか、と考えたが、それもイマイチしっくりこなかった。
結果的に私が辿り着いた方法としては、「社会的責任を果たす行為を、見返りを求めることなく、自分がやりたいからという理由だけで勝手にやり続けることを人生の暇つぶしにすること」だ。
もしこれが可能ならば、「暇人として気高く生きる」という境地に至ることができる。他者のために生きることを義務とせず、むしろ心の充足を求める行動として続けることができたら、自分の生き方に対する納得感を持ちながら生きていけるのかもしれない。