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親に愛されなかった大学生が考える、愛とは何か

愛とはなんだろうか。親に暴力や暴言や無視などをされ続けてきた私は、親に愛されるという経験を持たない。そんな私が愛とは何なのか考える。  まず辞書的な定義を確認しようということで、広辞苑では、愛とは以下のように述べられていた。

「親兄弟のいつくしみ合う心、広く人間や生物への思いやり、男女間の愛情、かわいがること、大切にすること」

広辞苑

しかし、愛という抽象的な概念を説明する上で、このような抽象的な説明では根本的な理解にはならなかった。そこで、偉人や有名人が残した愛の考え方を元に自分なりに考察してみることにする。

「くまのプーさん」の作者である、A・Aミルンは以下のように述べている。

「きみが100歳まで生きるなら、僕は君がなくなる前日まで生きたいな。そうすれば君なしで生きなくて済むんだから」

たしかに、このぐらいの覚悟が無ければ愛とは呼べないのかもしれない。それ無しでは生きていけないというほどに人のことを想うことなのか。依存とも境界線がわからないため、その線引きが難しいが、虐待のように子供の気持ちを想いやることの無い行為は愛とは呼べないのだろう。

美輪明宏さんの言葉にも触れる。

「恋とは自分本位なもの、愛とは相手本位なもの。」

ここにも読み取れるように相手本位なものこそが愛と呼べるのだろうか。ここでは恋についても述べられているが、恋と愛との違いも抽象的なものであり境界線が難しいところである。

「星の王子さま」の筆者であるサン=テグジュペリは、以下のように述べている。

「愛はお互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである」

たしかに、一方的なものではなく共に同じ方向を見つめることが愛だと言えるのだろう。その場合は感情を持つものが2つ以上存在することが条件となり、例えば感情の持たない物に対する愛情は愛とは呼べないのか、という疑問も生じる。

考えれば考えるほどに愛とは何か、どうやって成り立つのか、他の言葉との違いは何か、わからなくなる。一方で、考察してわかったこともある。

それは愛とは、抽象的でわからなくてはっきりと定義できなくて、手に取ることができなくて、だからこそ見つけていく過程こそが愛の目的であり本質なのではないかということだ。

全ての人がこれだと納得するような定義が成されていないのは、愛の解が一般化されないものであるからと考える。愛の形も様々であるが、自身が親にされたことは決して愛情の裏返しなどではないと感じた。

「花が好きだという時、あなたはそれを引き抜くだけでしょう。しかしあなたが花を愛していれば、毎日世話をし毎日水をやるでしょう」

という言葉がある。自分本位ではなく、相手のことを想いやり、一時的なものでなく永遠に続かせたいと思うものこそが愛であるのなら、虐待は真反対の行動であると感じる。子供が子供らしく生きられる優しい世界を作ることこそが未来のためにできることなのだと思う。


最後まで読んでくださりありがとうございました。


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