【内田樹ロングインタビュー】内田先生に「内田樹」についてお聞きする
──私は、内田先生の研究者ではなく、伝道者になりたいです。
内田 そのポジションがいいですよ。
──ですから今後は駆け出しの未熟者として、内田先生からのお叱りを覚悟の上で論じ、またファンとして内田樹を伝道したいと思います。
内田 研究者と伝道者は別物です。一知半解でも伝道者にはなれます。その人の書いたものを一行だけ読んで、「この人はこういうことを言いたいに違いない」と思ったら、自分が思ったことを伝道して構わない。知識量は関係ないんです。ぜひ伝道して下さい。
──ありがとうございます。
内田 総索引がすごいですね。総索引、お一人でやるんじゃなくて、せっかくですからいろんな人たちと共同作業で、ウィキペディアみたいにやってくというのが手間がかからないような気がしますけどね。
──私も同じことを考えてはいるのですが、今のところ同志が集まらないです。
内田 やってくれそうなのは朴東燮先生ぐらいですかね。
──そうですね。総索引の想定読者は、大学時代の恩師、内田先生、朴東燮先生の三人です。ただ続けていくうちに、少しでも読者が増えればとてもうれしいです。
内田 誰もそんなこと思いつく人いなかったから、そういう企画があると知ったら「協力します」という人が出てくるかもしれないですね。
──早速ですが、本題に入らせていただきます。内田先生は「内田樹をまったく知らない人」に対して、ご自身のことをどのように説明されますか。わかりにくい質問ですみません。例え話をします。100年後の未来に移動したと仮定してください。内田先生の目の前には、一人の中高生と思しき未来人がいます。未来人は、内田先生の言葉を理解しているようです。中学卒業程度の学力があることも分かりました。しかし内田先生は、未来人に素性を明かすことができません。素性を知られると、内田先生の存在自体が消滅してしまうからです。元の世界に戻るためには、この未来人に「内田樹」の書物を読んでもらうしかない。内田先生はどのようにして、この未来人に「内田樹」のことを説明されますか。
内田 難しいな。言論活動を開始したのが2001年ぐらいからで、20年間ちょっとの活動ですから、それ以前のことについてはあまり話すべきことがないのです。日本の思想史とか言論史とかの中に小さい項目として僕の名前が残るとしたら、たぶん数行で終わってしまうと思います。なんだろう。21世紀の始めぐらいに登場してきた物書きで、専門は20世紀フランスの哲学と文学。でも、それだけをやっているのではなくて、そこで得た知見をできるだけ分かり易く一般の方たちに説明するということを非常に優先的にやってきた。説明の人、説明家。そんな感じかな。
僕が専門的に語れるのは、今申し上げたように、20世紀のフランスの哲学と文学。それから武道、これは合気道にほぼ限定されるのですけれども。それから長く教鞭を執ってきたので教育に関しては、経験を踏まえて語ることができます。あとはみんなと同じですね。一市民として、家庭人として、子どもとして、夫として、親として、そういう個人的な経験に関しては、「個人的な」という限定をつけてなら語ることができます。
それだけですね。「説明する人」です。なんかあんまり面白くなさそうですけど、説明が上手だということは自分でも分かるんです。20世紀フランスの現代思想というのはすごく分かりにくいんです。もちろん非常に高いレベルのことをやっているからこそ分かりにくいんですけれども、言葉が難しい。ふつうの日本人の高校生だと、例外的に高い知的向上心があっても、「取り付く島」がないんです。あまりに言葉づかいが難しく、ロジックがねじくれているから。僕の仕事は、その人と高校生の間を架橋することですね。「すごく難しいように思えるかも知れないけれど、これは噛み砕いていうと、こういうことですよ」と。「噛み砕き屋」ですね。
でも、「噛み砕いて言う」というのは「話を簡単にする」ということとは違うんです。「ああ、そんなことなのか」と簡単に分かってもらっては困るんです。話を簡単にして、高校生に「分かった気」にさせることが目的なんじゃない。たしかになんとか高校生にも分かるような言葉に落とし込んでいくのだけれども、それはそこで「分かった」と言って、話を終わらせるためじゃなくて、逆なんです。それをきっかけにして彼らのうちなる「学び」が起動して、「もっと知りたい」という気持ちになって欲しくて、だから架橋するんです。高校生が生まれてから初めて接するような知的活動に「こんなの見たことないから」と背を向けて欲しくなくて、「これ、君にも関係がある話なんだよ」と袖を引いて、そうやって架橋するんです。どれほど難しい語彙でも、ねじくれたロジックであっても、それを受け止め理解できるような「学ぶ主体」に自己形成してゆくことは可能だ、と。それに気づいて欲しいんです。教師根性が抜けないんですね。とにかく一生懸命説明していって、食いついてきたら引っ張ってゆく。彼らの知的な向上心を刺激して、ものの見方を広げて、一人一人の知性的な、感情的な成熟を支援する。根っからの教育者なんですね。道場では門人を教え、学校では学生を教え、本を書く活動を通じては不特定多数の人たちに対してはそのつど何かを教えている。だから、「噛み砕いて説明する人」で「架橋する人」で「教育者」なんです。
──内田先生を説明することの難しさを感じています。例えば、「内田樹のことを見たことも聞いたこともない人」に対して、限られた時間の中でどのように説明すればいいでしょうか。
内田 難しいと思いますよ(笑)。僕だって「レヴィナスってどんな人ですか。5分で説明してください」と言われたら無理です。レヴィナスについても、多田先生についても、あるいはアルベール・カミュとか村上春樹とかもそうですけども、自分がその人の熱烈なファンであって、その伝道をやっている人たちについては、うまく説明できないんです。定型的な言葉に落とし込むことができないから。うまく説明できないということ自体が、自分がその人たちの弟子であったり、伝道者であったりすることの理由なわけですから。だから、うまく言えないということについては、別に困らない。断片的なことしか言えませんけれど。「こんなことを言った人で、こんなことをした人で…、でも、こんな説明じゃ分かりませんよね。すみません」くらいしか言えない。でも、それでいいと思うんです。
偉大な師のことを5分では説明できないですよね。僕の手持ちの「ものさし」ではその偉大さを測りきれないぐらい偉大な人だからこそ、僕はその人を「師」と仰いでいるわけですからね。
前にイタリア人の合気道家と稽古の後にお酒を飲んでいたら、いきなり「内田さんはどうしてレヴィナスを研究するようになったのですか。日本人なのに」と聞かれて、返答に窮したことがありました。日本ではあまりストレートにそういうことを訊く人っていないんです。フランス文学関係者だったら、「レヴィナス研究してます」と言ったら「レヴィナスですか。そうですか。難しいですよね」くらいで話が終わる。それはレヴィナスの哲学史的な位置づけがだいたい定まっているからです。専門家同士だと「どうしてあなたはレヴィナスを研究するのか?」というような個人的な質問が出ることはないんです。
ふだん訊かれたことがなかったから、イタリア人にいきなり「日本人で、非ユダヤ教徒であるあなたが、なぜレヴィナスの研究を始めたのか」と訊かれたら絶句してしまった。ほんとうに説明できなかったんです。「60年代の日本の高校生はフランス文化にあこがれていたんです」というようなことを言いかけたんですけれど、ここからレヴィナスにつなげるのは大変だな・・・と思ったら先が続かなかった。そのときはフランス語で訊かれたから、うまく言葉が出ないのかなと思いましたけれど、日本語で聞かれても同じだろうとあとから思いました。
でも、これは答えられなくていいと思うんですよね。「うまく説明できないけれど、とにかくこの人を師と仰いで、一生ついてゆこうと思った」んですから。それは多田先生も同じなんです。そのイタリア人の合気道家に「どうして多田先生の道場に入門したんですか?」と訊かれてもたぶん答えられなかった。「ビールを飲みに街に出て、歩いていたら、自由が丘駅の南口に柔道場があって・・・」というところから始めても、たぶん「なぜ多田先生なのか」については何も伝えられなかったと思います。
──内田先生は、橋本治を説明の天才として挙げられています。また、橋本治に気づかされたことの一つとして、「個性は説明において発現する」という卓見を述べられていました。内田先生は、橋本治という説明家を説明するという困難な事業に取り組まれています。私もまた、内田樹という説明家を説明したいです。けれどもそれは、非常に難しい。
内田 おっしゃる通り、僕は説明が難しい人だと思いますが、率直に言って、それは僕が「中身のない人」だからなんですよ。僕は「器」みたいな人間なんです。「入れ物」なんです。あるいは「伝導管」とか。中を物が流れてゆく「パイプ」のような人間なんです。レヴィナスという偉大な哲学者がいる。その人がこういう素晴らしい考えを語っているということを自分のパイプを通して流してゆく。多田先生という方がいて、こういう武道の理想を実現されようとしている。僕は先生の境地には遠く及ばないけれども、先生の教えから自分の「器」で汲み取ったものだけを伝えてゆく。僕は「通り道」なんですよ。「述べて作らず」ということを僕よく書きますけれど、そうなんですよ。
だから、僕のことを説明するのが難しいのは当然なんです。だって、「内田オリジナルのアイデア」というようなものはないんですから。ただの「通り道」なんです。僕の書いているのは全部「受け売り」なんです。僕はね、巨大な知者の言葉を噛み砕いて、「みなさん、どうぞこれお使い下さい」と無料で配布している(笑)。そういう伝道者なんです。筒っぽみたいな人なんですよ。
筒にとって一番たいせつなのは、師の巨大な叡智を自分のサイズに切り縮めないことです。でも、筒の径はたかが知れている。だから、いくらがんばってフルスケールの通り道になろうとしても、どこかで師の教えを切り刻んだり、縮減したりすることは避けられない。だから、僕は「論」を語らないことにしているんです。「論」になると、それは僕のオリジナルな考えだということになりますよね。そうじゃないと研究業績になりませんから。「祖述」なんか、どれほど書いても学術論文としては認められない。でも、僕は「祖述者」でありたいわけであって、「研究者」になりたいわけじゃないんです。
レヴィナスに関して、これまで本を三冊書いてますけれど、あれは「レヴィナス論」じゃないんです。レヴィナス先生というのがどんな人で、何を教えようとしていたのかを「説明する」ために書いているわけであって、僕のレヴィナス理解を「主張」しているわけじゃないんです。だから、レヴィナスの翻訳とあまり変わらないんです。翻訳というのも、かなりの部分までは翻訳者の解釈です。訳者が「意味がわかったところ」は訳せるけれど、「意味がわからないところ」は訳せない。だから、翻訳も縮減なんです。訳者の器の大きさによって訳文は変わるんですから。僕の「レヴィナス論」もその意味では翻訳のようなものです。レヴィナス先生はこう言われている。たぶん、そうだと思う。よう知らんけど。そういうものです。だから、僕がレヴィナスについて書いたものには学問的なオリジナリティーはないんです。他のレヴィナス研究者の人たちにインタビューしても、たぶんそう言うと思います。「内田さんの翻訳は先駆的な仕事でしたけれど、レヴィナスについての独自な学説というものは別にないんじゃないですか。ただ『レヴィナスはすごいすごい』と言いふらしているだけの人で」と。
レヴィナス研究者は世界中には何千人もいると思いますが、その人たちのほとんどは僕の書いたものを読んでいません。だって日本語で書いてるんですからね。韓国語には訳されましたが、英語にもフランス語にも訳されていない。だから、世界のレヴィナス研究者のほとんどは僕の書いたものは読んでいないし、僕の名前も知らないと思います。
日本のレヴィナシアンにも僕の翻訳やレヴィナス本を読んでレヴィナスに興味を持つようになったという人はいても、僕のレヴィナス「論」に学的興味を抱いたという人はいないと思いますよ。「あの人のは初心者向けの入門書でしょ」という評価じゃないでしょうか。
──学術研究としては評価されないけれど、作家やその作品を論じる上で有効なアプローチもあると思います。例えば、内田先生の「研究者ではなく、ファンとして」村上春樹を論じるというアプローチが、村上文学を解釈する上で有効だったのは何故でしょうか。
内田 僕の村上春樹論は海外では台湾でだけ評価されたんです。台北の淡江大学というところに世界で唯一の「村上春樹研究センター」があって、そこから招聘されて一度村上春樹論を講演したことがありましたから。それ以外の評価というのはないですね。
でも、村上ファンの読者は多いです。それは「学術論文ではない」からですよね。『村上春樹にご用心』は「ファン」という立場から書いています。それは「どう読んだらもっと面白くなるか」という関心だけから書くということですよね。ここにはこういう仕掛けがあるから面白いでしょ、こういう読み筋もあるから面白いでしょ、とか。作品からどれだけ多くの愉悦を汲み出すかということだけが目的ですから。
作品や作家を論じたせいで作品の読み方を限定してしまったり、その作品に対する興味を殺ぐというようなものなら、ファンとしてはそんな論考は「ない方がまし」なんです。ファンは批評家が「片を付ける」ことを望んでいるわけじゃありません。そうじゃなくて、作品を解きほぐして行って、こうも読める、こうも読める…と多様な読み筋を示して欲しいんです。僕はできるだけ多くの人に、できるだけ多くの愉悦を経験してもらうために書いています。読書案内係みたいなもんですから。学術論文ではないんです。
学術的な厳密性というのは、相手が文学の場合だと、どうしても対象を切り縮めることになるんです。この作家のこの文学作品は、こういう文学史的な系譜の中に位置づけられ、このようなイデオロギーや偏見に領されていて、こういう個人的な体験の裏づけがあって…、だから、このように書かざるを得なかったのだというような読みの可能性を縮減してゆくような論文を僕は書きたくないんです。
でも、文学研究で学術論文を書くという場合には、作品から愉悦を引き出すというようなことは求められていない。ひたすら作品を面白がっているような書き物だと、指導教官から「こんなの研究じゃない」と言われちゃいますからね。でも、僕は「こんなの研究じゃない」と言われるようなものを書きたかったわけです。だから、学術的な研究業績として評価されることをはじめから放棄した。学術的であることを放棄する代償として、面白がる権利を手に入れた。面白がる特権を手に入れた。特権を行使しているわけですから、学術的評価と両方求めるのは虫が良すぎますよね。どちらかを諦めないと、欲しいものは手に入れられない。
──内田先生は研究者として出立されて、ある時期から伝道者を名乗られるようになりました。研究者から伝道者へと至る転換点、あるいは契機があったのでしょうか。
内田 やっぱり合気道の師弟関係の中に身を置いていたことが決定的だったと思います。師弟関係の中の弟子というポジションに身を置いているとわかるんですけれど、弟子というのは、とにかく師匠の教えを日々解釈して、「先生はきっとこういうことを言おうとしてるんだな」と言って稽古して、次の日は「ああ、オレはなんと浅薄な解釈をしていたのだろう」とまた違う解釈をして、違う解釈に基づいて稽古をする。それを毎日繰り返すわけですね。前の日までの術理の解釈を次の日には惜しげもなく棄てるということができないと修行にならない。ですから、修行の過程で口にしたことは、どう考えても論文というかたちにはならないんです。すぐに廃棄されることがわかっているわけですから。
僕は多田先生に就いて合気道を学び、その師弟関係の中にずっといたので、後年エマニュエル・レヴィナスという哲学者を学術的な研究対象として選んだ時も、すぐに「これは論文にはならない」と思ったんです。スケールが大き過ぎて、僕の手には負えないから(笑)。
でも、スケールが大き過ぎて僕の手には負えないものでも、それにしがみついて、そこから滋養を得る方法はあります。弟子になることです。弟子になれば、師の教えについて「師はこう教えらえている」と言った翌日に「あれはなしです」と前言撤回することが許される。許されるどころか奨励される。弟子になれば、レヴィナシアンとして連続的に自己刷新してゆくことが許される。読む度に解釈を変えることができる。だったら、それでいいじゃないか、と。弟子として師に仕えると、日々より豊かな、より深い叡智を汲み出すことができる。だったら、別に学術的な論文の定型に落とし込むことなんかする必要ないじゃないか。だって、僕はレヴィナス論を書くためにではなく、生きる知恵を学ぶためにレヴィナス先生の本を読んでいるんですから。僕はレヴィナスを「修行」しているわけで、レヴィナスを「研究」しているわけじゃない。そういう考え方ができたのは、レヴィナスに出会う前に十数年多田先生に就いて武道的な師弟関係を経験していたからですね。師弟関係とはどういうものか分かってきていたから、それをレヴィナスにも当てはめて、レヴィナスの弟子になろうと決めた。
それに考えてみたら、レヴィナスも人の弟子なんですよね。モルデカイ・シュシャーニというタルムード学者がレヴィナスの師でした。この人からは戦後何年間か、自宅に逗留してもらって集中的にタルムード解釈学の骨法を授けられた。その前はハイデガーの「自称弟子」でしたけれど、ハイデガーのナチ入党で、師匠に裏切られるという形で縁が切れた。ハイデガーを失った後にはフランツ・ローゼンツヴァイクの弟子になった。ローゼンツヴァイクはすでに亡くなっていましたから、これは書物を通じての師弟関係ですけれども、ローゼンツヴァイクの「死後の弟子」になった。
レヴィナスはシュシャーニとローゼンツヴァイクという二人の師に仕えるという仕方で自分の哲学を構築していったと僕は理解しています。弟子というポジションから構築されたものだからレヴィナス哲学はダイナミックなものになったと思うんです。定型化することができないし、いくつかの基本的命題に縮減することもできない。つかんだと思ったら、指の隙間から逃れ出てしまうような生成的なものなんです。そういう哲学とどう向き合ったらいいのか。それなら、レヴィナス先生がその師について学んだように、僕はレヴィナス先生の弟子になって、レヴィナス先生から学び続けよう、と。そう腹を決めたんです。
ですから、読む度にレヴィナスの言葉についての解釈が変わる。でも、それでいいんです。弟子なんですから。弟子は日々成長していくものなんですから、「あなたが十年前に書いた論文と今言ってることはずいぶん違うじゃないですか」と言われても、「そうだよ」と答えるしかない。そんなの当たり前なんです。それは弟子としては「よいこと」なんですから。
僕はレヴィナスの本を何冊も翻訳しましたけれど、翻訳する過程で、レヴィナスの思想を自分の手持ちの語彙の中に落とし込むことは絶対に無理だということは骨身にしみてわかりました。逆に、レヴィナス固有の言葉を受け止められるまでに自分の手持ちの語彙そのものを増やしてゆくしかない。自分の使っている論理形式そのものをレヴィナスのロジックを受け入れられるようなものに作り変えてゆくしかない。「レヴィナスの読み方をレヴィナスから教わった」ということを僕はよく書いてますけど、ほんとうにそうなんです。「レヴィナスの読み方をレヴィナスから教わった人間」を「レヴィナス研究家」と呼ぶことは出来ません。第三者ではないわけですから。これは「レヴィナスの弟子」としか呼びようがない。僕が書いているものは、弟子が師匠の哲学を伝道しているのであって、学術研究ではありません。だから学術的業績として評価されることは端から断念しています。
『レヴィナスの時間論』を出した後、書評が二つ出ましたけれど、やはり学術論文としては不出来だという評点を頂きました。特に最新のレヴィナス研究の成果にまったく目を通していないことが手厳しく批判されていました。最新研究にキャッチアップしていないだろうと責められても、はい、読んでません(笑)。だって、面白くないから。
もちろん面白かったのはあるんです。僕が知る限りでは、アラン・フィンケルクロートの『愛の知恵』とウアクナンのものですね。あと、サロモン・マルカの『評伝レヴィナス』と『レヴィナスを読む』も面白かった。フィンケルクロートとマルカは和訳がありますけれど、ウアクナンは、この人はラビなんですけれど、和訳がありません。三人の共通点は、全員が「レヴィナスの弟子」という立場から書いてる点ですね。いかに師が偉大であるか讃えている。だからどれも学術研究ではない。でも、僕はこの人たちの書いたものを読んでレヴィナスに対する理解が深まった。弟子として間近にいて薫陶を受けた人たちが書いたものはレヴィナスを理解する上で、ほとんどの学術論文より得るところが多い。それでいいじゃないですか。
──内田先生が仰るように、弟子として師匠を称える、あるいはファンとして作家やその作品を面白がるというのは、学術研究としては評価されにくいかもしれません。一方で、『勇気論』の中で「『勇気論』ですから、一種の学術論文なんです」とも述べられています。内田先生の目的は集団の叡智を賦活することであって、そのためにはどのようなアプローチをしても構わないと、お考えですか。
内田 ええ、そうです。僕にとって大事なのは日本です。僕は日本人ですから、とりあえずは1億2500万人の日本人読者が対象です。この人たちの集団の知性を活性化させること、それが僕の目的です。集団として知的なパフォーマンスが上がっていくこと。1億2500万人全員が知性的、感性的に成熟してゆくこと。だから、どういうアプローチだろうと構わない。学術研究を通じて活性化することもあるし、それと違うかたちでも集団的知性を活性化する術があるなら、それを採用することをためらう理由はありません。
──エマニュエル・レヴィナスについてもお伺いさせてください。レヴィナスと直に接せられた日本人は極めて少ないと思います。
内田 年齢的にはそうですね。先生は1995年の暮れに亡くなったので、もう29年になります。亡くなった時点ですでにレヴィナスを読んだり、訳したりしていた人は今はもう70歳以上です。それより若い人だと、ご存命の間にフランスまで行って会って話したという人はほとんどいないと思います。僕の知る限り、レヴィナスと会って、差し向かいで話をしたことがあるというのは合田正人君と西谷修さんくらいです。
──内田先生が弟子として、直に接したエマニュエル・レヴィナスはどのような人物だったのでしょうか。
内田 めっちゃいい人でした(笑)。すごく親切な、本当にホスピタリティあふれる人でした。「歓待の哲学」を説いている方がもしかしてすごく冷たい感じの人だったらどうしようと思っていたんです(笑)。お会いしたのは1987年の夏です。レヴィナスの本はそれまで何冊か訳していて、お送りしてはいたんです。そして、この人に哲学上の師匠としようと一応心に決めてはいたんですけれども、最後の踏ん切りがつかなかった。というのは、書いていることはずいぶん深遠なんだけれど、会ってみたら人物はけっこう底が浅かった…ということがあるからです。
多田先生の場合は、最初に生身の多田先生に出会って、以後謦咳に接し、その薫陶を受けてきたわけですから、「この人に一生ついてゆこう」という決断に問題ないわけですけれど、レヴィナス先生の場合は、書物的な知識しかない。そして、テクストは書き手とは別ものであって、人間はろくでもなかったけれど、書いたものは素晴らしいということはあり得るわけです。それは少しも書物の価値を損なうものではない。でも、こちらは書物ではなくて、ご本人に用事があるわけです。師匠はやはり偉大な人でなければ困る。一生師事してもいい人なのかどうかは、やっぱり会って見ないと分からない。だから、会いに行ったわけです。
玄関で呼び鈴を押したら、ドアが開いて、そこにレヴィナス先生がいらして、両手を広げてお迎えしてくださった。その瞬間、「この人は本物だ」と思いました。ああ、本に書いている通りの方だと思った。ほっとしましたね。だからレヴィナスと会えていちばんうれしかったのは、「ほっとした」ということですよね。この人についていっていいんだ。この人を信じていいんだと安心できた。うれしかったですね。
──私事にはなりますが、二年ほど前に、内田先生宛に「先生の著作の総索引を作成しているのですが、その記事を公開させていただいてもよろしいでしょうか」という旨のメールをお送りしています。すぐに内田先生から「大歓迎です。どうぞ公開してください」というご返信をいただいた。その瞬間に、この人についていこうと思いました。ですから、自称弟子を名乗らしていただけると幸いです。
内田 「自称弟子」大歓迎です。師弟関係というのは開放的なものですからね。誰でも弟子になれるんです。これこれこういう条件をクリアしないと弟子にしないということは師弟関係にはないんです。「なりたい」と言えば、それで弟子になれる(笑)。
弟子になる条件がないように、師であるための条件というのも別にないんです。弟子が「この人はすごい。この人についていこう」と思えばそれでオッケーなんです。師弟関係というのは「結果的に弟子が成長する」なら、どういうものでも構わないんです。
──私は、師のもとで学ぶことに恐怖と嫌悪を抱いていました。しかし内田先生が、どこの馬の骨とも知れぬ私に親切にしてくださったおかげで、再び学ぶことができるようになりました。学ぶことを再起動してくださり、本当にありがとうございます。
内田 うれしいな。それは良かったです。知的な探究心が活性化するというのはまことに良いことですから、親切にした甲斐がありました(笑)。
──内田先生は、本当に誰に対してもオープンマインデッドに接せられます。それは内田先生ご自身も、多田先生やレヴィナス先生にそのように接せられたからでしょうか。
内田 そうですね。そのせいだと思います。多田先生からも、最初にお会いした瞬間から親切にして頂きました。僕はほんとうに不出来な、ろくでもない小僧だったんです。「こんな無礼なやつは破門だ」と言われることを覚悟してましたけれど、そんな若造を先生は本当に優しく受け止めて「黙って俺についてこい」と言ってくださった。レヴィナス先生も本当にそうでした。遠いアジアからやって来た、どこの馬の骨かも知らないような若い研究者を家に招き入れて、3時間も4時間も、差し向かいでお話しして下さったわけです。本当に親切な方でした。「偉大な人は親切だ」という命題はその時に刷り込まれました(笑)。
──話題を変えて、社会問題についても質問させて下さい。内田先生は、絶望的な現実を前にして、若者はどう生きるべきだとお考えでしょうか。私は、日本の現状に希望を持つことができません。私が生きている間に、日本が壊滅的な状況になる想像は容易につきます。が、そこから再建する未来像が描けないのです。人間は過去から何も学ばず、それ故に変わることもない。それどころか「変わらない自分」でいることが社会全体で推奨されているように思います。成熟を拒む人々が多数派を占める社会にあって、希望の光を見出せる日は来るのでしょうか。
内田 とにかく闘うしかないですね。ろくでもないシステムに対しては、「ろくでもない」ときちんと言う。間違っていることに関しては、「間違っている」と言う。「世の中そういうもんだよ」と言われても、「そういうものであっていいはずがない」と言う。もっと世の中というのは、合理的で、道義的でないといけない。僕はそう思います。今の日本は本当に合理的ではなく、極めて効率が悪い。僕は根っからの合理主義者なんで、こういう非合理的なシステムを見ていると、はらわたが煮えくり返るんです。
この30年間、社会のシステムはひたすら非効率、非合理的になっています。一人一人が持っている豊かな可能性や潜在的な能力を引き出して、活性化するための仕組みが全く機能していない。新しいものが生まれる機会をつぶして回って、子どもたちを規格化し、同質化し、個性も能力も発揮できない仕組みを必死で作り込んでいる。
子どもたちを規格化すれば、たしかに管理はしやすいでしょう。でも、それは創造の芽を摘むことです。「創造」と「管理」は食い合わせが悪いんです。管理に軸足を置くと、創造力が枯渇する。創造力を育てるためには、管理を断念しなければならない。そう決意しないと日本は沈んでゆくばかりです。
沈んでいくのは制度設計が間違っているからなんです。日本国1億2500万人もいて、その中に才能がある人は何百万人もいるのに、その才能が活かされていない。それに僕は怒りを感じているわけです。繰り返し申し上げているように、集団的な知的パフォーマンスを活性化してゆくということが、僕の革命闘争の目的なんです。
この闘争目的に共鳴してくれる人たちと手を繋いで、別に何かを「倒せ」というのではないんです。日本人を抑圧している管理の蓋を吹き飛ばせということですよね。その闘いは一人一人が自分の現場でやっていただくしかない。だから闘って欲しい。若い人たちにはとにかく闘って欲しい。『勇気論』に書いたのもそのことです。孤立を恐れるな。自分が正しいと思ったら闘え、と。闘って、敗れて、野垂れ死にするということもあるかも知れませんから、「無責任に若い人を煽るな」と怒られるかもしれませんけど。でもやっぱり僕は闘って欲しい。僕にできるのは遠くから「頑張れ」と手を振るだけですけれど。
──こうした現状から脱却する方途の一つとして、近年、内田先生は「理解と共感」を基盤にした集団から、「社会契約」を基盤にした共同体への移行を提唱しておられるように思います。私は生まれてから、「理解と共感」を基礎とした社会にしか属したことがありません。そこでは多数派になること、その場の空気を読むこと、異端を見つけ出し排除することが、何よりも優先されます。そのことだけに知的リソースが割かれてきたと言い切ってもいい。
ですから私には、「社会契約」を基本とした共同体というのものが、頭では理解できでも、生活実感としてよくわからないのです。社会契約を基盤にした共同体がどのようなものなのか、どうすればそのような社会を立ち上げることができるのか、ご教示いただけないでしょうか。
内田 近代市民社会というのはまさにそういうものですよね。社会契約ベースでも共同体は作れるというアイディアこそフランス革命がもたらした最大の貢献だったと僕は思います。それまでは、同じ人種、同じ宗教、同じ言語、同じ生活文化の人たちが自然発生的に集まって同質性を基礎にして集団を作っていました。でも、そういう同質性ベースの集団というのは、一定以上のサイズにはなれないんですよね。というのは、集団はどうしても大きくなるから。でも、同質性ベースの集団はサイズが大きくなるとうまく機能しなくなる。すると、それは「異物が入り込んで、集団の純粋性を穢しているからだ」という説明がなされる。同質性ベースの集団は、危機的になると必ず「異物排除」の暴力に向かう。これには例外がありません。これに対置されたのが社会契約ベースの共同体です。ある程度以上のサイズの、ある程度以上機能分化した集団を維持するためには、同質性ベースから契約ベースに切り替える必要があるということに気づいた点で、近代市民社会論は画期的だったと思います。
たしかにこの近代市民社会の理想は、なかなか現実のものとなりませんけれども、それでも同質性ベースの集団と社会契約ベースの集団のどちらの集団がより望ましいのかという議論はフランス革命以後ずっと続いているわけですよね。
左翼と右翼という二項対立も、実際には右翼が共感ベース共同体をめざし、左翼が社会契約ベースの共同体をめざすという集団のありようについての本質的な対立なんです。具体的な政策上の対立じゃないんです。そして、一貫して、近代世界においては社会契約ベースの共同体をめざす運動の方が分が悪い。もちろん日本もそうです。なにしろ日本人は社会契約ベースの共同体というものを見たことがないんですからね。近代市民社会というものを見たことがない。市民革命を経験してませんからね。日本人は社会契約ベースの共同体を見たことがない。見たことがないから、参照する過去がない。だから、これから手作りしてゆくしかない。日本の場合は社会契約ベースの共同体を「創造」するしかない。
斎藤幸平さんが「ゲノッセンシャフト(Genossenschaft)」と呼んでいるのはそれだと思います。これは成員の自由意志に基づく契約共同体のことです。職人組合や協同組合がそうです。「アソシエーション(association)」とも呼ばれます。僕はこれをもっと拡大解釈して、教育共同体や、凱風館のような道場共同体も「ゲノッセンシャフト」だと思っています。メンバーの出自は問わない。人種も、言語も、宗教も問わない。この共同体において定めた規範に従うことを誓約すれば、それだけで共同体の正規のメンバーになれる。
何者であるかはどうでもいい。ここにこういう社会契約がある。それを守る。それだけでいいいんです。成員に求められる人間的資質があるとすれば、それは「約束を守る」ということ、それに尽きるわけです。一言を重んじる。言葉を違えない。約束したことは必ず守る。そいういう人であれば、人種がどうとか、宗教がどうとかですね。政治イデオロギーがどうとかいうことは、どうだってよい。それがゲノッセンシャフトの採用する人間観です。僕もそういう考えです。
凱風館の場合、規則さえ守ってくれたら、どんな人でも迎え入れる。それは「道場に対して敬意を示す」ということです。ルールはその一つだけです。「道場に敬意を示す」というのはどういうことか、それは誰でも考えればわかります。道着は清潔を保つとか、道場内で大きな声を出さないとか、道場に入る時は一礼するとか、そういう細かいことはすべて「道場に対して敬意を示す」という基本的なルールから派生してくるものです。いちいち箇条書きにするようなことじゃない。
今日は神野さんをこうやって凱風館にお招きしているわけですけれども、それは僕が深く共感したり、理解できた人しか凱風館には受け入れないということではないからです。誰だか分かりませんけれど、「道場に対して敬意を示す」という一条を守ってくれるなら、それでオーケーなんです。約束した時間通りに来てくれて、ふつうの清潔な服装できて、大きな声を出したりしないなら、それで構わないという緩い条件なんです。
そういうルールを僕は今のところ手探りで作っているわけです。これは社会契約に基づく共同体をどうやって手作りするか、それを研究する実践なわけです。神野さんご自身が自分の周りにも、神野さんなりの契約共同体を作って、そういう共同体を広げていってくれれば、別に何者であるかということは副次的なことなんです。契約に基づく共同体に属しているということが、人を一番自由にするんじゃないかという気がするんですよ。
その点で多くの人が勘違いしていると思うんです。共感で結ばれた共同体に属していれば、あとは「以心伝心」だから、何しても自由なんだって思ってるかもしれませんけれど、それは違います。逆ですよ。共感ベース共同体では、「共感を確認し合う儀礼」が最優先されて、その儀礼がまた延々と続くのです。なにしろ「共感し合ってさえいれば、あとは何をしてもいい」わけですから、「共感の確認」こそは死活的に重要な業務になる。契約共同体だったら、守るべき契約は明文化されていますから、「それさえ守ってくれればオッケー」なんですけれど、共感共同体の場合、「共感できる」ということについては「これでおしまい」ということがない。エンドレスなんです。延々と「俺たち同類だよな」ということを確認し続けないといけない。
そんなことをしているうちに誰がメンバーかの確定作業にほとんどのリソースを使い果たしてしまい、集団として何をするのかということについては誰も言及しなくなる。「そもそも何のためにわれわれはここにいるのか?」という集団にとって最も根源的な問いがネグレクトされる。それを忘れてひたすら「誰がフルメンバーか」「誰がメンバーシップを満たさない『異物』か」というメンバーシップの点検にいそしんでいる。それ以外の仕事には興味を示さない。でも、それで構わないんです。「異物を排除した、純粋な集団になれば、すべての問題は解決する」ということは彼らにとっては自明のことなんですから。
だから、どう見ても、共感共同体の方が非効率で不自由な集団なんです。契約共同体なら、基本の契約さえ守れば、「これ、よろしくお願いします」で通じるけれども、共感共同体だと、「これ、よろしくお願いします」と言われても、「そういうお前は何者だ」という身元調べがまず行われて、それでフルメンバー資格が確認されない限り、「これお願い」が通らない。不便だし、まことに非効率ですよね。それにだいたい「お前はフルメンバーだ。お前は違う」というようなメンバーシップの判定を下す権利は誰が持っているんですか。そんな判定権誰にもないでしょう。同質性や共感度なんて、判定できるはずがないんですから。できるのは「異物の検出と排除」だけです。
僕は自由に生きたいんです。自由ということが一番大切だと思っている。だから、共感共同体にはいたくない。契約共同体がいい。うるさく「お前はほんとうは何者なのか」なんて訊かれたくない。
武道家が目指すのは「自在を得る」ことです。何かに囚われ、何かに居着いている状態を去ることです。それは僕が学者として生きている理由と同じです。自由になりたいんです。イデオロギーやドクサの虜囚でありたくない。知的に自在であることが僕の努力目標なんです。それは生き物として当然のことだと思うんです。可動域を最大にしたい。選択肢を最大にしたい。それが生き物が生き延びる上で当然のことですから。
だから、僕はゲノッセンシャフトに属していたい。ゲノッセンシャフトって、言葉を換えて言えば「コミューン」ですよね。合理的で、道義的な共同体に僕は属していたい。だから、僕はそういう意味での「コミューン主義者」なんです。
──内田先生が凱風館で門人の方々と日々実践されていることが、社会契約ベースの共同体の雛型ということでしょうか。
内田 そうです。実際に手作りして、機能しているところを見せて、こういう契約共同体もあり得ますというところを見せる。それしかないと思うんです。上からモデルを示して、「こういう共同体を作れ」と強制することには僕は反対です。そうじゃなくて、みんなが、自発的な意図に基づいてゲノッセンシャフトを手作りしてゆく。それが日本中にあちこちできる。サイズも機能も違う、多様な契約共同体ができる。そういう手触りの違う共同体がたくさんあって、それが緩やかにネットワークするというのがいいのかな、と。とりあえず過渡期にはそういう形態しかないんじゃないかなと思っています。
──また話題を変えさせて下さい。私もそうですが、若い人たちは自己肯定感が非常に低いように思います。どうすれば自己肯定感を高めることができるでしょうか。
内田 自己肯定感を高めるような生き方を選ぶということですよね。正直と、親切か、勇敢とか。そういうふるまいは自己肯定感を一気に高めるんです。人にいくら意地悪しても、相手がどれほど屈辱感に震えるのを見ても、自己肯定感は高まりません。ある種の爽快感や全能感みたいなのは感じるかも知れないけれど、それによって「自分を好きになる」ということはない。これは決してありません。
でも、人に親切にすると確実に自己肯定感は高まります。正直に話すということもそうです。ほんとうにわずかなことであっても、それまで何となくごまかしていたり、作話していたことを、正直に語ると、自己肯定感が高まる。「ああ、オレは正直者だ」と思うと、自分が好きになれるんです。
勇敢というのもそうですね。何か筋が通らないことが行われていたら、「それは筋が通らない」ときっぱりと言う。その言い分が受け入れられても、受け入れられなくても、言うべきことをきちんと言って、それに身体を張る。それができたら、どんな結果になっても、ぼこぼこにされても、自分のことをその分だけ好きになれる。
だから、自己肯定感を高めようと思ったら、簡単と言えば簡単なんです。正直、親切、それから勇敢。それで自分を律していれば、自ずと自己肯定感高まってゆく。
自己肯定感というのは、言葉は堅苦しいですけれど、要するに「俺って割といい奴じゃん」と思えるということです。それは金があるとか、権力があるとかいうこととは全然違うんです。金があっても、権力があっても、自分のことが好きになれない人はたくさんいます。
僕はすごく自己肯定感が高い人で(笑)。以前に柴田元幸さんと対談した時に、フロアから「内田先生のその無根拠な自身はどこからくるんですか?」と訊かれて大笑いしたことがあります。でも、ほんとうに言われる通り、無根拠な自信なんです。たぶん子どもの頃に内田家のみなさんから愛されて育ったという経験がもたらしているものだと思います。
僕は子どもの時に一度死にかけたんです。6歳の時に医者の誤診で、風邪だと思って放っておいたら、重篤な感染症で、大学病院に連れてゆかれたときには「余命一か月」と宣告された。アメリカから来た新薬のおかげで一命はとりとめましたが、両親としてはかかりつけの医者の誤診を信じて、何も治療をしないでひと月近く放置した結果子どもが死にかけたことをすごく後悔したと思います。さいわい死ぬものと思っていた子どもが生き返った。でも、心臓弁膜症という後遺症が残った。もうふつうの生活はできませんと医者から言われた。ですから、それから後、この次男については「生きてくれていればそれでいい」ということになったのだと思います。生きていること以上には何も期待しない。心臓が動いて、呼吸をして、歩いている姿を見れば、それだけでOKだ、と。
その後も心臓発作が時々出て、11歳までほぼ隔年で長期入院していました。とにかく弱くて、すぐ死んじゃいそうな子なんですから、親としてはもう生きていること以上何も期待しない。これは子どもからすればめちゃ楽なんですよ。親の期待が異常に低かったことが僕の自己肯定感を高めたと思います。だって、何やっても全部許してもらえるんですよ。朝起きて、犬の散歩に行って、ご飯食べてるのを見ても「樹が生きている。ああ、良かった良かった」という感じなんです(笑)。
果たしてこれを「愛情」というかどうか、これはよく分かりません。それとはまた別の問題なんだと思います。兄は親からは叱られてばかりいた。でも、それは長男に対しての期待が高かったからなんです。それは見ていて分かりました。親の濃密な愛情が、兄を苦しめ、兄が自己肯定感を持つことを妨げていた。
だから、僕の無根拠な自信は「内田家の皆さんに愛されていたから」という言い方もできるし、「内田家の皆さんの期待度が低かったから」という言い方もできる。でも、子どもにしてみたら、この二つは同じことなんですよね。
親が子どもにしてあげられるいちばん大事な贈り物って、子どもの自己肯定感を高めることだと思いませんか。子どもが、この世に生きていることについて疑いを感じないでいられること。自分がこの世にいることを願い、それを喜んでくれる人がいることを知っていること。これは子どもにとってはほんとうにありがたいことだと思います。「これこれこういう条件をクリアしたらわが子として認知してあげる」とか、「こういう子どもだったら愛してあげる」というように子どもが承認される条件を吊り上げることで子どもをコントロールしようとする親っているじゃないですか。それは子どもにしてみたらすごくつらいと思うんです。親の承認なしでは子どもは生きた心地がしないんですから。親の出す条件をクリアーできず、親の承認をうまく獲得できない子どもはその後ずっと自己肯定感を持つことができなくなる。
逆に、「生きているだけでいい」というところまで子どもへの期待値を下げると、子どもの自己肯定感は高まる。だから、その後大きくなってから、いろんな理不尽な目に遭った時に「それ理不尽だよ」と平気で言える。相手が百人いても、百人が間違っている場合には「間違っているのは君たちだよ」と平気で言える。孤立に耐えられるというのは、周囲の人たちからの承認がなくても平気ということですけれど、それは小さい時に親から揺るぎない承認を得ているからですよね。そういう子どもは長じて「無根拠な自信」を持つことができる。
──内田先生は、ご自身の経歴をどのように総括されますか。また、ご自身の今後についてどのように想像されていますか。
内田 そんなこと言われても、もう74歳ですからね。あんまり長くは生きられない。とにかく手作りした凱風館を財団法人化して、この契約共同体が長く残るように制度を整えておくということ、それだけです。このあと書きたい本も特に残ってないし。「カミュ論」を今書いていますので、これを完成させたいなというのはありますけど。「カミュ論」を書き上げたら、もう書きたいものはないですね。「レヴィナス三部作」も書き上げましたし、権藤成卿についても書いたし。
権藤成卿論を書いたのは、日本の極右思想に一度きちんと向き合っておきたいと思ったからです。これもある意味で僕のライフワークの一つです。僕は農本ファシストになぜか深い親近感を感じてしまうので、その理由を知りたかった。僕自身はコミュニストですからなぜ極右思想に近いものを感じるのか、分からなかった。でも、いつかは考えてみないといけないと思っていました。一冊本を書いてだいぶ頭の中は整理されました。
あとはカミュですね。カミュについてはもう書きたいことはこれまでに大体書いているので、もう特に付け加えることはないんですけどもね。とにかくカミュはいいぞ、と。みんなカミュを読めということですね。僕はアルベール・カミュの研究者じゃなくて、ファンであって、伝道師ですから、生きている間に一人でも読者を増やしたい。
──お恥ずかしながら、内田先生が、権藤成卿についてお書きになるまで、権藤成卿という人を全く知りませんでした。権藤成卿というのはどのような人物だったのでしょうか。
内田 ふつうの人は知らないですよ。どのような人物なんでしょうね。五・一五事件の思想的な黒幕と言われている思想家です。1920年代から30年代にかけて「昭和維新」という政治的ムーブメントがありましたけれど、その中心になる思想家が二人いて、それが北一輝と権藤成卿なんです。まったく対照的な二人ですけれど、それぞれそれからあとの日本の方向に決定的な影響を及ぼした。
1930年代にそれからあとの日本が向かう国の方向はほぼ決定しました。帝国主義的に純化して、軍部が暴走して、その結果敗戦ということになるわけですけれど、権藤成卿の思想は間違いなくその流れを作った一因です。もちろん権藤成卿が目指していた「日本型コミューン」とは似ても似つかぬ方向に軍部は暴走するわけです。権藤自身はそのような戦闘的なものではない、もっとずっと手触りの優しい共同体を構想していたんですけどね。
でも、彼の共同体論のピットフォールはそれが「共感ベース」だということなんですよね。共感と同質性に基づいた共同体なんですよ。権藤のコミューン主義は中央集権的な国家システムを認めないので、その点ではアナーキズムに近いんです。権藤は権力者に管理されることが大嫌いなんです。だから、彼の構想する共同体は自治なんです。自ら治める。上位の権力機構に管理されない。では、国家権力に管理されない自治体とは何か。権藤はそれを「社稷」と呼ぶわけです。これは共感ベースの、同質性の高い農耕共同体なんです。「社稷」は純粋な共感共同体であって、「他者との共生」ということはまったく考えていない。ですから、その点で契約共同体論者の僕と権藤は袂を分かつことになるわけです。でも、国家権力の支配を斥けた、自治的共同体のゆるやかなネットワークとして国のかたちを構想するというところまでは同じなんです。農本ファシズムというのは、日本オリジナルの政治思想で、欧米からの借り物じゃない。土着の政治思想なんです。だから、身に沁みる。本が出たらぜひ読んでください。
──『月刊日本』から刊行予定とお聞きしました。
内田 『月刊日本』から権藤成卿の『君民共治論』を復刻するので解説を書いて欲しいというオファーがあって、二年ほどかけて10万字くらい書いて原稿書いて送ったんですけれども、そのあと何も言ってこないんです。もしかすると『月刊日本』の編集部内で「これはちょっと出せない」という話になっているのかも知れません。もともと解説を頼んだのですから、長くてもせいぜい原稿用紙100枚ぐらいと思っていたら、その何倍もの原稿が来ちゃった(笑)。本文より解説が長いのでは出版できないということで頭抱えてるかもしれません。よく分からない。権藤成卿をかなり正確に論評していますから、中身に問題があるということはないと思うんですけれどね。
──お時間の許す限り質問させてください。かつて内田先生は、若い人には「批評的でありながら礼儀正しい文体」を身に着けて欲しいと仰っていました。また、「批評的でありながら、礼儀正しい文体」の例として、アナトール・フランス『エピクロスの園』と、クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』を挙げられています。上記の2冊のような文章を「探し出す」手掛かりと、そうした「語り口」の身に着けかたをお教えいただけないでしょうか。
内田 うーん、難しいな。『エピクロスの園』と『悲しき熱帯』を何でそれを直感的に選んだかというと、その時考えたのは、二人とも非常に複雑な構文を駆使するからでしょうね。たとえば、物すごい嫌味なことを言う時も、入り組んだ構文で書いているので、嫌味を言われている当人が読んでもわからないということがある。あまりに切れ味のよい日本刀で斬られたので、首が落ちても分からなかったという落語がありますけれど、あんな感じですね。
日本だと成島柳北がいますけれど、それに近いかな。底知れないほど該博な学殖の持主で、それを「ここ」という勘どころで小出しにする。そこに引用されている古典の一節を読者が知っているか知らないかで、その読解の深度が変わる。何も知らない素人の読者でも読んで、意味はわかるし、面白いんです。でも、学識教養のある読者が読むと、意味のもっと深い層に達することができる。読者に対して、「このテクストから快楽を引き出したかったら、学問をしなさい」という遂行的なメッセージを送っている。読者に知的な成長を促す。その点で、デリダとかフーコーとかラカンとかの「わかりにくさ」とは種類が違うんです。あの人たちの書くものは読者が頭の中身を組み替えて、彼らにとっての「常識」を自分にとっての「常識」に標準装備しないと読み進めない。ラカン派にならないとラカンが分からない、フーコーのような書き方をしないとフーコーについて語れない。そういう仕掛けになっている。でも、アナトール・フランスの「わかりにくさ」はそういう種類の「わかりにくさ」じゃないんです。別にアナトール・フランスの言うことを全部受け入れて、「フランス派」に宗旨替えする必要はないんです。だって、ただ非常にロジカルなことを書いているだけなんですから。でも、ロジックの構造が複雑なんです。二段構え三段構えになっているので、知的な肺活量が要る。一つのセンテンスを読んでいる途中で、「早く結論出してよ」と思っても、なかなか話が終わらない。どこに連れてゆかれるのか分からない。知的肺活量があって、長い時間「中腰」に耐えることのできる知的忍耐力がなければ読み終われない。だから、読んでいるうちに読者の方の肺活量が増えて、筋肉も太くなる。そういう読者を成長させるテクストなんです。
知的な肺活量というのは、とてもたいせつなものだと思うんです。話を簡単にしない。すぐに既知の結論に飛びつかない。この話はいったいどこに行くんだろう。それをずっと息を詰めて、聞き続けて、最後の句点まで、息継ぎを我慢する。肺活量って要するに横隔膜という筋肉の力のことですから、これって筋トレなんですよ、文字通り。だから、「どこに行くのかわからない話を黙って読む」うちに横隔膜の筋量が増えて、肺活量が大きくなる。
毒のある、攻撃的な文章って、だいたい短いんですよね。「死ね」とか「バカ」とかそういう二字とかになる。知的な肺活量がわずかな人の言語活動って、そういうものにしかならないんです。人を批判する時に複雑な構文を操れないんです。でも、本当にきちんと相手の言い分を批判しようと思ったら、ロジカルに語らないといけないんです。そして、ロジカルに語るためには、知的肺活量が要る。
それともう一つ「礼儀正しい」ということですね。アナトール・フランスもレヴィ=ストロースも本当に礼儀正しい文章を書きます。例えば、レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の冒頭近くでフランスの植民地主義に対する強烈な批判をするんだけれども、これが礼儀正しくかつ論理的なので、そうは読めないんですよね(笑)。文章が上手すぎて。
あるいはマト・グロッソにやって来たアメリカ人宣教師たちが殺害される話。これは殺された方が悪いとレヴィ=ストロースは思うわけですけれども、怒りを直接的に言葉にするわけではない。非常にロジカルで、描写的な文章なんですけれども、レヴィ=ストロースのアメリカ人宣教師たちに対する怒り、彼らの植民地主義的な権力性と、薄っぺらな宗教性に対する軽蔑の念は行間から伝わってくる。若い人にはそういう精密な文章を熟読玩味して欲しいと思いますね。
──御本人に直接お聞きすることではないのですが、内田先生について研究するとして、どのようなアプローチが有効でしょうか。あるいはどこを取っ掛かりとして、内田先生を論じるべきでしょうか。
内田 どう言ったらいいんでしょう(笑)。どこを取っ掛りにしてと言われてもねえ。これはやってみるしかないですね。ここからだと思って書き出したけど、それだとうまく書けないと思ったら、引き返す。山に登るのと同じです。このルートから登ろうと思って進んだけれど、どこかで難所に当たったら、その場合は「引き返す勇気」が要る。思い切りよくそのルートは諦めて、別のルートから登りなおす。
あるルートを進んでいるうちに、どうも息が詰まるとか、筆が走らないとかいうことはあるわけですよね。書いているうちにどんどん何か書きたいこと浮かんできて、どんどん筆が走り出すというのが良いライティング・スタイルなわけですけれども、それって書き出してみないと分からないんですよ。登山のルートと同じで、登り始めるまでは分からない。
僕だって、レヴィナス論を書く時にいろいろな書き方しました。途中まで書いて、「これでは先に進めない」とわかって、それまで書いたものを全部捨てたことだって何度もありますから。このアプローチではこれ以上先に進めない、これ以上深く潜れない、そういうことは書いているとわかるんです。だから、ある時点から「弟子アプローチ」を採ることにしたんです。「師の偉大な叡智をひたすら讃える出来の悪い弟子」というポジションを選択したら、いきなり筆が走り出した。「研究者」というポジションにいる限り、絶対に書けないような書き方ができるようになった。弟子は師の偉大な叡智については、その端っこの方の、ほんのかけらほどしか理解できていない。でも、もっと知りたい。だから、じりじりとにじり寄ってゆく。そういう「現在進行形」の書き方が弟子には許されるんです。でも、研究者にはこういう書き方は許されない。
研究者は「序論」で論文の全体の構成を俯瞰して、あとはそこに示されたプログラム通りに進んで、「結論」に至るという書き方をしなければいけない。でも、弟子は「序論」を書いている時点では、自分がこれから何を書くことになるのかよくわかっていなくても構わないんです。「これから登ります」と書いている時には、どういうルートをたどって、どこまでたどりつけるのか全然予測が立たない。それに、弟子ですから、登り口から数歩歩いたところで挫折しても、けっこう高いところまで登ったけれどそこで精魂尽き果てた…でも、何でも構わないんです。頂上を目指したことだけが弟子にとっては重要なわけですから。
だから、「弟子的立ち位置」から書くのはすごく楽なんです。学術論文だとどんな駆け出しの研究者でも少なくとも「序論」では「上空から俯瞰すれば」という書き方を強いられる。「周知のようにレヴィナス哲学は・・・であるが」というように書き始めなければならない。そういう決まりなんです。でも、弟子はそういう書き方をできないし、しなくていい。「師の叡智はあまりに偉大なので、私はその断片すら書き写すことができない」という書き出しから始めていい。
──私は、内田先生の柔軟な知性に対して、強く惹きつけられます。例えば、常識的なことを仰っているのだけれど、そこに至るまでの理路が極めて創造的であったりする。その理路を追うだけで、内田先生がお書きになったものというのが一目で分かります。つまり問いの立て方や論の展開それ自体に、内田先生の独自性が宿っている。私はそう思います。そこでお聞きしたいのですが、内田先生は如何にして思考され、それを表現されているのでしょうか。
内田 それは本人にも分からないですね。自分でも、自分が書いたものを後で読み返しても面白いなと思うようなものを書きたいだけです。今自分がもう知ってることについては、前に一度書いたようなものをもう一回コピーして、ちょっと変えれば書けるけれど、そんなの読んで面白くないんですよね。
読んで面白いものって、その時に初めて思いついたことなんです。それは自分にとって面白い。読者が面白いかどうかはどうでもいいんです。だって、読者はそれが初めて読む僕の文章かも知れないから、「その時初めて思いついたこと」かどうかなんてわからない。だから実は読者のことは二の次なんですね。いちばん大事なのは、後で自分が読んでも面白いものが書けるかどうか、それですよね。それをいつも探してる。
ついさっきまでパリ五輪のことを書いてました。誰かがもう言ってることを繰り返しても、自分が前に書いたことを繰り返しても面白くないですから、今思いついたことを書きます。五輪とはぜんぜん無関係なはずなんだけれど、どこか「同一のパターン」が繰り返しているように見えるものと五輪を結びつける。「『これ』って、『あれ』じゃん」ですね。「おお、これはまだ誰も書いたことのない五輪論だ」と思えたら、それを書く。
だいたいそういう書き方ですね。「天声人語」的なエッセイだと、まず季節の話とか昔話で切り出して、それを途中から現在の事件に結びつけるというのが常套ですけれど、僕の場合は、目の前の事件の話から始めて、それを時代も土地もジャンルもぜんぜん違うトピックと結びつけることで、目の前の事件の「思いがけない相」を際立たせる。そういう書き方ですね。
僕は自分の本を読むのが好きなんですよ。一日の仕事が終わって、6時ぐらいから晩ご飯の支度を始めるんだけども、だいたい下拵えができて、後は温めるだけという時点で、ワインを片手にして、自分の昔書いたものを書棚から抜き出してきて、読むんです。「面白いなあ。俺、この人と本当に意見合うな」と(笑)。でも、その先がどうなるか、わからないんですよ。自分で書いたものなのに。その時に思いついたことを書いていて、書いたら忘れているので、どういうふうに話をツイストさせたのか覚えてないんです。読んで、「あ、なるほど、こういう手があったか」と感心する。昨日なんかは『ためらいの倫理学』を読み返して「いやあ、ほんとうに面白いなあ」って自分で喜んでいる(笑)。
だから僕は無人島に流されても平気だと思うんです。本が無ければ自分で書くから。紙に書いて、綴じて。それを何冊も書いて、書棚に並べて、夕方になるとワイン片手に「どれにしようかな」と抜き出してきて、そのつど「面白い!」って(笑)。
『レヴィナスの時間論』みたいな長い本だって、書いてから後は手に取ってないんですけど、たぶん読み出したら面白くて止まらないと思う。だって6年かかって書いた本ですからね。その時に「初めて思いついたこと」なんかほとんど忘れている。
どうして自分の書いたものが面白いかって言うと、「正直に書いている」からなんですよね。どこにも「ごまかし」がない。わからないことは「わからない」と正直に書いてある。弟子が師について書いているわけですからね、「知ったかぶり」なんかできませんよ。知らないことを知ったふりをしている部分があると、読んだときに引っかかる。嫌な感じがする。自分が書いたものですから、ごまかしたところはわかるんです。
後は「クリシェ」ですね、引っかかるのは。どこかから定型句を借りてきて何行か書いた場合は、後で読み返す時も、そこは飛ばしちゃう。自分で書いた本なのに、後で読み返した時につい飛ばしてしまう。出来合いの言葉が書いてあるから。出来合いのクリシェには「水気」がないんですよ。自分の正直な気持ちが書いてあるところには独特の「水気」がある。クリシェは乾燥している。乾きものだからむしろ使い勝手がよいということなんでしょうけれども、僕は使いたくない。水気がないから。自分がその時に思いついたことをすぐに書いているものには水気がある。20年前に書いたものでも、まだ水気が残っている。まだ生乾きなんです。面白いんですよ。結構どきどきしちゃう。
──ご自身のお書きになったものをお読みになるのですね。
内田 よく読んでますね。一日頭使って仕事して、それを解きほぐすのにいちばん良いのが自分の本ですね(笑)。
──内田先生は、小説を書こうと思われたことはございますか。なければ、その理由もお教えください。
内田 自分に興味がないからだと思います。この間、平川君と話してて、「何でお前は詩も小説も書かないの?」って訊かれたんですけれど、それはたぶん僕は自分に関心がないからでしょうね。前も言いましたけれど、僕は入れ物なんですよ。器であり、筒であり、通り道ですからね。「ちくわ」みたいなものです。「ちくわ」の練り物部分がどういう素材でできていて、どういうふうに加工されて、どんな形状しているかということについて、書いてもいいんですけども。それ別にわざわざ書くほどのことじゃないでしょ。だって、「ちくわ」なんですからね。
僕ってほとんど秘密がない人なんです。みんな僕がどんな人間だかだいたい知ってるし、これだけは絶対に隠し通して誰にも言わずに墓場まで持っていかなきゃいけない秘密なんて僕にはない。やっぱり、そういう「秘密」を抱えた人じゃないと詩とか小説とか書かないんじゃないかな。文学的な虚構を求めるのは、その人の中にある種トラウマ的な核があって、自己治癒のためにはどうしてもそれについて書かなければならないということがあるからじゃないかな。でも、トラウマだから直接それについて書くことができない。やむなくトラウマ的核を迂回するように書く。そういうプロセスが文学的虚構を生み出すんだと思います。でも、僕にはその「トラウマ的な核」のようなものがないんです。中身からっぽの人なんですよ。中身からっぽの人間は詩も小説も書かないですよ。
──最後の質問をさせて下さい。加藤典洋と関川夏央は、内田先生のお書きになるものの特異性として、「公」と「私」が入り混じっていることを指摘されています。内田先生は、「公的」と「私的」はどのように異なり、また「公私」の境がどこにあるとお考えでしょうか。
内田 割とパブリックな人間なんだと思います。パブリックとプライベートを切り離して、「プライベートなところには人を入れない」という人って割と多いですけど、僕は違います。プライベートって、ないんです。子どもの頃から一人で暮らしたことがないんです。いつも誰かと暮らしてた。子どもの時は当然家族と一緒ですよね。高校生の時に家を出てアパートを借りましたけれど、別にこれは「一人になりたかった」わけじゃないんです。誰でも友だちが泊まりに来れるからという理由で部屋を借りた。だって、家には友だち呼べないじゃないですか。徹夜でしゃべるとか、徹マンするとかできないでしょう。でも、部屋借りたら毎日友だちが遊びに来られる。学生時代もほぼ誰かとルームシェアしていたし、その後結婚して、離婚した後は子どもと暮らして、そのあと再婚したから、一人で暮らしたのって多分生涯で3年に満たないんじゃないかな。後はいつも誰かと暮らしていた。学生時代だとよく知らない人と暮らしてたこともあるし(笑)。ルームメイトは誰でもいいんです。だから人に「隠さなきゃいけないもの」ってあまりないんだと思う。昔、酔っぱらった友人に絡まれたことがあって、「内田さん、あなた、いいかげん本性出しなさいよ。なんでいつもきれいごと言ってんだよ。あなただって卑しいところ汚いところあるんでしょ。なに隠してるんだよ。さらけ出せよ」って襟首掴まれた。そんなこと言われてもねえ(笑)。「卑しい汚いところをさらけ出せ」とか言われたって、こちらはなるべくそういうものがない人間になろうと思って自己陶冶に励んできたわけで、それを「さらけ出せ」って言われても困りますよ。「お前は偽善者だ」と言われたけど、「僕は『偽善者』じゃないよ。だって、裏がないから」って(笑)。
正直って、すごく大事だと僕は思っているんです。「誰にも話せない秘密」なんかあると、僕にとってはものを書く時にむしろ邪魔なんです。それよりは正直であろうとする方が僕にとってはずっと生産的です。僕がもし人に言えない秘密を抱えている人間だったら、こんなにたくさん本書いてないですよ。まだ正直が足りないと思うからこうやって書いているんです(笑)。
公開日––––––––– 2024年9月19日
取材日––––––––– 2024年8月23日
取材・撮影––––– 神野 壮人