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短編小説『深海魚の憂鬱』1

小堀は急いで荷物を纏めると、マンションのエントランスで足を止めた。帰宅した時は降ってはいなかった雨が、水銀燈の灯りに白く浮かび上がっている。

部屋に傘は無い。一昨日、会社に置いて帰ってしまった。昨日、新橋の駅前のワゴンセールで折り畳み傘が安く売っていた。その時に買えばよかった。傘などを買うタイミングなど普段意識していない分、必要になった時に強い後悔に襲われる。離婚した時の気分に似ていた。

年末に別れた妻・渚の後ろ姿が脳裏を掠める。あの日も確か雨だった。傘も持たずに部屋を出て行った渚は、どんな気持ちでこのエントランスを出て行ったのだろう。

毎日数分でも渚を意識し、寄り添っていれば違っていただろう。降り注ぐ冷たい秋雨は、止むことのない後悔のように、小堀の心を震わせた。
携帯でタクシー会社に電話をするが、漸く繋がったオペレーターは「現在、お近くに空車のタクシーはございません」と、事務的に告げた。

小堀は小さな舌打ちをした。このままでは最終の新幹線に乗り遅れる。小堀は意を決して、そぼ降る雨の街へと飛び出した。

トレンチコートを頭から被り、バス通りまでの200メートルを一気に走り、寂れた寝具店の軒先へと避難した。呼吸を整える。吐く息が白い。

時刻は20時58分。東京駅までは車を飛ばせば15分。八重洲口から走れば最終の『のぞみ』に間に合うと小堀は算段した。但し、タクシーが捕まればの話だ。

苛立ちに煙草を咥える。日曜の、それも雨の夜。ただでさえ交通量の少ない路に、ヘッドライトすら確認出来ない。あと3分でタクシーが来なければアウトだ。


そもそも上司の宮城から連絡を受けたのが19時過ぎの事だった。

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