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新しい働き方

新しい働き方について今思うこと

地球に暮らす人々80億以上。そのうちの約300人がそれぞれの想いを胸に2023年6月、新しい働き方LAB 第3期生として集まりました。その一人としてご縁をいただいていることに、たいへん感謝しています。

どうやって私は翻訳者になったのか?

ときどき聞かれるのですが、私が翻訳に関わるようになったのは、
機械メーカーに就職⇒製図の仕事⇒図面の注記や製品の取扱説明書の翻訳を知る⇒翻訳文の校正者になる⇒翻訳者 という順でした。

もし、翻訳の仕事に興味があると思っている方なら・・・

自分がよく知っている分野を大切にしてください。それと外国語が交差するチャンスがないか考えつつ探してみてください(紆余曲折はありましたが私の場合はこれでした)。

どうやって仕事を得てきたのか

校正の仕事を始めた当初は、会社の知人や友人の友人など、いわゆるコネからの依頼が多かったです。

フリーランスになりたいと思い始めたのは2012年。同年、春、インターネットで検索して翻訳者募集の記事を見る度に履歴書を送っていました。翻訳文の提出(トライアル)の結果は片っ端から落ちていました。

フリーランスを始めた頃

2012年の夏、和訳の試験を受けたなかの1社から採用の通知をいただきました。アメリカの会社でした(大変申し訳ないのですが社名は伏せて仮にA社とさせてください)。

A社からの仕事の内容は、英文記事の和訳。これがフリーランスとしての初仕事でした。

ずっと日本に暮らしてきました。A社からの仕事は、日本時間の午前6時ぐらいに記事の原文を受信して、出来る限り速く(どんなに遅くても24時間以内に)訳文ファイルを納品することでした。

回数は週に3回~4回。最初の半年ぐらいは納品してもおさまらず、毎回修正依頼がきました。アメリカの校正担当者とスカイプをつないで、一字一句ずつ訂正の説明を聞きながら何回も書き直しました。

アメリカの会社と仕事をした、というとカッコよく聞こえるかもしれません。しかし実際は、いっぱい失敗して周囲の方に迷惑をかけてしまいました。

当時は、仕事を獲得することに気持ちが集中していて、トラブルの事例(例えば給与の未払い: 翻訳の訳文ファイルを先に納品した後、料金を払ってもらえない)といったことに対する回避策は、全然頭のなかにないまま活動していました。

幸い、そういったトラブルに巻き込まれなかったのは、周囲の方々のおかげだったと思います。

記事翻訳の仕事は2012年から4年半続きました。この頃アメリカ人から言われて鮮烈に心に残っている言葉があります。

「君は素晴らしいものを持っているじゃないか。日本語は3つの文字を組み合わせている。ずっとアルファベットだけで生きてきた人間からみれば実にうらやましい。もっと、自分の持っているものに誇りを持てよ」

これから

コロナ禍、生成AIの普及、先行きに不安を感じることも多いかもしれません。今から11月までの6か月間、自分は何の役にたてるのか再考する時間にしたいと私は思っています。

気づきがあれば、またここに記載します。最後までお読みいただきありがとうございます。

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