見出し画像

34.卒業式と謝恩会

卒業式の前に私にはやることがあった。夏の大学院の試験に落ちてしまい、卒業後、就職しなければならなくなったのだが、肝心の就職活動シーズンにいくつかの会社説明会には行っていたものの、本格的な就職活動をしてなかったので、就職先を決めなければならない。そこで、原先生のところに相談に行った。いちおう、先生に「どこに行きたいんだ?」と聞かれたので、ダメもとで「竹中工務店です」と答えたのだが、数日後、先生のところに再び行ってみると、竹中の人に聞いてもらえたのだが、先方からは「遅すぎる」という答えだった。それで、職業訓練大学校の山崎先生にも相談してみると、名刺ホルダーをパラパラめくってみて、何社かの設計事務所に電話をかけてもらったところ、ことごとくダメだった。仕方なく、ここならほぼ大丈夫だろうと紹介してもらったのが、私が卒業後、8年勤めることになった株式会社日豊測量設計(現株式会社日豊)という、測量が母体の総合建設コンサルタントである。当時の専務(現社長)に電話してみると、面接に来て欲しいということだった。
会社は川崎市宮前区の小台というところにあった。最寄駅は東急田園都市線の鷺沼か宮前平である。急行が停車する鷺沼から会社に電話すると、専務が車で迎えに来た。車で会社まで連れて行ってもらい、一通り会社の案内と、私がポートフォリオとして持参した卒業設計の作品を見ながらの面接をすると、ぜひ来て欲しいという答えだった。ただ、一社だけ見て判断するのではなく、ほかの会社も見た上で返事をして欲しいと言われた。そしてその足で、今後すすめることになるプロジェクトの予定地を車で見て回り、東京都の稲城市にある東京支社にも案内されて、昼食に寿司をご馳走になった。
私としては、会社なんかはっきり言ってどこでもよく、何社か見て返事して欲しいと言われたが、面倒くさいので、見てきたと嘘をついて、「御社でお願いします」と返事をすると、私の就職はあっさり決まった。残すは卒業式のみで、卒業したら4月1日の入社式までアルバイトに来て欲しいと言われた。
後日、就職後の引越し先として会社に近い鷺沼駅前のマンションを契約した。鷺沼という駅は急行停車駅で、急行に乗れば渋谷まで18分の便利なところである。その駅前の、徒歩1分のところにある10階建てのマンションの3階が私の新居である。1DKの間取りで8万円だった。そのうち、会社が住宅手当として半額の4万円を出してくれる。いまなら家賃はいくらくらいだろうかと、ホームズで調べてみたら変わらなかった。まあ、築48年の古い物件だからそうなのかもしれないが。卒業式前に引越しは済ませておいた。
卒業式は、多摩美術大学の体育館で行われ、各科の卒業生が読み上げられたのだが、建築科の時に会場がどよめいた。建築科の卒業生は47人である。しかし、入学する時には60人いたはず。しかも、通しの学籍番号が揃っているのは20人くらいだったと思う。つまり、卒業生の半分以上はどこかの学年で留年してダブっており、なおかつ同時に入学した学生の1/3しかストレートで卒業できないのである。この厳しさは、卒業してから仕事で多摩美術大学の建築科経験者に聞いたところ、伝統らしい。学科が再編されて、環境デザイン学科になり、インテリア、建築、ランドスケープ専攻に分かれることになる今はどうだかわからないが、私の時代はそうだった。
一通り式典が終わると、校舎のホールでは鏡開きが行われていた。夕方からの謝恩会が始まるまでに一杯引っ掛けていく。謝恩会までの時間が中途半端にあって、私の新居が会場まで行く途中にあったので、数名の卒業生が私の部屋で時間潰しすることになった。大学から学校の送迎バスで橋本まで行き、横浜線に乗って長津田で東急田園都市線に乗り換えれば一本だ。また、謝恩会の会場の表参道のパーティースペースも、鷺沼からだと東急田園都市線が地下鉄半蔵門線に乗り入れているので一本である。私の新居に集まった卒業生たちは、駅からの近さに驚いていた。しばしビデオを見ながら雑談した。
そのとき見たビデオは、私の英会話教師のデヴィッドが撮ったもので、渋谷のクラブクアトロであったクラブパーティーのライブ映像の他にエレクトリック・ボディ・ミュージックやインダストリアル・ミュージックのMVで構成されていた。クラブクアトロのパーティーは私が初めて行ったクラブパーティーで、The KLFの「What Time Is Love?」と言ったダンスナンバーで私が踊り狂っている様子が撮られていたが、最後の方にはSPKのMVが入っていて、画像処理はしているものの、死体解剖のビデオで、みんな引いてしまっていた。

表参道のパーティースペースでの謝恩会の一次会は特に語るようなことはない。参加者はまだ大人しく猫をかぶっていたのだろう。ビンゴゲームで私が当たった景品はタワシだったが、女性用のパンティーが当たった女の子が景品を交換してくれた。
一次会が終わり、記念の集合写真を撮ると、まだ飲み足りない卒業生と先生たちが同じ表参道の居酒屋へ向かい、二次会が始まった。この時、卒業生も先生もだいぶ酔いがまわってきたのだろう。本音が飛び交い始めた。先生が、夜遊び好きとして知られている学生に向かって「六本木の帝王」と呼んだとき、私のプライベートの夜遊び遍歴を知っている数人の学生が、一斉に私を指差して、「六本木の帝王はここにいますよ」と言った時、先生たちはみんな目を丸くして、特に田渕先生はおっしゃった「オレはもう学生たちが信用できないよ」。
私は大学生活の4年間、学内ではプライベートでの乱痴気騒ぎを隠して、真面目な学生を通していた。まあ、4年間、猫をかぶり続けたのだ。人を騙し続ける快感と言ったら。謝恩会の二次会で化けの皮が剥がれたが、もう卒業してしまったのでこっちのものである。また、大阪人であるのに大阪弁を一切喋らなかった。ステレオタイプな大阪人のレッテルを貼られたくなかったのである。これは卒業後、病気になって会社を辞め、大阪に帰ってくるまで続いた。
二次会の座はどんどん乱れていく。伊藤俊治先生のゼミを履修していて、レポートが書けなくて、私が代筆してやった女の子の学生が、何を思ったのかいきなり私にメイクをし始めて、私も悪乗りしてビンゴの景品で女の子に交換してもらった女性用のパンティーを頭からかぶって隣に座っていた平山先生の頬にキスした。その写真がいつの間にか拡大コピーされて建築科の研究室に貼り出されたので、地味で目立たなかった学生だった私は、一夜にして建築科の大スターになってしまった。
二次会のどんちゃん騒ぎもお開きとなり、私を含む10数名が酔い醒ましを兼ねて表参道から渋谷まで歩いたのだが、まだまだ遊び足りないお年頃である。私が一度、六本木の「XYrelax」というクラブに連れて行ってやった学生に誘われて、三次会として渋谷の大学生遊び系サークル文化全盛の象徴的な場所となっていった「Jトリップバー・ダンスファクトリー」というクラブに踊りに行くことになった。謝恩会の流れなので着ているものはスーツである。クラブに踊りに行く時はドレスダウンがポリシーの私であるが仕方ない。普段、クラブに踊りに行くことはないだろうと思われる女の子と仲良く手をつないでTodd Terryの曲で踊ったのが懐かしい。

何時まで店にいたのか覚えていない。たぶん閉店前には店を出たと思うのだが記憶にないのである。しかも、その後、どうやって自宅に帰ったのかの記憶も全くない。またしても、飲みすぎでブラックアウトを起こしたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?