【ひとりしずかに】 6月。甘霖の世界に身を沈め、声無き言葉を手紙に認める。

《 雨の話 》

 雨が降る日は、好きだ。世界はただ水音に満たされ、視界に映る全ての境界は曖昧になり、モノクロームの世界へと沈む。故に、特定の“モノ”をはっきりと認識する必要がない。そして何より、泣くことを忘れた私の代わりに、空が泣いてくれている。私のような存在は、まさに雨の世界にこそ存在するのだ——
 ……とまあ、どこぞの三文小説みたいな真似はさておくとして、雨の日が好きというのは間違いない。
 確かに雨がもたらす湿度は、私が愛してやまない書籍の大敵だ。また、対策してあるとはいえ、持ち歩いている電子機器に水気は害を為す。私の趣味に対しては、最も相性がよくないものの一つである。
 それでも、天気としての雨は好きなのだ。晴れている日も悪くはないが、散歩するならやはり雨の方がいい。
 何年か前に買ったお気に入りの傘がある。月を模したその傘を差して、雨音を聴きながらのんびり歩く。傘に当たる雨粒の音がとても心地よい。傘を楽器と喩えたのは誰だっただろうか。傘が楽器なら、雨の中歩く私もまた楽器と成れる。傘を打つ雨音を聴きつつ、地を濡らす水を踏み、また雲を運ぶ風音を楽しみ、自らの足音を合わせていく。ああ、一人で楽しむ雨の日のアンサンブルよ。
 傘を差さずに、雨の中をただ歩くのもまた、趣があって良い。雨が降れば、濡れるのは当たり前。散歩するだけなら、傘など要らないのだ。なんとなくだけれど、雨に濡れることは自分がここに居て良いのだ、と赦されている気持ちになる。こればっかりは理屈じゃない。そんな風に感じるのだ。
 梅雨の時期は、毎年楽しみである。雨が降ることを心待ちに、という程ではないにせ、一年の間で一番心が落ち着く季節だからだ。たとえ自分の趣味との相性が最悪でも、それは今後も変わらないだろう。

《 手紙のはなし 》

 誰かと誰かを結ぶツールである。
実を言えば、私は苦手なものの一つだ。

 ツールとしての手紙は好きだけれども、自分が使うとなれば話は別。物書きでありながら言葉を使うことを恐れている私には、顔が見えない相手に対して語りかけることの恐ろしさは、何物にも変えがたい。

 でも、手紙を書くのは好きだったりする。だれかに伝えたいことをまとめ、言葉を文字に変えて認める。何度も読み直して、綺麗な形にまとめていく。それを封して、投函……まではしない。手紙を出すふりをして、そのまま処分することがほとんどだ。読み直すことはしない。そんなことをしたところで、宛先のない手紙はただわたしに返ってくるのみなのだから。

 手紙といえば、確かこんな逸話があった。
『ある人物が、友人と喧嘩をした。彼は非常に怒り、これでもう絶縁だ、と言わんばかりにありったけの罵詈雑言と友人を非難する内容の手紙を認め、明日出そうと眠りについた。翌朝、冷静になってその手紙を自分で読み返し、あまりの酷さに自分でその手紙を破り捨てた』 
 出典は相変わらず忘れたし内容もうろ覚えだが、とにかく感情のままに書いた手紙を翌朝読み直してあまりの酷さに破り捨てた、ということが印象に残っていた。
 この話の教訓はおそらく『一時の感情に任せて言葉をぶつけることなかれ』ということなんだろうと思う。ただ、私はどこか違うようにも見えてくるのだ。
 感情のままに言葉をぶつけるな、とは確かにその通りだが、それは覆水盆に返らずというよりも、自分が持っている言葉の力を過信するな、という意味にもとれると考えている。
 一度言ったことは取り返しがつかなくなるからやめろ、ではなく、自分の発した言葉が自分の伝えたい意思の通りに伝わることは決してない、という教訓である。
『言葉というのは、よく咀嚼し吟味してから口に乗せるように』というセリフもあるくらいだ。それだけ、恐ろしいものなのだ。
 言葉には力があり、魂が宿っている。以前にもここで書いたことだ。まさに、そんなことを証明する逸話だろう。

 手紙は、誰でも簡単に書けるものだ。書くだけなら、文章の体裁など気にする必要はない。
『今の悩み、将来の夢、思い募るあの人へのラブレター、昔の自分、未来の自分へのメッセージ、誰にも言えない恥ずかしい秘密、怒りの爆破予告! 腐り切った社会への絶縁状、これから観る劇の感想。思いの丈をただ書き殴れば良い』
(引用元;演劇実験室◉万有引力のTwitter(現X)より)
 それをどこかへ送るのはまた別の話だ。手紙は“わたし”へと宛てるもの。私は、そう考えている。
 しかしある意味では、この文章そのものも手紙と言えるのではないかな、などと思ってみたりする。モノが溢れるこの時代に、声なき声の一つとして、誰でもない誰かに届くように。

《 読書メモ 》

 今月はおやすみします。
 好きな絵本について触れようと思っていましたが、後述の通り体調不良で寝込んだのと、その予後があまり良くなかったので読み込み直す時間が足りず。来月改めて紹介したいと思います。

《 6月の終わりに 》

 今月は中旬に流行りのアレのせいで体調を崩し、一週間ほど寝込んでしまった。さらにその予後不良で予定が大幅にずれてしまい、いくら下書きがある程度終わっていても、それを手入れするだけの気力は残っていなかった。作業計画とは有って無きもの、出来る時に早めに仕上げていくのは大事だよなあ、とか今更のように考えてしまった。今後の執筆速度の見直しと、行動計画の詰め直しを順次行うとしよう。
 さておき、少しだけ良いこともあった。仕事の方でずっと頭を抱えていた事案がようやく終結を迎えて、思考に空きができたのだ。厳密には解決ではなく手打ちだが、今後関わらなくて良いというだけでどれだけ気が楽になったことか。ただ、それに伴って一つ懸案事項が生まれたので、今後暫くは状況観察である。
 まあここまできたら別に放置していても良いと言えばそうなのだが、あまり目を離しすぎるとこっちが割を食うことになる。そうなる前に、どこかのタイミングで手を入れなければならない。積極的に関わりたくはないが、そのために不利益を被ることだけは避けたいので適切な介入は大切なのだ。信頼どころか信用すら置けない相手に、仕事のことで委せられるわけはない。尊敬する先輩に教わったことである。
 なにはさておき。諸々重なって間に合わぬ、とはいえとにかく六月中にひとつは仕上げよう。と、下書きだけは出来ていたこれをどうにか手入れした。内容が安定していないので、後日手入れをするつもりだ。そして『ふたりしずか』の方は近日中に遅れて公開予定である。六月中には間に合わなかったのは反省。でも、七月末に二ヶ月分とはしない。早々に仕上げて公開する予定である。
 今月出せなかった読書メモは、上記の通り来月改めて紹介を。私の好きな絵本について書きたい。
 そしてもう一つ、今月載せられなかった舞台の話も、来月一緒にお届けできたらと思う。今更観に行って、色々な意味で殴り倒された舞台『砂漠の動物園』について。

 それではまた来月、皆様のもとへこんな謎の手紙をお届けしたい。この世界の片隅から、声なき声の一つとして。

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