【夢と現の狭間に】 「挿頭にせむと思ひしも。」

 ——それは春に始まって、春に終わる夢なのだ

 そんな言葉を思い出すほど、目の前の光景に震えが止まらない。でも、これが夢ならどんなに良かったか。人が真に美しいものを目にした時に最初に浮かぶ衝動は感動ではなく恐怖であるという、過去の偉人の教えは正しかったらしい。
 静かな湖の畔で、一本の古樹が月明かりを纏い、薄紫の燐光に包まれ揺れている。凪いだ湖面にその姿をくっきりと映しながら、静謐な夜の空気の中で佇んでいた。
 緩やかに流れる空気は枝を揺らし、花をざわめかせる。だがよく耳を澄ますと、その合間に何か違う音色が聞こえていた。
 幻聴かと耳を疑いたくなるような、密やかで艶めいた声。よく目を凝らせば、淡く光る樹の下、その声の持ち主であろう娘が一人立っていた。
 古樹に背を預け、どこかで聴いたことのあるような、しかし初めて聴く旋律を奏でている。遠い視線の先、湖面の月へ誘うような柔らかで優しい声。耳を優しく撫でるそれは、私の背筋を震わせ、脳をじわじわと痺れさせている。
 静かなざわめきにだんだんと耳が慣れてきて、揺らぎの合間に潜む彼女の声をはっきりと聞き取れるようになってきた。こころ震わせる声は、甘い痺れとなって脳から身体へと広がり、もっと近くで聴きたいという衝動が満ちていく。
 その艶やかな声をもっと近くで、耳元で聴かせてほしい。たとえそれが、夢と現の境界をいともたやすく溶かし遥か夢路へ、果ては彼方へと連れて行かれてしまうものだとしても。
 しかし、そんな心に反して、何かに縛られたかの如く体が動かなかった。
 声を出してはいけない。音をたててはいけない。決して、動いてはならない。けれど、絶対に目を離してはならない。少しでも気づかれてしまえば、消えてしまう。僅かでも目を離せば、消えてしまう。
 あらゆる衝動と抑制。それが私の体を、金縛りにしていた。

 不意に風が吹き、木々を大きくざわめかせ、あたりを揺らす。
 風の勢いに思わず息が漏れる。しまったと思った瞬間、驚きの形に目が見開かれた彼女と、真っ向から目が合った。
 それは須臾の時、しかしその間でめぐるましく表情が動く。言い尽くせぬ感情を見せるも、彼女は不意に顔を背け、湖に向けて走り出した。
「待っ、」
「来ては、いけません」
 その背を追いかけようと一歩踏み出すも、すぐにその足を留めさせられる。透き通る声は優しく、しかし問答無用に私の動きを止めた。声すら出せぬほど、冷たく響く。
 静かな湖上、月明かりの道を揺らして、彼女は立っていた。彼女は背を向けたまま、しかし僅かにこちらを振り向いて、
「どうか、来ないでください。わたし、あなたの……」
 月を背にした陰を宿し、小さくつぶやかれた言葉は風音に混じって消えていく。ただ、僅かに見える口許は、寂しそうに歪んでいた。
 何か、言わなければ。そう思っても、言葉が出てこない。
「……わたしはもう二度と、人に関わらないと決めたのだから」
 聞こえてきた言葉に思わず手を伸ばし、とにかく追いかけようとしたが、ふたたび風に阻まれる。
 今度はあらゆるものの動きを止めるかの如く吹き荒れるそれに目を開けていられず、背を丸め腕で顔を庇う。ひとしきり泣いた風が凪いだ後、気がつけば彼女もまた姿を消していた。
 まるで最初から何もなかったかのように、凪いだ世界だけが残っていた。湖岸の古樹はただの桜と成り、緩やかな風を受けて枝を揺らしている。月明かりは静かにあたりを満たしているが、さっきまでの不思議な空気は霧散していた。
 本当に夢だったのか、と思ってしまうほどに、何も残っていない。せめて何か、と縋るようにふらふらと桜の樹に近寄り、彼女が背を預けていたそこに、そっとに手を触れてみた。

 ああ、冷たい。

 手のひらを通して伝わるのは、年老いた気配のする幹の温度だけ。
 けれど、ただ冷たく乾いたその内側に、まるで彼女の声のような、どこか柔らかい温もりを感じた。
 彼女の気配を探るかのように、幹に背を当ててみる。すると遠い月の下、彼女の見ていた世界が見えた。
「夢じゃ、ない」
 言葉にすることで、背中が熱を持つ。それは、間違いなくそこにあったのだと、伝えてくるかのように。

 不意に、どこかで水音がした。と同時に全身から力が抜け、重さに引かれて地面に膝をつく。
『わたしは、もう、二度と——』
 風音に混じり、幻聴にしか思えぬほど微かに声が聞こえた。余韻すら残さず消え去った静寂の後、風の音に混じって苦しげな声が混じりはじめる。

 それが自分の喉から出ていることには、最後まで気づかなかった。

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