【ひとりしずかに】 4月。素敵でおなかいっぱいな春の宵、薄紅色の艶な姿を愉しむ。

《 桜を見ること 》

 春になり諸々花が咲きだして、特に目立つのは桜であろう。日本ならばどこに行っても見られると言っても過言ではないほど、この国の春の風景は桜に占められている。
 斯く言う私自身も、なんだかんだで桜と共に育ってきた。かれこれ無駄に数十年の年月を経ているので、満開の桜を見て今更はしゃぐほど初心ではない。が、いざ目の前にして心静かでいられるほど世捨て人ではいられない。世俗のことに隔たりを感じている私とはいえ、結局どこまでいっても俗人なのである。こればっかりは仕方ない。
 そも、物書きとして生きている以上、何かに囚われ心揺さぶられることは避けられないものである。それは当然のことであり、それを喪うことは物書きとしての生命を断つにも等しい。どこに在っても、どのような形でも、アンテナを高く張っておくことは大切なのだ。
 私にとってその一つが、この『桜を追う』ということであるが、いわゆる『花見』という行事が好きなのかと問われれば、それは間違いなく否と答える。このシーズンにさんざん取り上げられる、いわゆる『お花見スポット』にはできるだけ足を運ばないようにしているくらいには。
 基本的には独りで何に囚われることなく、ゆっくり眺めるのが好きなのだ。大人数で見物に回ったり、ましてや一般的に行われるお花見のような宴会など、そこに混ぜられることを想像するだけで心持が悪くなる。
 仮に誰かと一緒に行く、若しくは連れて行く場合は、この感覚を理解してくれる人としか行くことはない。そしてたとえ誰かと一緒だったとしても、私は一人で風景を眺めてぼーっとしたり、次の小話のネタを考えていたりする。
 私のよく行く場所を気に入ってくれている友人がいて、都合が合えば一緒に来る事がある。友人は私の嗜好をちゃんと理解しているので、一緒について来てもよほどの事がなければ放置しておいてくれる。本当に頭が上がらない。
 私がこの季節に足を運ぶ場所は何ヶ所かあって、開花時期、仕事の休日と曜日のタイミング、自分の予定の兼ね合いなどで、毎年見に行く場所を選んでいる。
 いまのところ、北関東に三ヶ所、関西に二ヶ所、東北に二ヶ所であるが、もう少しだけ場所を増やしたいところ。自粛の空気が終わってそれなりに人と観光客が動き出しているということもあり、偶然見つけたような静かな場所も人の気配がし始めた。穴場と言われる場所も、SNSのせいで穴場ではなくなってきている。時期を見定め、静かに居られる場所を改めて発掘していきたい。
 私にとっての『お花見』は、ざっくり言うなれば『静かな瞑想』に耽るものである。故に、もっと物思いに耽ることのできる場所があってほしい。せめてそれが夜だけであっても、だ。
 季節のものはできる限り楽しむ、というのが私の基本指針であるので、『花見』は嫌いでも桜を追わないという選択肢は存在しない。特に記録をとっているわけではないものの、その時々の得られるものは普通に生活しているときの比ではないからだ。
 今後も葛藤しながらも、春の便りを読み解ける場所を探し続けるのだろう、と思う。自分の足が動くうちは、間違いなく。


《 声を上げること 》

 最初のまえがきにも書いたが、私は物書きである。作家ではないが、物書きであると自称している。ゆえに恐れていることが一つある。それは『言葉の持つ力』というものだ。
 過去を辿れば、そのためにどれだけ痛い思いをしてきたことか。子どものころは不用意に口にしたことで。成長するにつれては逆に言葉が足りなくて。今となっては、それが恐ろしくてまともな『会話』ができなかったりする。環境により培われた他人への不信感がそれに拍車をかけていることもあり、話はできても会話などとはほど遠く。
 仮にも言葉を扱う物書きであるし、それこそ無駄に歳だけは取ってきたので、社交会の場でとりあえず誤魔化すことは造作もない。しかし、所詮は仮初の仮面のようなもの。どうにか受け流すだけで、決してその先には進めない。まあ、それは私にとっては大したことでは無いのである意味どうでもいいのだが。
 ではなぜ、物書きなどという道に足を踏み入れたのか。それは、言葉を文字に落とすことは、形のない自分の思考を整理することにも繋がる、考えているからだ。
『言葉とは元来、声なのだ。文字であれなんであれ、言葉を出すと言うことは声を出すことに同義なのだ(要約)』
 私の尊敬する劇作家の方が、ある舞台のアフタートークでこんなことを述べていた。これを聴いた時、私はまさにその通りだな、と思えた。
 私はとにかく、先述の通り言葉を口に乗せることが苦手である。しかし、頭の中で整理し、一度文字に変えて文章にすることで、完全ではないにせ自分の声を形にできる。それが文章というものだ。これほど、私に向いた形もあるまいて。小説などを書くことを考えなければ、自分の言葉を何かに反映させる手段として、文章はとても優秀なのである。
 ただし、それをリアルタイムにやりとりするとなれば話は別である。
 たとえばオープンチャットなどで文字で会話をすること。そういったものは、会話する言葉が声ではなく文字に置き換わっただけの話だ。言葉が他の人に伝わる手段が変わっただけで、言葉のやりとりをする会話という本質は何も変わっていない。それどころかさらに恐ろしいのは、声だけなら言った言わないの程度で済むが、チャットのような文字列では発言した証拠が残る。誰が何時何分になんといったのか、がはっきりとわかるからだ。
 それでなくとも他人と意思疎通を取るのが難しいと自覚している私が、誤解を招くことを承知で、なんて器用なことができようはずもない。自然、そういった場からも離れることになる。
 なんだか自分で書いていて情けなくなってきたが、これはこれで事実なので仕方ない。社会の場であまり喋らない、声を上げない、チャットなどに参加しないと言われている私の実際は、こういったところに拠るものだ。だからこそ、しがない物書きとしてだけでも、素直な自分でありたい。この節はそういった話である。
 言葉には力があり、魂が宿っている。『言霊』と呼ばれているものだ。これを読んでくださっている皆様には当然馴染み深いものだと思う。
 私は確かにその力を感じ、信じているのだ。不用意に言葉を使えない、不器用な物書きの戯言であると言われようとも。


《 読書メモ 》

 今月紹介する“はずだった”作品は、私淑する村山由佳先生の作品である。

⚫︎『おいしいコーヒーのいれ方』(著;村山由佳先生)
 この物語との最初の出逢いは、NHK-FMで流れていた『青春アドベンチャー』である。
 これを書くに当たってふと気になり、この最初の作品が電波に乗っていた時期を調べてみたら、ナン、ト、1997年。リアルタイムで聴いていたと言うと、ね、年齢がばれる。
 若い頃の著作なので、近年の作品を読んでからこちらを読んでみると、それなりに違和感を覚えるかもしれない。けれど、しっかりと読み通してみればやはり、同じ作者の小説なのだ、というのははっきりとわかるものだ。

 ……と、本当ならここからざっくりとした紹介と感想を書こうとしたのだが。これがまた纏まらないことよ。感情の波に流されて、言葉が出てこない。
 私は、過去に読んだ作品であっても、ふと気がついた時に何度も繰り返して読む。時に荒れている自分を宥めたり、または沈み込んでしまった自分を鼓舞したり。
 『おいコー』も、実は四肢で足りない回数何度も読み返している作品群のひとつである。
 ただ、今回ここに書くにあたって改めて通して読んだのだが、どこでもかしこでも涙が止まらなかった。どんなに私自身の感情を抑えつつどうにか読み進めていても、途中で必ず声が漏れてしまう。
 文字として、文章として読んでいるはずのそれは、確かな映像となって脳裏に再生される。ショーリとかれんの二人、そしてその周りの人々。彼らの住む街、生きる場所。そのすべてから感じるものが、とても温かい。
 当然、彼らの道筋は順風満帆の行路ではない。むしろ二人の周囲、彼らの周りには問題(と言うには若干の齟齬があるが、敢えてそう記載する)のほうが多かったりする。けれど、それらに立ち向かいつつ、時にすれ違い、時に挫けそうになっても、彼らはその道を諦めない。その場所で生きることを諦めない。勝利には(主人公だから当然といえばそうであるが)特に重い試練がある。読み進めている私までも、息ができなくなるほどに。
 ちょっとだけ突っ込んだ話をするなら、彼らの物語は私がもっと違う行動をしていれば(言い方に多少の語弊があるけれども)ありえた選択肢の一つ、のような気がしたのだ。
 最初に出逢ったのは確かにラジオドラマだったが、それを聴いていた当時の私には選択の自由が少なく、原作となった小説を読むことは叶わなかった。実際に本を手にしたのは大学に入学してからのことである。
 そこで初めて読んだ時の第一印象がこれだ。今となっては何とも言えないところであるが、ラジオドラマに出逢った当時にこれをしっかりと読めていたのなら、私にはもっと違う道が見えていた、とは思える程には、目から鱗だった。言葉と文章に当時からかなり依存していたので、現状を鑑みても影響は計り知れなかったであろう。

『私にとって、彼らの物語は、ただそこにある以上に大切な宝箱の中で広がっていた夢そのものと言えるものだから。彼らの見てきた風景を追いかけたい。それが私の中にあるもの。これから先の物語で、我がことのようにドキドキすることを愉しみにしております。ひそかな<祈り>を、また見ることができると信じて』

 記録を見返したら、シリーズが完結した時(『Second Season IX ありふれた祈り』が発売の後;2020年6月)に私はこんな感想を残していた。
 なかなか面白い感想を残したものだな、と自分で思う。今読み返しても、確かに変わらない。こと、二人の大切なあの場所についていえば、今でも自分の大切な日に毎年必ず訪れている。彼らの見て来た風景を追いながら、その先の未来を探している。これから先の物語、と言っているが、ここから2年後に確かにその未来は形になった(『Second Season:アナザーストーリー てのひらの未来』が2022年5月に発刊)。そして今でもなお、未来を追って何度も読み直している。陳腐なセリフではあるものの、本当に、素敵な作品たちなのだ。
 大学生の私は、これをきっかけに他の作品も読むことで、作家『村山由佳先生』を私淑し、今に至る。予定が取れた時にサイン会や講演にも伺ったが、相対してもいまだにまともな挨拶すら覚束無いほど、尊敬している先生である。村山先生のつながりから他の作家先生や小説作品も知る事ができて、読む本の幅が広がった。直接教えを賜ることはなくとも、今後も生涯崇敬する師である。
 さて、この紹介にもならない紹介の最後の締めには、このシリーズの第1巻『キスまでの距離』から、最初の後書きの言葉をお借りしたい。
 お借りしておいて、ではあるが、私自身にはもう決して叶わないことである。しかし、どうか、何かの縁でこの作品シリーズを手にし、村山先生のこの作品群を気に入って、新たな読み手となった方は、この言葉を胸に生きてほしいと思う。

「みんな、いい恋をするんだよ」


《 4月の終わりに 》

 春の便りを探しに、ある程度場所を見繕ってぶらぶらと散歩する。ついでに月末から5月頭の連休の時期、タイミングを見て水芭蕉の薫りを楽しみに北へ向かう。私の4月はそうやって過ぎていく。
 世間では新年度と言われて色々忙しい時期であるものの、正直私にはそこまで関係はない。いや確かに仕事は忙しいというか落ち着かない状況にはなるけれども、毎年のことでそんなに大騒ぎするほどでもない。1年間を通してみれば、どこかで必ず起きる当たり前のこと、その程度だ。
 私にとっては季節の空気を感じ取る方が、よほど重要である。風流な意味合いよりも、読み違えれば自身の体調不良に直結することなので、春に限らずそのあたりは余念がない。花を追って出歩くのはその手段のひとつでもあるのだ。
 毎年必ず訪れる場所では、昨年の記憶を思い返し、比較をしてそこで整理する。併せて見つけた新しい場所では、その場所での春を探しに、誘われるまま散歩する。
 私が好んで訪れている場所が場所なので、つい先日こうやってふらふら出歩いていることを、我が友人には『土地に呼ばれているんだきっと』と言われてしまった。なんだかある意味では的を得ているな、と思う。
 そのうち取り上げるかもしれないが、私自身、特に霊感が強いとか、この世ならざるものが見えるとか、そういうわけではない。しかしながら、その時その場に存在する漠然とした『何か』を常に感じているのは(説明が難しいけれど)紛れも無い事実であるからだ。少し形が違うけれども、所謂第六感に近い、といえばそうかもしれない。私の場合、それが少々特殊な方向に偏っているだけで。
 新緑眩しい季節に移ろい、暑さが気になる時期になってきた。次の散歩は紫の桜と紫陽花を訪ねていくことになるわけだが、今年の水芭蕉の時期が私の記憶より10日ほど繰り上がっているので、もしかしたら6月頭ではなく5月末あたりになるのかもしれない。紫陽花はおそらく6月入ってからでも楽しめるとは思うが、紫の桜については今後の気温次第では早まることは十分にあり得る。梅雨の近づく時期でもあるから、数年前の行路のように京都行きも少し視野に入れておく。
 調子を崩しやすい3・4月を越えたので、しばらくは体調も落ち着いてくれるのではないかな、と思う。5月は今までのペースで書けると思うので、また月末までに、皆様にお会いできれば嬉しい。

 来月もまた、気の向くまま意の向くままの、雑多なお話にお付き合いいただければ幸いである。

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