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鉄腕DASHの危機に思ったこと。


「もう、長くはないかも…」

病院の待合室では聞ききたくない言葉。僕たちは、番組プロデューサーからスタッフルームに集められてこの言葉を聞いた。

◆◆◆

2011年3月11日(金)、14時46分。

東日本大震災。

僕は新卒で入社したテレビ番組制作会社のアシスタントディレクターとして、「ザ!鉄腕!DASH!!」の編集のため、新宿・曙橋の編集所にいた。

「おい!モニターおさえろ!」

普段から鬼みたいに厳しいディレクターの顔は必死だったからか、いつも以上に鬼だった。編集所に無数にあるテレビを指差して命令してくる。僕と先輩ADは、揺れと威圧に耐えながら手を広げ、できるだけ多くの画面に体を押しつけて落ちないようにささえた。

揺れがおさまり、エディターさんが編集を再開させた。僕たちの活躍も(たぶん)あって、棚のものがすこし落ちたくらいで、編集に影響する画面などはいっさい落下しなかった。しかし、しばらくして、なんとなく流していたニュースの映像が、どれも見たことないCGのようなものだらけなり、この災害の大きさを実感させられた。

鉄腕DASHは1時間番組だが、30分の企画2本でできている。地震から2日後、2011年3月13日(日)は「DASH村」と「ご当地調味料いくつ探せるか?」を放送する予定だった。僕は「ご当地調味料いくつ探せるか?」側のADとして、コーナーを完成させ、次はDASH村チームに引き継ぐはずだった。しかし、DASH村チームはいつまでたっても編集所にこない。

その日、DASH村でロケをした素材を編集所に持ってきて、それを2日後の放送でつかう予定だったのだ。曙橋の編集所から福島のDASH村までは車で4〜5時間。その時はまだ、大きな災害だったけど、道が混んでいるだけだろうと思っていた。DASH村チームが編集所に着いたのは翌日の夕方だった。

DASH村は放送どころではなかった。

結局そのまま放送されず、4月末の放送時に番組は今まで隠してきたDASH村の場所を公表した。

なぜなら、4月11日に原子力発電所の事故によりDASH村のある福島県浪江町は計画的避難地域になったたからだ。そこで飼っていた動物たちは各地の農場やスタッフにひきとられ、農業を手伝ってくれていた人たちも浪江町をはなれて、それぞれ避難生活をおくることになった。

ここから、好調だった鉄腕DASHの視聴率はどんどん苦戦していく。

◆当時の体制

テレビ番組のスタッフはプロデューサーとディレクター、そしてアシスタントのAP, ADがいるという構成だ。鉄腕DASHは数名のプロデューサーと、20名くらいディレクターがいた。それぞれにアシスタントがいるので、だいたい50名くらいの所帯だ。

ディレクターの上司がプロデューサーと勘違いされることも多いが、そうではない。担当する仕事がちがう。プロデューサーはおもに番組のお金を担当し、ディレクターは番組の内容(おもしろさ)に責任をもつ。

プロデューサーのお金という部分の意味は広く、大きな企画の可否や、キャスティング、制作スタッフの人選などもおこなうので、上司と見られがちである。カーディガンを肩からかけて「●●ちゃ〜ん、シクヨロ〜」と言っているイメージがあるけれど、これは、この人がキャスティングをになうからだろう。人脈がたいせつで、いろいろな人に話しかけている。

一方、ディレクターは任せられたコンテンツの質をになうので、現場責任者的な要素が強い。職人的な仕事で、実際に出演者とともに、おもしろい番組をつくることが仕事だ。おもしろくなるかどうかは、この人にかかっているため、責任が重く、まわりに対して厳しくなりがちな鬼だ。僕がやっていたADはこの鬼のアシスタント。

当時の番組は毎回2名のディレクターの企画が選ばれ、それを総合演出とプロデューサーたちがチェックして、OKであれば放送する。プロデューサーたちはほとんど意見しない。総合演出 "1強" みたいな状況だ。

局にもよるが、総合演出とは「番組の内容」にもっとも大きな権限を持っている、ディレクターの中のディレクターのような人だ。企画はもちろん、ナレーションの文言やBGM、テロップのデザインにいたるまで、この人のOKがないと放送されない。僕たちADが鬼だと恐れていたディレクターの頂点。鬼オブ鬼がこの総合演出という人なのだ。

局員が務めることが多い、この総合演出のポジションを鉄腕DASHでは、同じ制作会社の先輩が務めていることが誇りだった。

◆冒頭の話

震災から1年くらいたったころだろうか、自分の会社のプロデューサーに会社のDASHスタッフは呼びだされた。

「もう、長くはないかも…」

番組がそろそろ危ないということだった。

深夜帯から数えると1995年から16年以上歴史のあった長寿番組は、DASH村が被災したことにより、除染の方法など、内容も暗く、重いものが中心となり、視聴率がかなり苦戦していた。それもあり、終了が濃厚になったとのことだった。スタッフの中には鉄腕DASHしか知らないスタッフも多く、重苦しい雰囲気で会議は終了した。

それからしばらく、いつ番組が終わるのかと思いながら、仕事はいつも通りつづいた。

2012年7月、会議のいちばん上座に座っていた総合演出が、僕の会社の先輩から、局員に変わった。局の判断として、テコ入れをおこない、番組を存続させるということにしたらしい。悔しかった。くわしいことは教えてくれない。

前の総合演出は、もともと深夜の鉄腕DASHのADからキャリアをスタートさせて、制作会社のスタッフながら総合演出まで上りつめた人だった。

その人は、DASH島の立ち上げもおこなった。DASH島の放送自体は総合演出が変わったあとの2012年9月からスタートするのだが、無人島を開拓するという企画の大枠は、前の総合演出がつくりあげたものだ。線路の完成までに1年以上かかったが、もとから無人島でSLを走らせたいなどと企画していたクレイジーな人だった。

当時の僕からは、100人くらいの小さな会社ながら、雲の上の人すぎて、鬼の中の鬼すぎて、まともに見れないくらいおそれていたけれど、自分の会社の先輩が、誰もが知る番組の総合演出ということが誇りだった。

僕が会社をやめる時、怒られたことを思い出した。「おれのところにも挨拶にくるのが筋だろう」ほんとにすみません。だって、すごくこわかったから。

最近、インタビュー記事を見つけて、当時の恐怖を思い出した。あいかわらず、メガネの奥が笑っていない。

インタビュー記事を読んで、当時たくさん怒られたこと、そして、総合演出が変わったときの気持ちも思い出しました。

僕は今、制作職として企業の広告に関わる仕事をしています。今思い返すと、あの時の悔しさが、どのようにものづくりに取り組むかということを考えるきっかけになっていたことに気づきました。転職で立場を変えながら、目的を持って仕事に取り組めるようになった原点、「スタートライン」だったと思います。

僕はもう少しで、出会ったときのあなたの歳と同じくらいの年齢になります。まだまだあなたの足元にもおよびません。正直、追いつける気がしないのですが、努力しつづけます。

これからも僕の鬼の中の鬼でいてください。

では、ちゃんと話しかけられるようになるまで、話しかけられるようになるまで。

言葉の企画2020/66番