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私の自己紹介①~学生時代の原体験を振り返る”これまで”編~

第1回目の投稿をしてから、noteページでの自己紹介をしていなかったことに気付きました((+_+))そこで、3回に分けて、私自身の「これまで(学生時代の原体験)」、「今(社会人になってから)」、そして「これから(今後どういう活動をしていきたいか)」について書きたいと思います。第1回目の今回は、私がサードプレイス的な場や即興的・共創造的な遊び・活動に興味や関心を抱く原体験となる学生時代のエピソードを書いていきたいと思います。長くなってしまいましたが、ご覧いただけたら嬉しいです!

狭義の「学校」的価値観への抵抗―遅れてきた反抗期?―

私は高校生までの間、担任の先生方にも恵まれたこともあり、「学校」という場に対して特に抵抗感を抱くことなく進学してきました。唯一苦しかったのは、高校で感じた偏差値至上主義的な価値観。3年生の頃の模擬試験、試験監督をされていた先生が「皆さん、必ず志望校に〇〇大学(いわゆる偏差値的に高い大学)と書きましょう」とおっしゃられたのに対して、自分なりの将来のビジョンや進学先を決めていた私は、先生に聞こえるか聞こえないかの声で「はぁ?何それ。意味わかんない。絶対書かないし!」と反発したことを覚えています。

きっと先生からすれば、今の自分の「実力」がどれくらいなのかを試すためという思いがあったのでしょう。けれど、志望していない大学の名前を書くのは模試であったとしても失礼なことだし、その人の夢や目標を見ずに偏差値とかいうわけのわからない数値だけで合否がつけられ人生が左右されてしまうというシステム自体の意味不明さに、当時の私は嫌気がさしたのだと思います。それまであまり反発も反抗もしないこどもでしたが、この時初めて「学校って何なんだ!テストって何なんだ!受験って何なんだ!」という違和感を抱きました。受験直前には、追い込まれた周りの友だちから「〇〇大学だったら、どの学部でもいい」「受験に失敗したら死ぬしかない」という呟きが聴こえてきて、ますます「命をすり減らしてまで、いったい何をやっているんだろう」と感じたことを覚えています。

「これ以上、偏差値に縛られたくない!」「高校や大学の”ランク”で判断される環境から出たい!」そんな思いで、それまで住んでいた地域から少し離れた大学へと進学しました。

「小学校の先生」から 「学校外」へ

遅れてきた反抗期の勢いと直感に導かれて進学した教育系の大学。「小学校の先生になりたい」という漠然とした思いを抱いていた私でしたが、再び「教員採用試験」という壁に直面します。合格を見据えていた仲間たちは大学1年生の頃から勉強を始めていました。私も遅れをとるまいと参考書を購入してパラパラと眺めたのですが、ここで高校3年生の頃に抱いた違和感が蘇ってきました。「なんだこれ。結局また試験じゃん。また決められたことを暗記しなきゃいけないんじゃん!」―。

さらに「もし自分が先生になったら、こどもたちに同じように『一方的に教えられる』『覚えないとテストで困る』という苦しみや重圧を味わわせてしまうんじゃないか?」という思いが頭に浮かびました。そうなってくると、いよいよ教採の「勉強」に全く身が入らなくなります。たまたまテレビでフリースクールについての特集が放送されていたことも相まって「学校以外の場について調べてみたい!」という思いを抱くようになり、フリースクールや学童保育などの実践書などを読むようになりました。

「センセイ」「オトナ」から、家でも学校でもない場で「いま、ここ」を共に生きる存在へ~放課後こども教室でのアルバイト~

「小学校の先生になる」という目標が崩れた自分にとってのやりがい・生きがいは、放課後こども教室や百貨店の玩具売り場のアルバイト(おもちゃの体験会やイベント、地域の祭りへの出店など、様々な経験をさせていただけた)でのこどもたちとの関わりでした。

放課後こども教室では、自分の中に蔓延っている狭苦しい「センセイ」「オトナ」観を問い直すような体験をすることができました。まだまだ「センセイ」「オトナ」に囚われていた大学1年生の頃の記録を見返すと、特別支援学級に在籍するこどもとの関わりで「すごろく遊びを通して、数の概念を獲得させる」のようなことが書かれています。どこか上から「導いてあげる」という傲慢さを持っていたように思います。

そんな私の価値観を崩してくれたのが、「学校一の問題児」というレッテルを学校側から貼られてしまっていた当時小学2年生の男の子でした。ある日、彼と、彼の友だちと3人で野球をしていました。バッターが彼、ピッチャーが友だち、私はキャッチャー。彼の友だちは野球を習っているわけではなく、なかなかストライクが入りません。そんな友だちに対して、彼は「ヘタクソ!」「どこ投げてんだよ!」などと、ひたすらに罵声を浴びせていました。「どうしてそんなこと言うの?」すかさず私は問いかけることに。「彼の思いを聴くだけ聴いて、『でもね、それはおかしいことだよ!』と『正しい』ことを教えてあげよう」―ここにも「センセイ」「オトナ」の嫌らしい思惑が見え隠れしていたように思います。

しかし、そんな私の問いに対して彼から返ってきたのは「だって、オレも上の学年の子から言われてるんだ!だからアイツ(友だち)にも言ってやるんだ!」という切実な言葉。その言葉を聴いて、私は返す言葉を失いました。私自身、少年野球をしていた頃に自己肯定感をボロボロに傷つけられるような言葉を浴び、野球が大嫌いになるどころか自らの命を絶つことさえ考えるほどに落ち込んだという体験があります。そんな私の辛い経験と彼の言葉とが響き合い、今までいかに自分が「コドモ-オトナ」という構図に囚われ、様々なことを感じ、考え、同じ「いま、ここ」を生きている存在であるという視点を持てていなかったかを思い知って情けなくなりました。同時に、そんな彼を「学校一問題児」という視点でしか見れない「オトナ」たちに対して怒りがこみあげてきました。

ドカッ

言葉を失い立ち尽くしている私の背中に衝撃が走りました。振り返ると、「石」(それもかなり大きいもの)が転がっているではありませんか。その石からさらに視線を遠くへやると、先ほどまで一緒に野球をしていた彼の友だちが鋭い眼で私を睨んでいます。「なんでオレを助けてくれないんだ!」「遊びを止めるな!」―彼が私の背中に石を投げた真意は未だにわかりません。ただ、背中の痛みよりも、心の痛みのほうが大きかったことは間違いありません。

「学校一の問題児」というレッテルを貼られてしまったこどもが持つ傷や痛みに共鳴したことに加え、目が覚めるような重たい一撃を心に受けたことがきっかけとなり、その日以降、私は日々の出来事や感じたことを記録するようになりました。後に大学院でご指導いただくことになる先生から「こどもとの関わりを記録に残しておくといいよ」とアドバイスいただいたことも大きかったように思います。単なる出来事の羅列や「こうしたら、こうなった」という表面的なものではなく、嬉しかったこと、楽しかったこと、さらには悲しい体験や、怒りに震えたこと(たいていは「オトナ」の価値観に対する憤りですが)などを率直に書き、気づけば記録がルーズリーフ表裏4~5枚になる日もざらでした。学校にある「立入禁止」の池で一緒に釣りごっこをしたこと、当時はやっていたサッカーアニメの真似をした謎のサッカー遊びを全力でしたこと、高学年のケンカの間に入りいつしか双方の関係が深まる瞬間に立ち会ったこと、アルバイト後にこどもたちと一緒に帰りながらポケモンの話をしたこと…こどもたちと紡いだ楽しい思い出は今でも鮮明に覚えています。記録を書いていくうちに自分なりのこども観が深まっただけでなく、家でも学校でもない場で、親でも先生でもない存在として働きたいという思いが一層募りました。

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↑ある日、高学年の子たちから仲間外れにされてしまった低学年の子たちが机を使って自分たちだけの秘密基地を作った時の看板。こどもたちの世界に入れてもらえたことが嬉しくて、大切に取っておいています。文やイラストだけでなく、記録にはこどもたちからもらった折り紙なども貼られています。

「遊び方」が決められた「おもちゃ」(を名乗る物体)から、多様な遊びが生まれるおもちゃへ~おもちゃの体験会でのエピソード~

もう1つ行なっていた百貨店の玩具売り場のアルバイトも、私の原点を振り返る上では欠かせない経験です。学部生~大学院生の6年間勤めた売り場では、接客・販売等の業務のほかに小規模ながらおもちゃの体験会や大会運営などを任せていただきました。

「おもちゃ」ってなんだろう…と考えるきっかけになった体験を1つ。磁気の力でロボットに変形し対戦する球体状のおもちゃの体験会に、おそらく未就学の女の子とおばあちゃんが訪れました。女の子は純粋に球体状のおもちゃが転がる様子を眺めたり、時折たまたまパカッと開いたりするのを楽しんでいる様子でした。

しかしそんな女の子の遊びは、「あ~、それじゃあ遊び方が違う!いい?今からおばあちゃんがやるから、よ~く見てて!…ほら!」というおばあちゃんの叫び声によって途絶えてしまいました。おばあちゃんは力強く女の子の手からおもちゃを取ると、一生懸命「お手本」を見せ始めました。可愛いお孫さんに向けて、きっと良かれと思ってのことでしょう。それにおばあちゃんが「お手本」として示した「遊び方」は、完全に「マニュアル」的には「正しい」ものでした。しかし、熱心に教えるおばあちゃんとは対照的に、見る見るうちに女の子の顔から生気が失われ、しまいには「…もう帰る」と呟いてその場から立ち去ってしまったのでした。

いったい何が女の子の遊びを奪ってしまったのでしょう。この体験の直後、私は「おばあちゃんが余計なことをしたせいで…」と感じていました。しかしよくよく考えると、このような「正しい」行動を方向付けさせてしまうような―ゆえにこどもと大人との距離を生じさせるような―おもちゃの構造が何より問題だったのではないか?という視点が生まれてきました。

この出来事を通して、世の中に溢れている「おもちゃ」(を名乗る物体)が、いかに「マニュアル化」され、多様な遊び方が”できない”ように設計されているかに気付きました。売り手側としては利益を得なければならないため、このようなストラテジーを用いるのは致し方ないのかも知れません。しかしそのことによって、本来はこどもたちの遊びを膨らませるはずのおもちゃがその役割を果たしていない状況をつくってしまっているとしたら本末転倒です。このことに気付いて以来、「既存のおもちゃの別の遊び方を考える」という商売泣かせ?の体験会をこどもたちと一緒に行なったり、社会人になってからは多様な遊び方が展開しそうなおもちゃやアナログゲームを集めたりするようになりました。「このおもちゃで、どんな新しい遊びを創り出すかな?」とこどもたちが遊ぶ様子を眺める時間が、私にとっての幸せな時間です。

「マニュアル化」された「イベント」から、共創造的なイベント・遊びづくりへ~「裏大会」、開催!~

体験会の他に、メーカーさんが送ってくださったキットを使ったおもちゃの大会運営もさせていただきました。1年目の最初はなかなか参加者が集まらなかったおもちゃの大会でしたが、回数を重ねるたびに少しずつ足を運んでくださる方々が増え、ベーゴマをモデルにしたおもちゃの流行ピーク時には100人超に到達するまでになりました。フロアを繋ぐ階段にびっしりとお客さんが集まってくださった時には驚きと主に喜びがこみあげてきました。

そんなおもちゃの大会ですが、「マニュアル」通りに行なった場合、「敗北した子はその場で解散」となります。あくまで販促が目的であるため本来であれば「マニュアル」以上のことを行う必要は全くなく、したがって負けた子に対する配慮など必要はありません(むしろ逆にスタッフが1人イベント運営に取られてしまいますし、お客さんの回転率を減らしてしまうため、売り場的には望ましくない行為なのでしょう)。しかし、イベントを重ねるたびに少しずつこどもたちや保護者の方々との繋がりができ、「せっかく来ていただける方々に対して『負けたらその場でさようなら』にしてしまうことが辛い。これでいいのか!」と心苦しく感じるようになりました。

また、6年間のアルバイト経験の中で常連になってくれた子たちが小学生から中学生へと成長していき、嬉しいことに「中学生になっても大会に参加したいんだけど…」という声をもらうことができました。そうなってくると、「小学生以下限定」という「マニュアル」の規定に対してもモヤモヤが募ります。もちろんホームぺージにも掲載される公式大会であり、より大きな地区大会の予選に位置づけられているため勝手にルールを破ることはできません。しかし一方で、「マニュアル」を盾にして、つい先日までは大会に出ることができた子たちの思いをバッサリ切り捨ててしまうことは私にはできませんでした。

そこで、アルバイトの分際にもかかわらず日々型破りなことばかりしている私を温かく応援してくださっていた上司に相談し、公式大会で敗れてしまった子も、中学生以上の子も参加できるような「裏大会」を開催させていただけることになりました。参加者が喜び大会が盛り上がるようにとオリジナルの景品等まで考えてくださった上司、そしてこの大会にご理解・ご協力いただけた百貨店の方々に心から感謝です。「裏大会」開催に伴い、当時来てくれていた中学生たちに向けて手書きで手紙を書き、公式ではないけれどみんなの居場所を守りたいこと、一緒に楽しみたいことなどを伝えました。その中の1人で、今では社会人となった子とは、離れてしまった今でも連絡を取り合い時折会う仲です。

公式大会も「裏大会」も基本的に私1人で運営していたのですが、やがて少しずつ保護者の方が「裏大会」の運営をサポートしてくださるようになりました。さらにはご自身のお子さんではないこどもたちに技を教えてくださったり、こどもたちと本気で勝負してくださったりする光景も見られるように。全国大会に出場するような子と親御さんが「やっぱり、ここのお店が良いですね!」と言って立ち寄ってくださったり、特別支援学校の高等部に通う子が「裏大会」にこそ出場はしないけれど私に会うために毎回来てくれ、周りの子たちが時折「勝手におもちゃをいじらないで!」と注意しながらもその子の存在を認めてくれたり…多様な人々が集い、未知の活動を協働で創っていくというイメージの原風景は、この「裏大会」にあると感じます。そんな様子を見てくださった上司が、ある日「今、学校に行くことが辛い子が増えてるら?だから、学校の中にプレイルーム的な部屋をつくって”ひらにぃ”(私のこと)がこういうイベントやれば、学校に行きにくい子たちも楽しく登校できるんじゃない?」と話してくださったことがありました。辛い日々の中、時折ふとこの言葉が浮かんできます。

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↑拡声器を使わなければ声が届かないほど、たくさんの参加者が集まってくださいました。たくさんの素敵な出会いに感謝です。

「既存」「既成」「マニュアル通り」から「即興」「共創造」へ~別室登校の中学生と創った即興物語~

「既存」「既成」「マニュアル通り」への違和感を抱き始めた学生時代。そこからさらに「即興」「共創造」というイメージへと繋がったきっかけは、学部生の頃、2年間関わらせていただいた、当時別室登校をしていた中学生と過ごした体験でした。「勉強」「受験」というプレッシャーをどこかで感じながらも、一緒に絵を描いたり、図書室で寝ころびながら本を読んだりして世界を共有し合うことを楽しむ日々。白紙にマンガのキャラクターなどを描き合うのが、いつしか二人の”いつものパターン”になっていきました。

ある日、彼は「オレ、おじいちゃんとおばあちゃんの絵を描けるよ!」と言って、白紙に即興でイラストを描き始めました。そんな彼に応じる形で、私は「おやおや、じいさんや。今日は良い天気ですねぇ~」などと適当なセリフをあてていきます。なんでそうしたのかはわかりません。直感的に「こうしたら楽しくなりそうだぞ!」と思ったのでしょう。すると、そんな私の行動を受け、彼は新たにおじいさん・おばあさんの家族を描き始めていきました。それにまた私がセリフをあて…というやり取りをしばらく繰り返し、いつしか「釣り人の父は家族を顧みず今日も海原へ出る。そんな夫に苦労する母。娘や息子は順調にグレていく。けれどなんとなく繋がりあっている」という壮大なストーリーが出来上がりました。「次、どうなるだろう…」「なるほど、そうきたか!じゃあ、こんな展開にしてみようかな?」と、ゴールが決まっていないストーリーを協働で創り出すプロセスはとても面白く、お互い時間を忘れ、ここが学校であるということも忘れて大盛り上がり。最終的にハッピーエンドなのかバッドエンドなのかよくわからない終わり方をしたこの物語には、(私の苗字にも彼の苗字にも一切関係なく、単純に世間一般的な苗字から閃いたのか)「佐藤んち」というタイトルが付けられることに。そこから彼がさらに一捻り加え、最終的に「さとうおんち」になりました。

「未知」だからこそ共創造が生まれる。「正解」がないからこそ、それぞれのアプローチの違いは次の展開を生み出すためのエネルギーになる。「結果」ではなく「プロセス」の動き・流れそのものの中に学びや育ちなどの大切なものが詰まっており、それを捉える視点が何より重要―。修論を書く際の軸にもなり、のちにレッジョ・エミリアの哲学と共鳴しコミュニティー・スペースでの活動で具体的な形となって実現した考え方の原点が、この「さとうおんち」の体験にあるように思います。

まとめ

長くなってしまいましたが、以上が学生時代の私の原体験です。10年ほど経ってしまいましたが、それでも自分の中で色褪せずに残っている大切な思い出。「あの時過ごした生き生きとした時間をもう一度体験したい」という気持ちが、今の自分を突き動かす原動力になっているように思います。

次回は、悩みながらも手探りを続けた「今(社会人になってから)」についてまとめていきたいと思います。

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