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島の〈ユダヤ人〉 ノイエンガメ収容所: 「ガーンジー島の読書会」 II

写真はガーンジー島とベルゲン・ベルゼンの石碑
※フランス語訳で読んでいるため、固有名詞や訳文が邦訳と違う場合があります。

本作中(第2部:1946.5.27 ジュリエットよりシドニーへ まで読了時点)に、ジョン・ブッカーというユダヤ人が登場する。
読書会のメンバーで、島内にいるユダヤ人は全員登録をするよう命令が下ったとき、読書会の仲間の一部と相談し、他人の名前で偽の証明書を作り、登録を免れる。

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が、あるとき、なりすました人物の写真を見た島民がドイツ兵に密告、彼はノイエンガメ収容所に送られる。

ノイエンガメ収容所 について詳しくみてみよう。*

ドイツ北西部にあったこの地域最大の収容所。ザクセンハウゼン収容所の圏外収容所として建設されたが、のちにハンブルクの都市開発向けレンガ製造工事のための、労働収容所として独立。周辺に90以上の付属収容所も作られた。
当初はほとんどドイツ人で、政治犯、ユダヤ人、シンティ・ロマ、同性愛者やエホバの証人が送られたが、徐々にポーランド人、ロシア兵捕虜、そしてヨーロッパ諸国にいたユダヤ人が収容され、過酷な労働を強いられた。
1938〜1945の間におよそ10万人がここと周辺の収容所で働き、ノイエンガメでは最低でも4万2,900人が亡くなった。

戦況の悪化した1945年3月、すべてのデンマーク人とノルウェー人収容者はスウェーデンへ移送され、収容所の撤去が始まった。
数千名の収容者はヴェッベリン、ベルゲン・ベルゼンの受け入れ収容所に移され、食料も医療もなく、不衛生な環境に放置される。
また、3隻の船に移された数千名の収容者は飢えや病気、イギリス軍の空爆で死亡。
生き残ったのはわずか450名だった。

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作中人物のジョン・ブッカーは、ノイエンガメで不発弾処理の任を負い、毎朝「ああ、今日も生きてたか」と思う日々。
『死んでもいなかったが、生きてもいなかった。』と彼は言う。
1年後、ベルゲン・ベルゼンへ移送。
ベルゲン・ベルゼンはポーランドはじめ東方の強制、労働、あるいは絶滅収容所から、終戦間近に生存していた収容者たちが送られたところだ。
アンネ・フランクはここで亡くなっている。

到着すると大きな穴を掘り、死体を埋める作業をさせられる。
間に合わないと遺体を積んでガソリンをかけ、そのまま焼いた。
西から米英軍、東からはソ連軍に迫られ、痕跡を隠そうとナチスは躍起だった。


強制、絶滅収容所では、殺りく行為はSSがしたが、その前の衣服を脱がせたり、ガス室に入れたり、また遺体の運搬、焼却といった作業は、収容者がやらされた。
明日はわが身の者たちが、先に死んだ者たちの遺体を処理し続けた。
そんな中の一人だったジョン・ブッカーは、イギリス軍により解放され、ガーンジー島に生還することができた。

語れなかった生還者たち

彼は収容所での体験を、読書会の人たちの前では語っていない、という設定になっている。
皆を怖がらせるから、と彼は言うが、多くの生還者が戦後すぐには収容所での体験を語れなかった現実がある。
本作では描かれていないが、生き残れたのは悪い手段を使ったから、ずるいことをしたからという偏見があり、解放後、口を閉ざした人たちは少なくない。
また、実際に収容所やユダヤ人評議会などSSに協力することで命拾いした人たちは、それを見ていた生還者たちに憎まれ、戦後、隠れて生きた人もいる。

SSがわずかな人数で大量殺りくができたのは、収容者たちに自分の住むところ、殺されるところ、遺体の処理されるところを作らせ、そこで働かせたから。
想像を超える現実を生きた人たちの話は、自分ならどうするか、と考えないではいられない。

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*ノイエンガメ収容所については、ノイエンガメ強制収容所記念館パンフレットほか参照


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